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味園ビル、あの駐車場で

自粛生活がつづき日々の新しい刺激が少なくなったせいか、過去の出来事を思い返すことが多くなった。

もう何十年も前の記憶を掘り起こしては、恥ずかしさ、あるいは後悔のあまり気を失いそうになるからやめたい。

たとえば軽音楽部に所属していた高校生のとき、他校との交流バンドでの演奏中に、ギターのストラップが外れてしまったことがあった。

普段なら少し手を止めて付け直すのに、「他校のメンバーに迷惑をかけてはいけない」「ギターの音を止めてはいけない」という焦りから、片足を上げてギター本体を支え、”命”の体勢で弾き続けた。

終わったあと猛烈に恥ずかしくなり、できる限り存在感を消して片付けをしていたら他校の顧問の先生がやってきて、わりと大きめの声で「片足でやりきる心意気!感動した!」と小泉くらいの感じで労われた。控室の中に薄い拍手が響き、わたしはあのとき一度死んだ。

または、「絶対にわたしのこと好きやん」と思っていた相手に、超美人の彼女ができたことを知って完全に血の気がひいたことも、人生のなかで上位にきつい出来事。

失恋したショックとかよりも、周りの友達に「付き合う前のこの感じ楽しんでる(^O^)」などと見当違いにノロケまくったこと、相手へのメールで″想われ人″を気取って写真付きの自分通信を送りまくっていたこと、頼むからみんな忘れといてくれと願う。

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高校2年生になった春に亡くなった祖母のことは、自粛生活とは関係なく毎日思い出している。

祖母とは、幼いころから一緒に過ごす時間が長く、幼なじみのような関係だったように思う。祖母はわたしを子ども扱いしなかったし、わたしも祖母のことを老人扱いしなかったから。

祖母に連れられて色んな場所に出かけたなかでも、大阪・千日前周辺のカラオケスナックに出掛けたことをよく思い出す。

スナックでは、祖母の友人たちが口々にリクエストする曲を分厚い歌本から探して予約するのがわたしの仕事。けっこうきつい仕事だったけど、クリームソーダは飲み放題だし、祖母に気があるらしいおじさんがお小遣いをくれるので最高だった。(祖母の十八番は、中村美律子の「島田のブンブン」)

千日前に着くと、祖母はたいだい味園ビルに車を停めた。

味園ビルの駐車場は、らせん状でカーブがきついこともあり、ハンドルを切り返すたびに、タイヤとコンクリートの摩擦音が大げさに響く。

普通に運転していてもそこそこの音がするけど、祖母が鳴らすタイヤ音は群を抜いてダイハードで、事件性すら感じるものだった。(祖母は60歳を過ぎてから免許を取得した強者で、運転はかなり荒かった)

今でもタイヤの音を聞くたびに、わたしはいつでも味園ビルの駐車場にトリップしてしまう。

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祖母は、外出する7回のうち1回くらいの割合で、わたしを連れていることを忘れて置き去りにした。

祖母の友人宅でトイレに行って戻ったらいない、みかん狩りに行ってわたしが車のトランクにみかんを積み終わった瞬間に車を急発進していなくなる。など、手法は様々だった。

毛布をクリーニングに出しに行ったとき、車を停めてくるからと毛布と共にクリーニング店近くで降ろされて、半日帰ってこなかったときはさすがに捨てられたと思った。車を停めてクリーニング店に向かう途中で友達に会い、立ち話しているうちにクリーニングと孫のことをすっかり忘れて誘われるままにカラオケに行っていたのだという。

またある日、「サティ行くで」と言われてついていくと、美容外科だったことがあった。訳もわからず診察室に入ると、祖母はかばんから一枚の写真を取り出し、「この子、この顔にしたってほしいんですわ」と言った。

そこには、ボディコンを着たマライヤキャリーがまぶしく笑っていた。

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こうしていろんなエピソードを字に起こしてみると、かなりやばい祖母のように感じるけど、わたしは祖母を恨んでいないし、傷つけられたと感じた記憶もないので、他人に評価はされたくない。

