【掌編】卒業写真

 卒業アルバムの製作に関わるアルバイトをしていたことがあって、各地の写真館が撮影した、集合写真や行事の写真などを、パソコンの画像処理ソフトを使って、明るさや色調などを補正する。生徒や先生の個人的なスナップや、プリントされた写真をスキャンしただけのデータを補正することもあった。
 京都や日光などあの時おれは一生分の旅行写真を見たのではないだろうか。
 そうやって日に数十枚、数百枚の単位で写真を見ていると、割合に同じような顔をしている人の多いことに気付く。よく祖父母が最近のタレントはみんな同じ顔に見える、なんてことを云っていたが、それに近い感覚なのかもしれない。
 しかしどう見ても同一人物としか思えないような生徒がいた。どの学校の写真にもその顔を見つける。隣の机の先輩にそれを云うと、西洋人が東洋人の顔を見分け難いとかいう、ああいう感じだろうと云われてしまった。確かにその可能性も無くはない。十近くも年下の子どもたちの顔など同じに見えても、もはや自分とは別の生き物なのだ。そう思うと少し老けてしまったような気がして悲しくなった。

 帰省の折、実家の押し入れに仕舞い込んであった卒業アルバムを引っ張り出してみた。小中高と三冊ある。幼稚園と大学ではそれ自体が無かった。
 やはりその中にもいた。
 すべてに写っていながら覚えていないなんて、個人写真の様な顔と名前を特定出来るような写真にはいない。授業風景や行事のスナップにはいる。
 転校生だった可能性も無くはないが、見る限り小学校なら六年間、中高は三年間通い続けていたように、どの時期の写真にも写り込んでいる。

 ある朝、最寄り駅へ向かう途中、不意に呼び止められた。自分と同世代くらいの。
 「覚えてる?」
 笑いながら尋ねられたその問いかけにどう答えれば良いのか、おれはまだ決めかねている。

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