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無駄を能動的に作り出していく



先日、女優の芦田愛菜さんが

もし報われない努力があるのなら、それは努力とは言えない。 王貞治

を座右の銘にしているという記事を読みました。

私はその記事を読んだ時に「では、報われない努力が努力でないというのはおいておき、果たしてそれは無駄なことだったのだろうか?」と話の本質をいつの間にかすり替えていました。私はよく議論があっちこちに飛んでしまいます。

そしてその時私は報われない努力は「無駄なのかもな」と思いました。というより「報われない」というニュアンスは語義的に「無駄」という意味を内包していそうです。

けれど「無駄は大切だよな」ということは強く意識していました。

今回はそんな無駄についてお話ししたいと思います。




突然ですがたとえどんなに明確な目的や目標を持っていても、その道中で思いもよらないことが起こることがあります。例をあげます。

私はこけしが好きで、はるばる宮城県の鳴子温泉までこけしを買いに行ったことがあります。そこでたまたま出会った(こけしとは全く関係のない)住民の方と出会いました。そして今ではその方とは家族ぐるみでお世話になっており、一緒にビジネスをやるほどの関係となっています。


思想家の東浩紀はまさにこれを観光の「誤配」と表現するでしょう。「誤配」とは郵便が時々違う場所に届いてしまう誤配送のように、本来の目的とは異なることが発生するという意味で使われています。

先ほどの例では、「こけしを見に行く」という明確な目的からするとこけしとは関係のない住民の方との出会いは「無駄」であり誤配ということになります。


けれども私は東浩紀と同じく、まさにこの無駄、誤配こそが人生に豊かさをもたらし、そして社会を平和な方向へと導いてくれるのではないかと、期待をしているのです。

なぜなら無駄のブリコラージュが新たなイノベーションを起こすかもしれないからです。誤配が私のように人生を変えるかもしれないからです。東浩紀がいうように無駄話こそが哲学かもしれないからです。


こうした無駄や誤配は能動的に作っていくものだというのは逆説的なことです。これは無駄や誤配というのは確率的なものなので必然的に多くの行動を要するからです。



ですので

報われない努力は努力ではないし無駄であるが、その無駄が私たちの希望であり、その無駄は確率的なものであるから、「報われない努力」とやらをどんどんしてやろう

というのが最初のことばに対する私なりの考えになるのでしょうか。



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