見出し画像

ついにきた あらしいアカチャン

妊娠検査薬は空白を知らせつづける。

今年中にできなかったらあきらめるか、不妊治療に進むかを決めるつもりでいた。

あまり深刻に考えないようにしていたけれど、捉えようのない焦りとか侘しさみたいなものが、じわじわと喉のあたりに巻き付いている気分だった。

『今年中』の期限となる12月初旬。
お酒を飲む予定があり、念のために検査をしてみると、線が出ているように見える。

信じられないことがあったときに目をこするのは漫画の世界でしかありえないと思っていたけれど、ごしごしと目をこすって小窓を見つめた。どうやら線がある。

まだ寝ぼけながら朝食を食べていた配偶者に検査薬をみせながら「なんかさ、線、みえる?」と控えめに聞いた。
配偶者は「たしかに、何か見えるかも」と小さく答え、小窓を見つめながらふたりで沈黙してしまった。

陽性の検査薬を夫に見せるサプライズ動画で見るような、飛び上がって喜んだり涙を流して手を取り合うこともなく、ただ静かにお互いの一手を待つ。

これが、ただ幸せなゴールではないと、わたしたちはよく知っていたから。

しばらくして配偶者は湯気のない味噌汁をすすり、ゴクンと喉を通過する音が響いた。

まだ、だれも知らない


フライングの検査だったので、病院受診の目安とされている時期まで2週間ほどあった。そのあいだ、とにかく神みたいなものに祈りを捧げながら過ごしていた。無信仰のくせに、こういうときには神の加護を受けたい。

ちなみに、妊娠をのぞむ女性であれば「妊娠初期症状」で検索したことがあると思うのだけど、わたしはとくに感じることはなかった。
いつも生理前に胸が張るタイプで、そのときも症状があったので「今回もだめか」と思っていたけれど、それが初期症状だったのかもしれない。

病院受診の前日、朝はやくから屋外で撮影の仕事があった。
不安ではあったけど、まだ妊娠が確定していないうちに会社に伝えることは避けたかったし、大げさなほどあたたかい服を着て、ことあるごとに椅子を見つけて座った。

なんとかいつも通りに仕事を終えた帰り道、電車にゆられていると生暖かく流れるものを感じる。はじめてではないその感覚に、過去の出来事がよぎった。

途中下車をしてトイレにかけこんだものの、下着をおろす勇気が出ない。確認しなければいけないのに、身体がうごかない。どれほど時間が経ったのか。配偶者から帰り時間を尋ねる通知がスマホに届く。

大きく呼吸しながらおろした下着は、赤く染まっていた。全身から血の気がひいていく。

「また会えないのか」

こんなに寒い日に立ち仕事をしてしまったから?さいきん残業が多かったから?冷たい飲み物をたくさん飲んでしまったかも。重たいものを運んだせい?
思いつく理由をたくさんならべて、声をころしてひたすら泣いた。

妊娠初期の流産は、母体のせいではなく赤ちゃんの先天的な問題が多いことを分かっていても、自分を責めない母はきっといない。

ごめんねと、泣いてあやまることに意味がなかったとしても、母たちはそれをせずにはいられない。

きみがきてくれて

子どもができなくても、妊婦の方や赤ちゃんをみることがつらくなったり妬ましく思ったりすることは全くなかった。

けれど、病院の待合室で診察を待っている時間は本当にしんどくて、もういっそ帰ってしまおうか、とさえ思う。

自分が世界一かわいそうな気分になってしまって、診察室に入る前から涙がこめかみにまでたまっているようで重い。

「確認できませんでした」という先生の言葉を頭のなかに充満させて、実際に言われたときのインパクトをなるべく減らそうとつとめた。

番号を呼ばれて診察室のドアを開ける瞬間、自分の手が大きく震えているのが分かった。
診察台に乗ってから先生が口を開くまで、実際は数十秒のはずだけれど5分にも10分にも感じられるほど長く、うまく息ができない。

「うん、胎嚢みえますね」

すこし出血のようなものは見られるけど現時点では問題ない。と先生がこちらをみると同時に、自分では止めることができないほど涙が出てくる。
看護師さんが肩に手を置いてくれて、やっと息ができた。

まだまだ先は長いと分かっているけど、またスタートラインに立てた!お腹にアカチャンがきた!

病院のかえり、スターバックスの駐車場に車を停めて、配偶者とエコー写真をながめた。
わずかに香ってくるコーヒーのにおいと、すんと冷えた年末の空気を、わたしはきっとこの先なんども思い出す。

つわりのゴングは派手に鳴る

6週をこえたあたりから、うっすらと気持ちわるい日が増えていた。

それでも吐いたりすることはなかったし、「つわりってこんなもんか」「余裕かも」など思っていて、ご飯もふつうに食べられていた。
「数えきれんほど二日酔いを経験してきたから耐性あるんかも」とも。めでたい奴だった。

7週、心拍を確認する。どるどる、と響く、命の音。

お腹のなかで生きているらしい我が子。どうかこのまま、その音をずっと聴かせてほしい。
わたしがおかあさんだよと、伝える日がきてほしい。

心穏やかな帰り道、気分がよくなってインドカレーを食べにいった。
ぴったんこカンカンでも紹介されたことある地域の有名店で、放送の様子がプリントされたものが壁に貼ってあった。安住さんがこちらをみて笑っている。

「安住さんも祝福してるで」と思いながら2種類のカレーとめちゃくちゃでかいナンを食べた。しかも2枚。

その数時間後、かつてない勢いで嘔吐する。
人間ってこんなポンプ出力あるんや・・・と感心してしまうほどの水圧だった。

「つわり開始のゴング、めっちゃ派手やん」と、吐きながら笑った。