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縁側住人3人目 「まっすぐな人」前編/ emiさん

このインタビュー記事は、
人と人とをつなぐ文筆家!!
二足のわらじに挑戦中の“アスノコトノハ”が、

Voicyパーソナリティー 小川奈緒さんの元に集う
魅力的な皆さん(縁側の皆さん)の一ファン
として、書いています。
 
縁側の皆さんの魅力が少しでも伝わり、
お互いのファンになれたら、
誰かの新たな一歩を応援できたら
そんな願いを込めてお届けします。
 
記事を読んでの感想、リクエストなど
ぜひどしどしお寄せください。
私も取材して欲しい。
あの人のことが知りたいという
リクエストにお答えしながら、
縁側の活動がもっと魅力的になればと
願っています。
 
     アスノコトノハ
 

まっすぐな人だ。

愛すべきものや理想に向けて一直線に進んでいく。
時にがむしゃらに、時には泣きながら。

今やっとスピードを落とし、
自然の流れに身を任せて、
人とのつながりを楽しむemiさん。

結婚をされて、仲間内では時の人になったけど、
さて、どんな方なのか。

半分興味本位でインタビューを始めたものの、
熱い思いと壮絶な半生に
初めは言葉が見つからなかった。


毎日

Emiさんの毎日はほぼルーティンがある。
目覚ましもかけず、5時前に起き、活動開始。

休日(平日も時間があれば)は
ジョギングを始める。
元々陸上部で走る以外のスポーツは
苦手意識があり、軽い気持ちで
40歳ごろから始めた。
ハーフではあったが、市民マラソンに3回出場。
目的があると俄然やる気になるのも
emiさんらしい。

コロナもあって、
お楽しみのジョギングに戻ってはいるが、
体力維持目的で続けている。
走る時は音楽やVoicyは聞かず,考えごとに集中。
自分のペースで一定のリズムで動きつつ、
その時に「今日はこれ」と
テーマを決めて考えを深める。
Emiさん流の「ワンテーマ深掘り」。
これが、emiさん流のジョギングの楽しみ方だ。
早朝の賀茂川と夕暮れの宝ケ池の
景色に力をもらいながら、
あれこれ考えを巡らせるお気に入りの時間だ。


子ども時代

三世代家族で兄2人、従兄弟も全員男の子。
京都山間部の田舎町で
季節の移ろいを感じながら、逞しく育った。
両親は共働きだったため、
おじいちゃんおばあちゃん子だった。
やがて祖母は認知症を患い、
母は長男の嫁として介護の苦労をしながら
懸命に働いた。
そんな母の姿を見て育った。

これ以上母に負担をかけないようにと、
小学校高学年から代わりに夕食をよく作った。
嫁姑関係の緩和剤としての役割も買って出た。
嫌だと思ったことは一度もなく、それが普通だった。
それもこれも、大好きなお母さんのため。
本当は母が大好きでもっと一緒にいたい。
もっと話がしたい。いつも寂しい気持ちでいた。
でも、言えなかった。
いつしか夢は、
「毎日家にいて子どもに『おかえり』と
言えるお母さんになること」になっていた。


病気と授からなかった我が子

10代で大きな病気に襲われる。
12歳と19歳で卵巣嚢腫になり、
12歳で右を19歳で左の一部を摘出。

19歳の時はガン化していたものの
妊娠できるように全摘をしなかったことで、
抗がん剤治療をすることになった。
その薬が合わず意識を失い、
両親は「今夜が山です」と医師に言われたこともあった。
治療のため大学を1年休学した。

さらりと言われて、面食らう。
それほど珍しくない病気だし、
私自身も薬で治療したこともある。
ただ、10代という若さで、
さぞかし大変な経験だっただろう。
本人もご家族も本当に辛い日々だったと想像する。
しかし、ご本人の心の葛藤はここから始まる。

幸い元気になったものの、
子供ができにくい身体となる。
母親も同じ病気で、
遺伝のせいだと何度も泣きながら謝られた。
しかし母は病気の後に3人出産していて、
そのことが子どもを持てる希望でもあった。

最初の結婚は24歳。
何度か自然妊娠したが、流れてしまった。
28歳頃から焦り始めてからの妊活7年間。
emiさんの暗黒期が始まる。
35歳ごろに諦めがつくまで
壮絶な時間を過ごしたという。

初めての妊娠の時は
どんな思いで過ごされたのですか?

