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公民科教育における「他者論」

今年度は2年ぶりに倫理の授業を担当していますが、授業を組み立てるうえで参考にしている本の一つが戸谷洋志『Jポップで考える哲学』です。

この本の面白い点は、Jポップの歌詞分析という切り口もさることながら、「自分」「恋愛」「時間」「死」「人生」という5つのテーマを取り上げたうえで、第二章「恋愛」の最後で他者の他者性に言及している点です。
高校の倫理の教科書では、「私とは誰か」といった自己に関する問いや思想は様々なものが取り上げられていますが、「他者とは誰か」「他者を理解するとはどういうことか」といった他者に関する問いや思想はほとんど取り上げられていません。個人的には、倫理や現代社会の学習の導入にあたって他者論やコミュニケーション論を本格的に扱っても良いのではないかと考えています。
私自身がこうした問題意識を持つようになった一つのきっかけは、大学時代に「コミュニケーションの社会学」という学問分野に少しだけ触れたことです。特に、大学3年次に読んだ奥村隆『反コミュニケーション』は、今でも折に触れて読み返すほどの重要な一冊です。

この本では、「わかりあうコミュニケーションは良いコミュニケーションか?」という問いを様々な哲学者や社会学者の思想を参照しながら検証しています。やや難易度は高いですが、高校生のうちにこの本に出会っていればもう少し楽に生きられたかなぁと思います。
この本の影響を受けて、倫理や現代社会の授業ではゴフマンの理論を必ず扱うようにしています。アーヴィング・ゴフマン(1922-82)はアメリカの社会学者で、人々の間の相互行為秩序に関する理論を打ち立てた人物です。日本では紹介されることが少なく、高校の倫理の教科書にはまず載っていませんが、人間の相互行為を演技として捉えるドラマツルギーの考え方を紹介することで「他者理解」に対する考えを深めることができます。(ゴフマンの相互行為理論のポイントについては、https://guides.lib.kyushu-u.ac.jp/goffman などをご参照ください)
以下の引用は、ゴフマンの考え方を紹介した部分の一節です。この一節を読んでもらったうえで生徒に意見を聞くと、「お互い空気を読んで相手のことをあれこれ詮索しないからこそ、人間関係は上手くいくのかも…」など様々な感想が出てきます。

人格を礼拝する儀式はそこに人を閉じ込めて窮屈にし、コミュニケーションを無意味なものにしてしまう。さらに、そこからはみ出たものを逸脱者として排除することで儀式の秩序を維持しようとする暴力的な力を持っている。だが、儀式を剥ぎ取られた時、人格の尊厳も奪い取られてしまうのではないか。とすれば、儀式というものこそ、人間が人間としての尊厳を守っていくための不可欠の装置なのではないだろうか。
ルソーはこれを「障害」として剥ぎ取ろうとする。儀式も礼儀作法も演技も、飾りも外見も服装も、全て「透明な交流」を阻害するものとして、それを剥ぎ取ったユートピアを目指そうとするのだ。しかし、これは恐るべきディストピアなのではないだろうか。儀式なき世界は、人間の尊厳を奪い取った世界なのではないだろうか。(奥村隆『反コミュニケーション』p.151)

また、ディストピアとしての「儀式なき世界」を別の角度から描いているのが、藤子・F・不二雄の「テレパ椎」というSF作品です。周囲の人の思考を読み取れるドングリを拾った自称イラストレーターの顛末を描いた名作で、「ドラえもん」のひみつ道具にもなっているので知っている生徒も多いのですが、この作品を紹介することで「わかりあうコミュニケーションは良いコミュニケーションか?」という問いに対して更なる揺さぶりをかけることができます。

生徒達は、学校生活の中で同級生や先輩・後輩と接する中で様々な人間関係の悩みに直面します。「あの人の考えていることが分からない」「あの人のことをもっと知りたい」といった悩みも少なくないでしょう。そうした悩みに対して、他者論の考え方(特にゴフマンの思想)は一つの糸口を示すことができるのではないかと思います。
ゴフマンの思想と併せて、「他者を理解しようとする試みは必ず暴力を伴う」というレヴィナスの思想も紹介するのですが(レヴィナスは倫理の教科書にも載っています)、やはりゴフマンとレヴィナスの思想は生徒の印象に強く残るようです。それだけ、生徒にとって「いかに他者と関わるか」という問題は切実だということでしょう。
もちろん、このような視点は教員も意識しておく必要があります。日常的に生徒と接していると、生徒のことが分かったような錯覚に陥ったり、「この生徒のことをもっと知りたい」という欲求に駆られたりすることも少なくありません。しかし、どこまで行っても生徒は他者。しかも、教員と生徒という立場差のある他者です。「あの生徒は○○だからね」と分かったような口を利くことに対しては自制的であらねばと思います。
他者理解や異文化理解は公民科教育の目的の一つといえますが、お題目的に「他者を尊重しましょう」というだけではなく、他者論の知見を紹介しながら他者理解の困難さを実感してもらい、そのうえで「分かりあえない他者とどのように関わることができるのか」と問いを進めていくことが重要なのではないでしょうか。この点に関しては、ブレイディみかこさんの著書に度々登場する「自分で誰かの靴を履いてみる」という考え方からも学べることがありそうです。

他者論やコミュニケーション論をもっと大胆に取り入れて、他者との関わり方についてじっくり考える機会を設けることができれば、倫理や現代社会の学習の前提を整えられるだけではなく、人間関係もより豊かになるのではないかと思います。もちろん、時間的な制約が大きいことは重々承知していますが…
「公民科教育において社会学の知をどう活かすか」というテーマは個人的な研究関心でもあるので、今後も引き続き考えていきたいと思います。

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