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嘔吐

「純真」なんていう観念は、日本なんかにはあるはずがなかったのだと思う。ひょっとしたらそれは、欧米の生活あたりにそのお手本があったのかもしれない。
たとえば、来歴だけは得意気そうな芸術家気取りが、「子どもの純真は尊い」などと曖昧模糊たることを憂い顔で喋々して、それを嬉々として観覧していた婦人が、家に帰ってそのまま夫に訴える。夫は弱くあまいので、妻の機嫌を損なわないために、髭に埋もれたにきびを探りながら「うん、子どもの純真はだいじだ」とさわぐ。親バカというものに似ていて、滑稽だ。良い図ではない。

日本には、「誠」という倫理はあっても、「純真」という観念はなじみがない。こんなじめじめして媚態に満ちた土地で、そんな観念はそだたない。人が「純真」と銘打っているその姿をみれば、そのほとんどが演技だ。演技でなければ、ただのあほだ。
ぼくには六つ下のいとこがいるけれども、そのいとこが三歳のころ、生まれて一年にも満たないもうひとりのいとこの頭をコツンと殴ったりしていた。こんな純真のどこが尊いのか。感覚だけの人間は、悪魔に似ている。どうしても、倫理の勉強は必要だ。

ぼくたちが、はじめから純真であったのなら、どれほどに強気になれたことだろう。だまされる人なんかよりも、だます人のほうが、百倍くるしいんだ。だれかをだませば、地獄に落ちるほかないのだから。ドストエフスキーは、『罪と罰』でそれをあらわしていたけれども、罪悪の意識というのは、墓場まで追いかけてくる。逃げても逃げても、じぶんの影にそれはいて、生かさぬように、殺さぬようにと、ボディブローのように生活を悲しくさせる。純真であれば、常に被害者でいれる。正義100%の、つよい被害者だ。
強者が道徳を蹂躙するのはとうに知れていることだ。そしてまた、弱者は道徳に愛撫される。道徳の迫害を受けるものというのは、常にその強弱の中間者たちだ。

生活とは、わびしさを堪えることだ。勤勉にしたり、親切にしたりして、奉公や貢献というものを介して、己の不純を懺悔しなければいけない。けれども、幸福のこたえは、やってこない。待てども待てども、やってこず、明日もまた、同じ日がくる。人間というものは、青春といわれる時期から、焦燥や孤独の錯綜に悩まされなければいけない。つらいに決まっている。子どものころから、どうしたって、かなしい思いをしなければならないのだった。

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