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通常運転が「孤独」、時々「じゃない風」。

昔から、家族といても寂しいという感情になることが度々あった。
それが「孤独」という名前だったかは定かではないけど。

保育園の頃は、母が主婦でずっと家にいるのに違う場所(保育園)にあえて私をおいていく理由がわからず、平日の朝が来るのが嫌で日曜はもう寂しかった。
でもって、母になんでだという反抗心で3歳から卒園するまで、毎度見送られる度にギャン泣きしてやった。嫌な子供だな、ほんと。
泣くのに体力使ってたせいかその頃の私はガリガリ(笑)。

小学校は、学校に行く理由が何となくわかってきたのと「小学生になるのに恥ずかしい」と母に言われたのもあって、泣かなくなった。ちっさい小学生というプライドで切り抜けたのだ。
しかし2年生の学習発表会で、世界が終わる。

その発表会で、先生やみんなが主役になるだろうと察して疑わなかった子がいたのに、私が立候補してしまったがために…主役にはなれたけど、先生を中心にクラスごと自尊心をズタボロにしてくる稽古が数ヶ月続くことになるのだ。たぶんハードなイジメだったと思う。

この期間の記憶はホントに消えていて、どれほど辛かったのか想像するだけでオエオエする。この期間は、自分を否定し続けられる日々だったけど、何でなのか意味もわかんなくて、ただ負けたくない学校に行かなきゃいけない気持ちが大きくて孤独と戦うっていうか、共存してた。

こういう子供の時の感情は、たまに今の私にヒントをくれる。
なぜこの感情と向き合おうと思ったかというと、家に帰ったら家族がいるというのが羨ましくなったからだ。
でもそれって求めてる理由が、何か本質無視してないかと思って確認したくなったのだ。

まぁ、結局愛してくれる家族がいてもそこに「孤独」は存在していた。ジブンと戦ってるとき、納得がいってない状況のときは解決するまでだいたい「孤独」。
だから、他で埋めようとしても埋まらない。
例え家族やパートナーからもらえる愛みたいなもの、そのおかげで「じゃない風」をもらえたとしても、やっぱりどうしたって「じゃない風」でしかないのだ。

だって、戦いは終わらないだろうし、解決できたかどうかも自分次第だから。

でも…なんだかまとめていたら、思ってる以上にこの「孤独」を愛せていける気もしてきたな。

いや、家族はほしいからそこもあきらめてないよ(笑)。