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ラジオとの位置関係

「ラジオが好き」という想いが気づけば「依存」に変わり「執着」になっていたことに気づいた時は正直、自分を支えていたものがガタガタと崩れていくような感覚に陥り、「あ~これ気づかない方が良かったやつ」と少々後悔の念すら覚えた。

そんなことがあったのは数日前。この夏、大学卒業前に能登半島の先端で一週間ほど過ごしてみたいと思い、9月上旬にその計画を決行した。

そしてこの期間の大きな決めごとは1つ。

「ラジオを一切聞かないこと」

「ラジオが大好き!毎週15番組聞いてる!ラジオがないと生きていけない!」とアイデンティティを誇示するかのように叫んでいる私が、ラジオを全く聞かない生活を送る。夏休みであることも拍車をかけ、ラジオ漬けの毎日を送っていた私にとって5日間ラジオを聞かないということは、かなり大きな決断であった。

しかしやるなら今しかないと思った。

そしてその5日間。
単刀直入に言って、ラジオを全く聞かなくても平気だった。

あれほど「ラジオを聞かなくては生きていけない」と思っていたのに、拍子抜けなほどに何ともなかった。
あんなにも「救われた」とか言ってたのに、自分にとってこんなものなのかと思うと悲しくもあった。
結局、寂しさを埋める代物であり、それに代わる別のものがあれば問題ないということなのかと思ったりもした。(そんなこと思いたくもないけれど)

そんなささやかな絶望を感じながらラジオと離れた生活をする中で、初めて「他人が聞いているラジオを聞く」機会があった。私の周りでラジオを聞く人は1人もいなかったため、誰かが聞いているラジオというのは自分が普段聞いているものと全く別の代物のようであった。

滞在していたゲストハウスを運営されている方が作業の傍ら「霜降り明星のANN」を聞いていた。特別ものすごくラジオが好きなわけではなく、毎週たくさんの番組を聞いているわけでもなく、リアルタイムでメールを送るわけでもない。

だけどその人の日常の中に、ラジオを聞くという習慣が小さく当たり前のように根付いている。そのサラリとしたラジオとの距離感、関係性をすごくいいなと思うと同時に、自分とラジオとの関係が歪んだモノに感じてきた。

「ラジオが好き」という想いは、時を重ね(といってもわずかだけど)るごとに少しずつ重い依存に変わっていき、「ラジオを聞く」行為自体にアイデンティティを見出し、執着になっていた。気づけばラジオを聞き逃すことなど許せなくなっていた。

初めてラジオと離れ、初めて他人のラジオとの関係を目の当たりにし、そんなモヤモヤした思いが心の中に生まれ、しかし言語化できないもどかしさを抱えていたらふとあるnote記事が目に留まった。

「ラジオはお前を助けない。」/ 落合のダッチワイフさん

「ラジオに救われた」と本気で思っていて、事あるごとに「たくさんのラジオ番組を聞いている!」と言う私にとって、この記事は読めば読むほど容赦なくグサグサと刺してくるようなものであった。しかし、この数日抱えていた「ラジオと自分との関係」に対するモヤモヤとした感情を見事に言語化してくれているものでもあり嬉しくもあった。

普段の日常に戻り、またラジオを聞く生活が始まった。正直、自分とラジオとの関係の答えはまだ見えていない。「ラジオが好き」という想いはこれからも大切にしていきたいと強く思う。

同時に自分がラジオに執着していたことは確かで、だけどそれに気づけたからラジオを生活の中心に据えて、必死に「番組を追わなくちゃ」と考えたり「もっとラジオで読まれたい」と思ったりという”純粋にラジオを聞く楽しさ”を濁らせるような感情を上手く処理することはできるような気がする。


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