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元祖ワンダーボーイ マイケル・オーウェン

特徴・プレースタイルなど

一瞬で相手DFを置き去りにするスピードを武器に、相手DFラインとの駆け引きで裏に抜け出しゴールを奪うプレーを得意とする選手となります。
17歳でデビュー後1997-98シーズン、1998-99シーズンと2年連続で得点王を獲得。
1997シーズンから2004シーズンまでの7年間、リヴァプールのチーム内得点王であり続け、高い決定力を数字で残した選手でもあります。
後方からのボールをワンタッチで体ごとドリブルの軌道に乗せ一気に加速し対峙する相手には簡単なフェイントで1人2人とかわしゴールに向かっていきます。
またドリブルの際には足の側面も巧みに使ってスピードを殺さずボールを運ぶ技術を持っており、サイドからのクロスをヘディングで合わせゴールを狙うことをメインとする当時のイングランドでは稀有な存在だったのではと思います。
フィニッシュに関しても正確でネットに打ち込むシュートを主に、逆サイドに流し込む巧みなシュートテクニックも持っています。

経歴等

チェスター・シティやエヴァートンなどでプレイしていたサッカー選手の父テリー・オーウェンの4番目の子供として生を受けました。
父から家族の中で最も有望だと見られていたオーウェンは7歳の時にサッカーを始めた。エヴァートンファンであったオーウェンはウェールズのレクター・ドリュー・プライマリー・スクールに通い、10歳の頃には既に多くのスカウトの注目を集めていた。
その後ディーサイド・プライマリー・スクールに通い、そこのサッカーチームで2年間で97得点を挙げ、リヴァプールのレジェンドであるイアン・ラッシュが保持していた72得点の記録を更新するなど少年期から高い得点力を持っていた。
13歳になりチェルシーFC、マンチェスターユナイテッドFC、アーセナルFCなどから勧誘を受けるも、リバプール往年のスターであり名ウインガーであるスティーブ・ハイウェイを交渉の切り札とし、熱烈な手紙攻勢で見事リバプールがオーウェンを口説き落とした。

リバプールの下部組織で順調に育成され、ユース年代でもスプリント能力がずば抜けており、トップスピードでのコントロールとフィニッシュまでの流れをすでに身に着けており、また学業も優秀で聡明にして才能の塊とすでに同世代ではスーパースター的な存在となっていました。

17歳の誕生日にクラブとプロ契約し、1997年5月6日のウインブルドンFC戦でトップデビューを飾り初ゴールも記録。
1997-98シーズンではロビー・ファウラーが怪我でチームを離脱していたため、ポール・インスやスティーヴ・マクマナマンと共にレギュラーとしてプレイした。このシーズンはクロス・サットンやディオン・ダブリンと同点数の18得点で得点王となり、PFA年間最優秀若手選手賞を受賞しました。

1998年2月には当時イングランド史上最年少で代表に招集され、5月には代表初ゴールを記録。フランスW杯の決勝トーナメント1回戦アルゼンチン戦で先発出場しセンターサークル付近でボールを受けた直後にドリブルを開始し相手選手2人を抜き去りゴールを決めたことから「ワンダーボーイ」というニックネームを付けられました。

1998-99シーズンも同じくリーグで18得点を挙げ、ハッセルバインク、ドワイト・ヨークと共に得点王を獲得。
オーウェンは2年連続での得点王獲得となった。

1999-2000シーズンは前期終盤に負ったハムストリング負傷の影響に悩まされたが12得点を挙げクラブのUEFAカップの出場権獲得に貢献した。

2000-01シーズンはリーグカップとFAカップ、UEFAカップのタイトルを獲得しFAカップ決勝のアーセナル戦で残り10分でオーウェンが2得点を決め逆転を決め「オーウェンの決勝戦」と呼ばれている。

FAカップとUEFAカップを制し。チャリティー・シールドとUEFAスーパーカップの出場権を獲得し両試合とも勝利し1シーズンで5つのタイトルを獲得した最も成功を収めたシーズンとなりました。

UEFAスーパーカップの翌週に行われたドイツ代表戦ではハットチックを達成し、このシーズンにトレブルの原動力となったオーウェンはリバプールの選手としては初のバロンドールを受賞。

2001-02シーズンはリーグで19得点を挙げチームを2位に導く活躍を見せ、翌シーズンも好調を維持し19得点を挙げチームもリーグ5位の成績でシーズンを終えた。

2004-05シーズンよりレアル・マドリードへ移籍。
ロナウドとラウルの壁は高く、途中出場が中心となりましたが、2005年のエル・クラシコでスタメンを獲得しベッカムの縦パスから相手を突き放すゴールを決め、その後は監督の信頼を獲得しラウルをセカンドトップとする変則3トップの一員として先発していきました。

2005年夏にレアルはロビーニョやジュリオ・バチスタと契約し、移籍期限ぎりぎりにセルヒオ・ラモス獲得の資金捻出のためオーウェンの退団が決まりました。

この年はチーム内最多の38試合出場(内20試合スタメン)チーム内2位の16得点(得点率は1位)を挙げたもののルシェンブルゴがブラジル人を重用したため構想から外れた形となってしまいました。

チャンピオンズリーグのタイトル獲得を目指しレアルに移籍したものの、皮肉にもオーウェンが去った年にリバプールは快進撃を続けビッグイヤーを獲得。1年でスペイン挑戦は終わりを告げた。

2005-06シーズンより新天地としてニューカッスル・ユナイテッドを移籍先として選択したもののシーズン前に大腿を負傷し、復帰後はハットトリックを達成するなど復調しかけた矢先、12月31日のトッテナム戦で中足骨を骨折。

ドイツワールドカップのメンバーに選ばれるも、グループリーグ最終戦のスウェーデン戦で左ひざ十字靭帯を断裂。全治5か月の重傷となった。
この負傷は開始51秒で足をひねったことによる負傷でワールドカップ最速の交代記録となってしまった。

2009年5月24日にクラブが15シーズンぶりに降格が決定した。

2009年7月3日にフリートランスファーにてマンチェスター・ユナイテッドと2年契約を結んだことが発表された。

背番号はベッカムやカントナ、ジョージ・ベストといった名選手がつけていた7番となった。

12月8日のチャンピオンズリーグ・VfLヴォルフスブルク戦では、自身2005年以来となるハットトリックを達成した。

翌2月に行われたリーグカップ決勝で先制点を挙げるも後半42分に負傷交代し残りのシーズンを欠場することが発表された。

2012年ストークシティFCへの加入が発表された。

2013年1月19日のスゥオンジー・シティ戦でゴールを記録しリーグ戦としては1年7か月ぶりのゴールとなった。

2013年3月19日にシーズン終了後の現役引退を表明。

最終戦のサウサンプトン戦で途中出場し得点こそなかったものの試合終了後両チームのサポーターよりスタンディングオベーションを受けた。

10代の時から活躍し「早熟の天才」として肉体を酷使した代償としてキャリア途中からは怪我との戦いが中心となってしまった。

体のケアや休養、そして最新の医療で選手生命が伸びていればイングランド屈指のゴールハンターとなっていたのではと思います。

引退後は馬主として活動。個人的には新たなワンダーボーイを生み出すような指導者になって欲しいと思う人物となります。


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