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【音楽】レーティングは必要だが難しい

まえがき

先に断っておくが、この投稿は非難批判の類ではありません。自身の考えが的を得ているとも思っていません。
ただ、人によっては内容として厳しいものがあるので、題名で拒絶反応を示されたなら見ない事を勧めます。
前々から書き溜めていたけど載せるプラットフォームがないなーと思っていたけど、noteだったら載せられる!と思って多少の修正を加えて掲載しました。(トレンドな事もあったけど、それとは全く無関係です)

音楽(芸術)を数値化する事の意義と難しさ

レーティングとは簡単に言えば「その人の腕前や強さを、数学的・統計的観点から相対的に数値化しランク付けする」事で、イロレーティングが最も有名だろう。元々はチェスで使われ始めた評価方法だが、その計算方法の簡便さと人間の直感や常識に反しない特性から現在では将棋や囲碁、対戦型ゲーム、ラグビーやサッカー等にも応用されている。
例えばある演奏者のレーティングが1750ポイントで、ある楽団の平均レーティングが1900ポイントとなっていれば、その楽団に空きポストがあったとしても入るのが難しいというのは直感的に分かり易い。
逆に2000ポイント近いレーティングを持つ人が平均レーティング1500ポイントの楽団に所属していると、役不足なのではと思わされる事もあるだろう。
※上記例はあくまで数字上の話であり、意思の介在は全く考慮していない点に注意を要する。
X(Twitter)でも常々書いているし、学生時代からずっと言っているが、演奏の腕前を主催者や中枢の主観ではなく客観的な指標(数学や統計学)で表す事ができれば、今まで見落としていた新しい演奏者の起用や、自身の現状を把握する事で腕前上達のための手段として使うには非常に有用だと思う。
また、エントリーに際しての最低レーティングを定めておく事で、間接的ではあるが演奏の質の担保も可能だと考える。
プロ・アマ問わず音楽家は自身の腕前に関して不明瞭なところがあるので、見える化することで傲岸不遜や卑屈になることもなくなるだろう。

ただ、この辺りの考え方については批判も多い。
実際、僕の周りでもこの類の話をすると「言いたいことは分かるけど」という感じであまり良い顔はされないし、指揮者の方に「音楽に勝敗などはない」と叱られた事もある。(自身の超克は別問題だが)
また、数値を上げる事に腐心して本質を見落とすという事もあるだろう。

音楽の勝敗とは何か

音楽や芸術によるレーティングが困難である理由は色々あると思うが、最大の問題は「勝敗の定義」にあると考えている。
レーティングが使われる競技は、全て「勝敗の定義ができる」ため、結果をそのまま数値として反映させ易く、統計に基づいた解析が容易い。
言い換えれば、「勝敗の定義」ができなければレーティングという概念は全く使えないし、如何なるジャンルでも「勝敗の定義」ができればレーティングは作れるという事である。
では次にぶつかる壁は、音楽における勝敗とは何か?である。

音を外すのが少ないかどうか?
カラオケをバックに演奏して点数を開示するという手法もあるので簡単には出来そうではあるが、それならDTMによる打ち込みは無敵(レーティングで言えば無限大)になる。外部音をフィードバックしてリアルタイム調整するようにプログラムを組めば、微細な音程修正も即時できるだろう。また、生成AIを用いればもっと簡単かも知れない。

人を1人でも多く呼べるか?
集客力の問題であり、人格や営業力といった音楽の巧さとは違うところでの勝負になってしまう。下手でも1000人呼べる人と、極めて巧いが10人しか呼べない人では後者が負ける事になる。

音が綺麗が否か?指揮者の意図を汲めるか?
指揮者や重要ポストに就く人の嗜好に寄り添うというのはある意味正解に近いが、嗜好に応じて自身を変えるなんて並大抵の事ではないし、それを目標にして自身を崩すなんてのは本末転倒になりかねない。
また、指揮者や重要ポストの人による数値評価やその根拠の開示という作業が入るので、これまた音楽の巧さとは違う部分でのコストが大き過ぎるし、何より元々それが解決したい事なのにむしろ解決できない方向になってしまう。周りに合わせられるとか、そういった面も結局は人格に関わってくるので、同じ理由で巧さの勝負からは遠ざかってしまうだろう。