「自分のお腹の中に命が宿った感覚。
誇らしく温かいなんとも言えない感情でした。
ここに確かに命があると感じました。
母子手帳はまだもらっていませんでしたが、
診察券に書かれた予定日を今でも覚えています。
28歳の時です。
そのままうまくいくと根拠もなく
思っていて用心しなかったのです。
安定期に入るまではと職場で誰にも言わず、
夜勤もしていました。

ある日の検診で心拍が弱い、
大きくなれない子かもしれないと言われ、
お腹の中でなくなりました。
その子が育たなかったのは自分のせいだと
思いました。先生はそうは言わなかったし、
実際原因などは分からないけど、
そこから執着のような気持ちに
なったように思います。
次は絶対に自分が守る!というような。
もう一度妊娠しましたが、
分かった時点でダメと言われました。」

当時、「子どもがどうしても欲しい」と、
今思えばかなりの盲目的な執着があった。
友人や知人の妊娠を心から喜べず、
人のいないところに行って泣き、
街で妊婦さんを見ても涙が出た。
ありとあらゆる妊活に励み、
神頼みはもちろん、鍼やマッサージ
(新幹線で京都から名古屋の整体師へ通うなど)
不確かな情報を頼りにあちこち通う。
毎月生理が来るたびにかなり落胆。
心療内科の紹介もされるほどだった。
自分には精神的に追い詰められている
自覚すらなかった。羨ましい羨ましいと
何かの毒におかされていた。
当時の夫は優しく
「子どもがいなくてもいいよ、2人で生きていこう」
とちゃんと言ってくれた。
しかし、「諦めるなんて!」と彼を責めた。
夫婦はギクシャクし、別居から離婚へ。

最終的に、特別養子縁組の話を持ち出した時、
母に言われた言葉で目が覚めた。
「特別養子縁組は、理由があって
どうしても親御さんと一緒に住めない
子どものための制度。
子どもが欲しくても『手に入らない』
なんて思っているような
親のためのものじゃない」と。
ガツンと殴られた気持ちだった。
叱られて以降、「子どもが持てない」ことを
事実として少しずつ受け止められるようになった。
距離をとったことで、少しずつ
今自分が持っているものに
目を向けることができるようになる。
自分でも諦めるきっかけが
欲しかったのかもしれない。
不思議と母の言葉に納得できたときには、
トンネルを抜けた感覚だった。

emiさんのお母さんのことを思う。
自分のせいで子どもが出来ない体に
なってしまった自責の念。
それでも、我が子は自分が止めるしかない。
そう思って説得されたのだろう。
我が子の苦悩を感じながら、
支え続けた立派なお母さんだ。

もしもあの時違う選択をしていたら、
今頃どうなっていたのだろう。
と言う想像は、誰にでもあるものだ。

想像は想像でしかない。
私たちはいくつもの選択を繰り返し、
苦しい決断を重ねて、今ここにいる。
自分が選んできた選択を、
そうせざるを得なかったことも含めて
受け止めてきた。
そうして私たちは「今」を生きている。

もしあの時、
emiさんに子どもがもし出来ていたら。
どんなにかいいお母さんになっていただろう。
当時の自分に
「最初の夢は叶わないけれど、
それでいいんだよ。大丈夫だよ、大丈夫」
と頭を撫でてやりたい。というemiさん。
「あれで良かったのだ。」と言う
人生にしていくしか、幸せになれる方法はない。
一つ一つ泣きながらでも
自分を信じて選択をしてきたemiさん。
今の幸せそうな穏やかな笑顔に勇気をもらう。

私も前に進もう。
泣きながらでも、自分の選択をしよう。
そう思った。


後編へ続く。







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