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#02|思えば父もASDだった

私が生まれ育ったのは横浜の住宅街。
小さな山や川があって、農家が車に野菜を積んで売りにきてくれる、
まだ田んぼの残るのどかな新興住宅街でした。

父は千葉の農家出身、母は川崎の駅前育ち。
京浜工業地帯の電気技術系技師だった父はサラリーマンで、
母は専業主婦。三種の神器の揃う土地付き一軒家は、
仏壇のない当時の典型的な核家族で、
なに不自由ない家の子供でした。

ですが一つだけ、
父は理科系で合理的に物事を捉える人だったのに、
やはり昭和一桁らしい古風な考え方も持っていて、
「家の名前を残さなければ」と常々思っており、
私の妹が生まれた時、
「なんだ、また女か」と言ったそう。

以来私の人生の目的は
「結婚して男の子を産むこと」になってしまいました。
自分の存在を全否定されてしまったのです。

強要されたことは一度もありませんでしたが、
父が喜ぶいい子でいたかったのだと思います。

それを小さな私に伝える母も母で、
やはり悲しかったからでしょうが、
小言のようにその後も何度も聞かされました。

当時は全く気づきませんでしたが、
父も母もASD気質で、
特に父は感覚過敏で予測のつかないことが嫌いな、
ルーティーンを厳格に守る人でした。

晩年通勤途中、道の左側を歩いて来た若者とすれ違いざまに肩がぶつかり、
「道は右側を歩くもの」と頑なに譲らない父は、
ストリートファイトになってしまいノックダウンを食らったとか。
いい歳をして融通が効かない、クソ真面目な頑固親父でした。

でもその頃は今のように「発達障害」など認知されていなかったので、
ただのこだわりの強い変わり者、位の認識でした。
大卒で数々の特許も持つ、一応優秀な部類の技術者だったからです。
ですがその頑固さですから人付き合いは苦手で、
会社での処遇も最後は良くありませんでした。

そんな父に男の子を抱かせてあげることは出来ませんでしたが、
長女は間に合ったので、初節句は群馬で両家盛大に祝いました。
甘いものに目がなかった父は、
初孫を抱いてそれは嬉しそうに手作りの蓬餅をいくつも頬張り、
こちらの両親も強く印象に残ったそうです。

そんな父が心房細動から来る脳塞栓で帰らぬ人となったのは、
初節句の1週間後でした。
父の兄弟は皆心臓が弱く、40〜50代で他界していたのですが、
父は腕が上がらないなど不調があったにもかかわらず、
一度も医者にかかることなく、たった一晩で旅立ってしまい、
高崎駅でエレベーターに乗り手を振る姿を見送ったのが元気だった最期になってしまいました。

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