これだけでも勝敗の定義は非常に難しい事が分かる。誰しも評価軸が違うのだから、自身の中で自身なりのレーティングはあるだろうが、それを系統立てした説明も。統合した客観的なレーティングも非常に難しい。
この辺りは嗜好品や物の好みに通ずるものがあるし、だからこそ解釈や評価は多彩であり、良い面も多いのは厳然たる事実である。

レーティング=現代の「春の祭典」?

実際、旧帝大クラスの理工系学部はもとより、芸術工学部等を擁する学校でも、音楽・腕前の統計的解析や画一的評価の算出の研究というのは聞いた事がない。もしかしたら東京藝術大学等では研究題材になっているかも知れないし、海外では既に確立されていたりするのを見落としている可能性もあるが、音楽コンクールやオーディションでも「審査員の好みか否か」で決まる事が多いし、ある所ではダメでも別の場所だとすんなり通るといった事も少なくない以上、そもそも研究対象として見られていない等、あまり進んではいないのだろう。
プロ・アマ問わず、未だに伝統的な枠組みと横のつながり、文字通りクラシックな価値観を脈々と共有してきた中で、それが故に恐らく勝敗の定義や数値化を阻んでいるように思える。
レーティングという画一的な評価軸は、先述した評価の多様性を根本から揺るがしかねない諸刃の剣であり、拒絶反応があっても致し方ない面はある。
また、事実としてそこにメリットも多いし自身も享受してきたので一概に否定はできない(寧ろ伝統が続いているという点では素晴らしくすらあると考えているし、レーティングで評価されたら真っ先に自身が脱落するであろう事は想像に難くない)事を改めて記載しておく。

一方でスポーツの世界では上記のような数値に基づく評価が比較的進んでおり、例えば野球ではセイバーメトリクスに基づいた選手評価はバントや盗塁に対して否定的な評価をして最初は物議を醸したが、今やメジャーリーグでは評価としてスタンダードになっているところもある。
しかしながらというべきか、やはりその根底は勝敗が明確だからというのが大きい。勝敗の定義が難しく、また団体や個人で違うという音楽や芸術の世界ではそもそも数学や統計学といった学術に基づいた評価は難しく、現状以上の最適解を見つけられていないのも仕方ないと考えられる。

話は変わるが、ストラヴィンスキーの「春の祭典」は、その初演時に賛否両論が起こり、暴動さえ起きたというが、現在ではクラシックの名曲としての立ち位置を確固たるものにしているように、レーティングという考え方はそれに近いものがあるのかも知れない。言うなればレーティングとは、現代の「春の祭典」や「(野球でいう)セイバーメトリクス」のようなものだと思っている。
もし近い将来に数字による腕前の評価が確立したなんて出たら、それこそ「数字で優劣を決めるなんてディストピアだ」「画一的評価で上手い下手を決めるな」なんて言われて炎上しまう事は容易に想像がつくし、そもそもこの投稿さえ炎上しかねないとは思っているのだが、定着すれば冒頭に記載したような人選や起用に関する余計なコストや心労を削減できるし、数字で決めるなんてというなら採用しないで良いだろう。
どうしてもクラシックとDXやディスラプション(破壊的創造)といった要素は相容れないように思えるが、大事なのは「手段として活用する」「旧来の価値観と新しい価値観を共存させる」事であり、レーティング自体を目的化してはいけないという事である。


指揮者の永峰大輔さんがいつかの演奏会で「テーゼとアンチテーゼが対立し、そこから新しい価値が生まれる」とパンフレットのまえがきで書かれていたのだが、僕の中ではそれが的を得た内容であり、今も頭の中に残っている。
DXやディスラプションがクラシック音楽の価値観と「テーゼとアンチテーゼ」に近いような状況で、いつまでもそのような関係ではなく、少しでも共存できればと思っている。


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