かなりトリッキーな人だったけど、救われていたことのほうが多かったし、紛れもなく愛情深い人だった。

たとえば、黄桜のメスカッパに異様な執着を見せていたらしい幼女のころのわたしを、まわりの大人はおもしろおかしく扱ったが、祖母だけは「おっぱい見るか」と言って、服をめくって見せてくれたりした。

中学生のとき「パーマかけてくる」と美容室に出かけ、髪をドレッドにして帰宅した日、ひっくりかえる両親をよそに、「ええやん」と真っ先に言ってくれたのも祖母だった。

その程度のことか、と思うかもしれないけど、どんなときでもわたしの人間性や嗜好を肯定して、ひとりの人間として扱ってくれた祖母は、誰よりも信頼できる大人だったことに間違いない。

祖母と

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元の実家から新しい家に引っ越した小学3年生のころから、祖母が亡くなる高校2年生まで、わたしは祖母と一緒に寝ていた。

(元々は父親が「新しい家でおばあちゃんがさみしいから」と、姉・兄・わたしのローテーションで祖母と寝ることをルールにしたが、上の2人は思春期になるとシフトを守らなくなり、わたしが毎日担当することになった)

ふたりで遊びにいって、一緒に寝る。わたしにとって祖母が隣にいることは生まれたときから当たり前であって、まさか「死ぬ」なんていう出来事があるなんて想像もしていなかった。

祖母に病気が見つかり、「もう長くない」と大人たちが話しているのをこっそり聞いた日から、祖母は日ごとに老人のようになっていく。それでもまだ祖母の死は現実的ではなかった。

入退院を繰り返し、一時帰宅になった日の夜、いつも通り祖母の隣で寝ていると、祖母がとてもはっきりとした声で「こんな時間まで、機械動かしてるなぁ。」と言った。

わたしの実家はプラスチック工場を営んでいて、元の実家では工場の2階に住居があったために、下の工場から機械の音が夜通し響くことがあった。もうその家からは引っ越しているから、機械の音などするわけがない。

病気と薬の影響で朦朧としていることを分かっていたはずなのに、わたしは祖母に「機械の音なんかしてないやん!しっかりしてえや!」というようなことを、強い口調で言ってしまった。

ずっと他人事のように思っていた(思うようにしていた)祖母の死が、現実になりつつあることが怖かったのだと思う。

寝ている母親を起こし、「おばあちゃんが変なこと言うてる。もう死んでしまう。」と泣きわめき、その日は母親が祖母の隣で寝ることになった。

その翌日、祖母はまた入院になり、もう家に戻ってくることはなかった。

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祖母の意識が遠いていく数日間、亡くなった瞬間、通夜の夜、火葬場での数時間、わたしはずっと怒っていたように思う。

あの夜、祖母と一緒に「機械の音」を聞かなかった自分に。

機械の音を聞きながら、今までの思い出話をすればよかった。ふたりでよく見た水戸黄門の話でもよかったし、一緒に行った場所で楽しかったベスト5を出し合ったり、おっぱいを見せてもらったりしてもよかった。

いつも肯定してくれた祖母を最後に拒絶してしまったことへの後悔は、いつまでもわたしを苦しめていて、空想のなかで何度もあの夜に戻ってやり直すしかなかった。

祖母との楽しい記憶はたくさんあるのに、どうしてもあの夜のことを思い出してしまう。

最近もそのことばかり考えていたなかで、祖母が晩年、誰にも相談せず、自分の名前を改名したことを思い出した。

入院の手続きの際に祖母の名前が変わっていることが判明して、両親や親戚はかなり困惑していたけど、かねてから自分の名前があまり好きではないと言っていた祖母がついに実行したのだと、わたしはとてもうれしかった。

自分が気に入る名前で死んでいった祖母を、あらためて最高だと思う。

最高な人と過ごした最高な日々を思い出さずに、あの夜のことを後悔し続けるのはもうやめようと思った。

祖母とのつらい思い出を前向きに考えられるようになったことは、現在の生活においては数少ない、明るい変化といえる。

過去のことを蒸し返して悶絶する日々は相変わらず続いていて、それらを消化するにはあと70年はかかりそうだし、祖母と過ごしたトリッキーな思い出にまだまだ浸りたいから、まわりが引くほど長生きしたい。

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