「花束みたいな恋をした」を軽い気持ちでみたら、頭部を花束でぶん殴られた

なんか気持ちが沈んでるし、心温まる話見たいなあ、と思って、ネトフリを漁っていると、以前から気になっていた「花束みたいな恋をした」を見つけた。

昔、映画館に友達と見に行ったのだが、私が予約する映画館を間違えてしまい、結局、映画料金だけを払って、映画を見ることができずに帰ったという苦い思い出がある映画だ。

とは言っても、全然情報を仕入れていなかった。強いて言えば、サブカル同士が恋愛する話というくらいだった。

前から気になっていた+恋愛映画だしほんわするだろ、という軽々しい気持ちで映画を見始めたのだが、サブカルがサブカルを花束でぶん殴ったと思ったら、恋愛を通して社会の厳しさを教えられる、地獄映画でした。

映画前半はとにかく、自分を世間に馴染めない、周囲とは異なる特別な人間だと思っている同士の痛々しい考えと恋愛をこれでもかと見せてくる。序盤に出てきた男は「ショーシャンクの空に」をマニアックな映画としてあげ、女性は最近見た映画に「実写」の「魔女の宅急便」をあげ、主演のクソサブカル菅田将暉こと麦くんがそれを嘲笑する。お前みたいなやつが漫画やアニメの実写化をやってしまうんだなと…。

わかる!だけに辛い。恥ずかしい。私はここまであからさまにはしてない(つもり)だけど、心の隅の方ではこういう気持ちがあるからこそ、こんなに恥ずかしいことなんだと思い知らされる。

麦のモットーは現状維持!2人で一緒に過ごせればいいから就職はやめよう!フリーターになって一緒に暮らそう!、猫を飼おう!

とても綺麗なお花畑が見えた。将来と周りが見えてなさすぎる。もう少し考えた方がいいかもとは思ってしまうが、彼らにはそんなの聞こえないし、野暮なんだろう。ただ、どこか幸せそうで羨ましさはあるから、嫉妬も混ざっているのだろう。

じゃあ、サブカル要素を抜いた恋愛映画としてはいいのではないか、とも思ったが、恋愛は恋愛で、これでもかと、それはそれは甘い幸せな日常を見せつけられる。そんな青春を送ってこなかったし、送る可能性のない自分は、これを腐すこと自体が惨めに感じてしまう。もう負けだ。

そう思っていたら、中盤から不穏な空気が流れ始める。

麦くんの親が仕送りを止めて、長岡の花火の募金に仕送りのお金を回し始めた。それもあって、麦くんと、ジブリ映画のヒロインのような有村架純こと絹が就活を始めた。そして、簿記をとった絹が先に就活を終える。麦くんは5時で退社できると聞いていた会社に入社した結果、営業に配属させられ、日常生活が仕事で埋められていく。

急に不穏すぎる!辛い!今度は普通に幸せそうなカップルの不穏な空気が辛すぎる。

よく言えば、絹は仕事とプライベートの棲み分けをしっかり行うことによって、クソサブカルを続けている。時間があれば舞台や映画を見に行き、今村夏子を読み、ゼルダの伝説をやっている。

麦くんは、クソサブカルをする時間、あるいは余裕がなくなり、仕事に追われる。しかし、仕事にやりがいを見出せているようにも見える。その代償として、クソサブカルを続けられなくなった。じゃんけんのルールに文句を言うことも、絹と一緒に映画を楽しむことも、本の感想を言い合うこともなくなった。脳みそを使わないパズドラしかできなくなってしまった。

そうなると当然、生活のなかですれ違いが起きる。会話の時間が減る。大事なことも言わなくなる。だから、絹が転職するということを決定事項として聞くことになる。

仕事のストレス、日常生活での違和感がたまり、ひどいことを言ってしまう。

絹はずっと学生の頃と変わらない。自分の好きなことをずっとやっている。自分の好みも変化しない。

一方で、麦は大きく変わっていく。大好きだった映画も退屈に感じ、小説の代わりに自己啓発本を読むようになる。麦が自己啓発本を本屋で立ち読みしているところを、絹が見つける。

麦には部下ができ、仕事に責任が出てくる。結婚も考える年齢になって、生活にも責任が出てくる。

でも絹はそんなこと大事ではなく、2人で笑いながら楽しく過ごせればいいと言う気持ちがある。

あまりにも対照的な2人。辛すぎる。
そして、取り返しがつかなくなってしまう。
もっと話合えばいいのに、どんなに忙しくても少しくらい話し合える時間があるはずなのに、もう少し相手に思いやりを持ってお互いが暮らせばいいのにと、見ている側は考えてしまうが、これがよくあるすれ違いとして消費されているのなら、そんなに簡単な話ではないのだろう。辛い。私も、社会に出た後も漫画や映画を楽しめる人間でありたい。私が社会人になったら、麦と絹のどちらに近づくのかがとてもきになる。

最後には、笑って別れたいと、2人とも言う。どちらも根っこにはクソサブカルの血が流れているので、笑って別れたいとか、そう言う価値観のところは似ている。
最後のシーンでは、お互いいい感じの人とデート中にばったり出会うが、お互い目も合わせず、背中合わせになったところで、手だけを振り合う。その日の夜、今頃なにやってるんだろう、あれについてあの人はどう思っているのだろうかと思いを巡らす。

ああ、やっぱり痛いわ。少し共感する自分がいるからこそ、余計に痛みを感じる。いてええ。


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