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#12|多少の多動や衝動性があっても

運動会がADHDの子供たちに鬼門なのは、
軍隊のように一糸乱れず行進をして、
長時間出し物の練習に拘束し、
大音響のBGMで聴覚過敏の神経を逆撫でするからだ。

元々活発で、身体を動かすこと自体は大好きなのに、
自分のタイミングで動くことを禁じられる。
なので期待に胸膨らませて入った小学校の最初の運動会は、
運動会ではなく我慢会、である。

小学校の生活自体が規律の塊で、
1学期が過ぎた頃には様子がおかしく、
夏休みで緩んだ気持ちは2学期に耐えられなくなってしまう。
長男の学校は夏休み明け直後に運動会の練習が始まるので、
まさにそのタイミングとなってしまう。

そもそも長男の父親(旦那)も、
衝動性にかけては思い当たる節があった。
学校に設置されている消化器を握ってしまい、
大騒ぎになったことは一度ではなく、
今でも火災報知器のボタンは押してみたくてたまらなくなるのだそう。

そして更に、多動という意味では長男の祖父(義父)は、
常に檻の中の熊か!?と思うほど、落ち着きがなかった。
いつもハイテンションで食事は30秒かからない。(飲み込んでいる)
至る所に忘れ物をしてくる。

それでも義父は1部上場企業の東京本社営業部長まで勤め、
彼を慕う部下は出張や週末になると飲んで群馬の実家に押し寄せ、
旦那が朝起きるとおじさん達がゴロゴロ寝ていたのだそう。
当時群馬の山村から東京・神田の会社に始発で通う、
その行動力とバイタリティは並ではない。
大変だった(偉かった)のは、彼らを受け入れ毎朝義父を車で駅まで送っていたば〜ちゃんなのだが…。

そして定年退職すると地元の村会議員、市町村合併で最後は市議になった。
とにかく社交的で面倒見が良く、平民宰相となった田中角栄を尊敬する昭和の人のいいノンベ親父だった。

だから我が家的には、多少の多動や衝動性があっても、
人様に迷惑さえかけなければよし、というのが家訓で、
決まりでがんじがらめにしてくる向きには、相当抵抗した。

旦那は義母に似て小さい頃肉・魚が一切食べられなかったにも関わらず、
当時の小学校担任は給食を完食するまで居残りさせたため、友達が下校する時間でも、彼はひとり残した給食と対峙していたそうで、今でも親子してその担任を憎んでいる。

長男は小学校中高学年ではほとんどの授業を普通クラスで受けさせて貰い、毎日のように担当教諭(特別支援)からその日の連絡をノートに記して貰っていたが、その返事は毎日旦那が書いていた。学校の期待する生徒像に、少しでも疑問があれば、旦那の長文が炸裂した。そのノートは卒業までには積み上げると30センチにもなるほど、大量の交換日記となっていた。

気のせいか、保育園の時代から、長男を担当した先生は直後に退官されることが多かった。それは達成感なのか、燃え尽きたからなのか、いずれにせよ、ものすごくエネルギーをかけて貰って彼の今があることだけは確かな気がする。

(イラスト:長男3歳半*パパ)


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