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然り

偶然とは、人間の無関心の象徴だ。「この場所」に行きずり、「この瞬間」に目配せするものだ。ヘーゲルの、いわゆる「無関心」がかりそめの関心に止揚される。それは無関心と無関心の交叉点の関心的先端性にほかならない。

偶然ということばは、人間がおのれの無知を糊塗しようとして、もっともらしく見せかけるために作った衣装にすぎない。人間の理解というものをこえた高い必然が、ふだんは厚いマントに身をかくしているのに、ほんの一瞬、ちらとその素肌をのぞかせてしまった現象なのだ。たとえば投げた賽の目が3になるのも、道でひとと肩がぶつかるのも、すべては無限の必然の巡り合わせだ。ゆくりない波と波との往来の悠久が、人間からみた偶然を、どうも無根拠たらしめている。
ラプラスが偶然を「真の原因を我々が知らない無智の表現」とみているのも、ヒュームが「或る事象の真の原因に関する我々の無知」とみているのも、いずれもみな、交叉点がその実、無関心と無関心との交叉点ではなく、関心によってもたらされる交叉点であることを前提としている。かくして偶然とは、単に人間の主観的な観測にすぎず、認識不足の告白にほかならないという結論を産むに至ったのだ。

人智が探りえた最高の必然は、おそらく星の運行だろうが、それよりさらに高度の、さらに精巧な必然は、まだ人間の目には偶然として隠されている。そしてわずかに迂遠な宗教的方法によってのみ、それを揣摩しているらしい。特筆して仏教という宗教がこの必然を深く洞察していて、「一樹の蔭」だとか「袖振り合うも他生の縁」だとかの美しい隠喩でそれを表現している。仏教思想には人間の存在にかすかに余韻をとどめる宇宙の性質がうかがわれ、天体の精妙な運行の遠い反映が認められるのだ。実はそこには、それよりも高い必然の網の目すらも落ちかかっているのだが。
宗教家が神秘と呼び、科学者が偶然と呼ぶもの、そこにこそ真の必然が隠されている。しかし、天はこれを人間に、いかにも取るに足らないもののように見せかけるために、いたずらっぽい、不真面目な手段をもってちらつかせているに過ぎない。それを受ける人間の大半は、まことに単純で浅はかだから、まじめな哲学だとか、急速な現実問題だとかのまともらしく見える事象には、持ち前の虚栄心から真面目らしく考える。だが、一見馬鹿らしくみえる事柄やナンセンスには、それ相応の軽い微笑を払うにすぎない。こうして人間は、いつも天の手のひらの上で踊らされ、だましうちにされる運命にあるのだ。なぜなら天がもつ高い必然の白く美しい素足の跡は、一見馬鹿らしい偶発ごとのように、あらわに示されているのだから。

日々ゆくりなく道をすれ違うぼくたちは、さながら星と星とのその運行のように、あらかじめそうなるという帰路を辿っているにちがいない。それを故意をもって、すなわち自らの生みだす必然をもって体現したときに、それまでの世界への理解を一歩超えた、鳥瞰のようなひろい展望を見据えることができるのではないだろうか。

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