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生きること。生きなければならないこと。

「3ヶ月先の予定を入れる」ことを意識して仕事のスケジュールを組むのを10年以上やっていますが、3ヶ月先が2021年になっていることに気付く。

今を生きることが大事なことと同時に未来の自分との約束が、自分の「生」を支えてくれていることも事実。

昔、「自分が死なないために先の約束を大切な人とし続けている」という話を聞いたことがある。「約束しているから」が生きることを支えていると。日常や今が苦しくても生き続ける手段やモチベーションをどう置くかは、その人それぞれだと思う。

私自身は去年、死にかけているので、来年の予定を立てること自体が喜びでたまらない。当たり前のように3ヶ月後が来ると信じられていることが幸せだ(実際は何があるかわからないことも含めて、信じられている。)。

そんな、Happyなわたしでも、がんになったときに感じたことの1つが「がんは、死なない病気になった」というポジティブなメッセージとともに、「がんは、死ねない病気になった」ということを悟った。

すなわち直腸や子宮をとったり、人口肛門になったり、抗がん剤をしたり、後遺症と戦いながら、生き続けなければならなくなったのだ。

「生きる」ことの方が良いことだとされるわけで(当たり前かも知れないが)、でも自分にとっては後遺症や副作用に苦しんだり、もう子供が埋めないという事実を抱えながらも、「生きなければならない」というプレッシャーも少なからずあった。

死にたいわけでもないし、生きたい気持ちもあるが、今まで通りの人生が続く感覚ではなかった。自分の中で様々なハンディキャップを背負って生きるという決断をしたのである。

あのとき、子宮を取らないでと泣くこともできただろうし、抗がん剤はやらないという選択肢もあったが、その選択は死のリスクが高まるわけで、家族のことを考えると、「生きる」選択肢しかとれなかった。それを間違っているとは思わないし、後悔もしていない。

が、いろいろな苦痛を抱えながら生きるという選択は、きっとまわりが思うよりも重たい。子宮がないことは、今、考えても極めてヘビーな事実だ。わたしにとっては。今まで通りでは決してない。こんなわたしは生きていない方が、夫も再婚できるよなーとか思ってしまうこともある。もろネガティブ思考w

最近、生と死について考えることが増えたので、ふと書いてみた。

こうやって書くと心配されるんだろうなぁ。万が一、私が急死とかしたら、こういうnoteが掘り返されて、「これが理由だ」と決められてしまうのかも知れないな。「そんな単純じゃねーよ!」と、そんときは空から思うだろうなw

今のわたしは生きられた喜びと、仕事ができて、来年のことを当たり前のように計画できていることに幸せを感じている。順調だ。誰がみても幸せな人生だ。でもね、見えないところでいろんなことがあるものだ。死にたいとまでは思わなくても、「生きなければならない」ことがストレスになることもあるのだ。

なんてね。なかなかダイレクトに「生と死」のことに触れるのも難しい今だからこそ、ちょっと今、思う気持ちを書いてみました。

さて、明日も朝は来る。朝日で目覚めて、夫のためにお弁当をつくる私の日常がやってくる。うん、幸せだ。

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