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家の庭の池の鯉を川に放流した話

 毎日川沿いを歩いている。そろそろ並木道も葉桜だ。かく、桜の季節は短し。ただの川でも毎日発見はある。水面を優雅に泳ぐ鴨の足は鮮やかなオレンジ色だったり、亀は今日も甲羅を干していたり、犬は地面を踏み締めて歩いていたり、わたしという人間は意外とばかでお茶目だったり。あの公衆トイレ、あんな中が丸見えなんて時代にそぐわないわね、そろそろ撤去かしら。夕方になるとこの地域の中学生はここに来て、青春を語るのかしら。坂本金八は生徒のことを考えながら、こことよく似たあの道を歩いてたのかな。散歩とは発見との対話なのかもしれない。

 なるほど、それもいい。けれど、ここに書きたいのは、あの川の中流にいる、あの鯉たちのことだ。黒い鯉が多い。なかには鮮やかな白い鯉や、朱色の鯉たち。あんな色って野生なわけない。きっと昔は人の家にいたんじゃないかしら。それで思い出すのが、20年前の我が家の建て替えの時の話なのだが、とりいってわざわざ人に話すほどのことでもないので、ここに記録したい。

 20年前の橋本家は木造の昔ながらな住宅で、どのくらいかというとリアル掘り炬燵があるくらい。川食という吉富町にあるスーパーのチラシは、ピンクのガリ版印刷で裏が白く、鉛筆で書いてもツルツルしないため、落書きに非常に適していた。文化人だった祖父は、私が遊びにくるたびに、掘り炬燵に入り膝の上に孫を抱え、チラシにやたら上手な絵を描いて見せていたことを覚えている。また、Good luckだったか、プライドだったか、木村拓哉のドラマを祖母は毎週楽しみにしていたようだが、私がいつでも観られるクレヨンしんちゃんのビデオが観たいとせがんだために、最終回のチャンネルを譲ってくれたこともあった。祖父はこの家の建て替えを待たずして逝った。

 さて、建て替える前、我が家の母屋と離れは渡り廊下で繋がっており、さらに庭には石でできた割と大きなプールがあった。父曰く、子供の頃は本当に泳いでいたようだが、私の幼少期には鯉がたくさん泳いでいた。私の古い記憶の中にも、こんなことがある。法事でたくさんの大人が集まり、私は居場所がないために、ずっと渡り廊下で鯉に餌を投げつけていた。何かの不意に、渡り廊下から落下し、小さかった私は自力で戻ることができず、プールと廊下の間で誰かが助けてくれるまで砂利の上でひっそり、泣かずに待たざるをえなかった。大人はアッ!と声をあげ、慌てて助けてくれた。安心して泣いた。

 そして、建て替えにあたり、このプールは駐車場にすることが決まった。3台くらいは駐車できるため、プールの大きさがなかなかなことが思い出される。そして、このプールに住む数多の鯉たちも、川に放流することが決まった。無論、鯉を無断で放流してはいけないだろうが、恐らく村役場にでも許可をとっていたのだろう。そして当日を迎えた。この日のことはよく覚えている。朝から親戚がたくさん集まり、賑やかだった。巨大なポリボトル3つくらいにプールの水を流し込む。大変な作業だっただろう。そして水がほとんどなくなった頃、鯉も居なくなってしまった。プールが、実は大人の男性が1人すっぽり埋まるくらいの深さだったことに、未就学児の私は驚き、泣いた。もしこのプールに誤って落ちようなら、溺れ死んでいたかもしれないと怖くなったのだ。親戚の誰かが、飛鳥ちゃんもおいでよ!と呼んでくれたが、固辞した。母の胸でまた泣いた。親戚の誰かがわたしたち姉弟が喜ぶだろうと買ってくれていた、アンパンマンチョコを食べるしかなかった。夕方くらいに軽トラで近所の川の中流に向かい、数十匹の鯉たちと別れた。祖父母と赤ちゃん鯉だね、と可愛がった子鯉も数匹いた。金色の美しい鯉も居た。1匹1匹に名前をつけることもないまま、別れた。

 あと、その川は、遊び場の少ない小学生時代の私にとって、特別な場所だった。すぐそばのれんげ畑が浄水場になってもあの川は遊び場だった。が、この鯉と別れたことを忘れている時期もあって、鯉らしきものが泳いでいるのを見つけると、友達と大興奮したこともあった。寝る前、あれはもしかしたら、あの時の我が家の鯉なのかもしれないと思い出し、ドキドキした。

 っていう昔の思い出、いつもの川に、いつもいるあの鯉達のせいで思い出してしまう。なんてことない日常のなんてことない一大事、実家も築20年なわけだ。

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