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断片・短編5 お姉ちゃんになった日

 4つ違いの弟がいる。小さいころは、しょっちゅう熱を出したりお腹を壊したりしていた。体つきも華奢で小柄だった。中学生になると、ぐんぐん背が伸びて、バスケ部で活躍していたのだから、病弱というのでもなく、ちょっと体が弱かったという程度だったのだろう。 
 私はといえば、明日学校に行きたくないなあ、熱が出たら行かなくてすむなあ、なんて浅知恵を働かせて、真冬に自分の部屋の窓を全開で寝ても、熱どころか咳ひとつ出ない、がんじょうなたちだった。
 そんなふうだから、自然と母の目は弟に向きがちで、その分を父が埋めてくれてはいたのだけど、母の視線が私を素通りする度に、あたしもここにいるよ、言いたいような気持になった。

 一時期、夜になると弟が、足が痛いとぐずるようになった。小さな子供にはありがちなことで別に病気とかではないのだと、あとで知ったけれど、そういうときは必ず、うつぶせに寝た弟のふくらはぎを、母がそうっとそうっと、寝つくまでさすってやっていた。
 いいなあ、いいなあ、いいなあ、あたしもさすってほしいなあ。
 言いたかったのに言えなかった。黙って横で見ているだけだった。
だって、私はお姉ちゃだから。
 母の口癖だった。
「お姉ちゃんなんだから、ちゃんと面倒をみてあげてね」
 スーパーが混んでいると、私は弟と手をつなぎ、エスカレータの横の空いたスペースで、母の買い物が終わるのを待つ。
「お姉ちゃんなんだから、しっかり見ててね」
 待ちきれなくなった弟が、母を探しに走りだそうとするのを、
「もうすぐ来るから、もうちょっとだから、ほら、あれ、おかあさんじゃない?」
 懸命になだめて、振りほどかれそうな手を必死でつかむ。そのうち、弟がめそめそし始める。私だって泣きたくなる。けど、お姉ちゃんだから泣かなかった。
 そんなこんな、ほかにもいろいろ。決して弟のことは嫌いではなかったけれど、お姉ちゃんなんだから、言われても、しだいに素直に頷けなくなっていった。下を向いて、むっと不機嫌になる私に、母はそっとため息をついた。

 小学校3年生の夏休み前だった、と思う。
 母が私だけを連れてショッピングモールに出かけた。弟は近所に住む祖父母の家に預けられたのか、父が家にいて一緒に留守番だったのか、なぜ私だけ連れて行ったのか、そのあたりの記憶はあいまいで思い出せない。
 お目当ては人気の洋菓子店で、長い行列に並んだ。そばから離れないのよ、言いつけ通り、母にぴったりくっついた。大人ばかりの行列に埋もれて視界はふさがれてしまい、よその人のバッグの角が頭に当たったりしたし、たちこめる熱気で暑かった。たぶん30分とか並んだような気がする。もっと長かったかもしれないけど、飽きたり嫌になったりしなかった。
 母の隣にいたから。
 いつもは母が弟と手をつなぎ、私が弟と手をつなぐ。父がいるときは私と手をつないで、母と私の間には必ず弟がいる。それが今日は、母とふたりっきり。
あたしの隣にお母さんがいる。
 不思議でどきどきして、恥ずかしいようで嬉しくて、ちっとも長く感じなかった。

 やっとのことで手に入れた鮮やかな黄色の紙袋を下げて、母は急ぎ足になった。たぶん、人にあげる用だったのだろう、四角い箱はきれいにラッピングされてリボンがかけてあった。出口に向かう吹き抜けの通路は風が通って涼しかった。行列の熱気から解放されてほっとしたけど、もう帰っちゃうんだ、ちょっぴりがっかりもしていた。
 私と同じぐらいの年の子が、お母さんらしい人と手をつないでいた。ああ、そうなんだ、思いながら、急ぎ足の母にはぐれないように歩いた。

母の急ぎ足がぴたっと止まったのは、フードコートの入口だった。わりと席は空いていた。フードコートと時計を見比べた母は、私に言うようでもなく言った。
「だいぶ時間がかかっちゃったし。あっちでいいよね」
 通路の真ん中にいくつも並んだ茶色の木のベンチの間に自動販売機があった。缶コーヒーに炭酸飲料、オレンジジュース、色とりどりの缶がならんでいる。
 きっと、オレンジジュースなんだろうな、期待せずにいると、
「好きなの選んでいいよ」
 言われて驚いた。子供には甘い飲み物は与えない母の方針で、家ではお水か麦茶か果汁100パーセントのオレンジジュース。唯一の例外はカルピスで、それも母がきっちりと計って作るから、もっと濃いといいのに、いつも思っていた。
 好きなの選んでいいの? ほんとうに?
 だったらこれしかない。緑と白の涼しそうな缶の三ツ矢サイダー。

 従姉のともちゃんの家の冷蔵庫にあった。ともちゃんが、飲む? 聞いてくれた。
「あまいの?」
「あまくてしゅわっとしてすっとするの。タンサンだよ」
「じゃあ、いい」
 首を振ってしまった。
 ともちゃんが緑色の大きなペットボトルのキャプを捻ると、ぷしゅ、変な音がした。コップに注ぐと、しゅわしゅわしゅわぁ、透明な泡がはじけて、すっと鼻に抜けるいい匂いがした。飲むって言えばよかったな、後悔して、その日から三ツ矢サイダーは私の憧れになった。
「三ツ矢サイダーでもいいの?」
 おそるおそる聞くと、母が笑った。
「いいよ。もう、お姉ちゃんだからね」
 
 ごとん、三ツ矢サイダーの缶が自動販売機の取り出し口に落ちた。ベンチに母と並んで座った。冷たい缶をしっかりと握って、固いプルタブを開ける。ぶしゅ、ともちゃんの家の三ツ矢サイダーより大きな音がした。
 しゅーっ、ぱちぱちぱち、すうっといい匂いがした。
 どきどきどきどき、かぷっ、ひと口。
 わあっ。
 小さな泡の行列が上あごに張りついた。ぱちぱちぷちぷち弾ける。弾ける泡が、じゅわじゅわっとのどに向かって行進する。痛いような辛いような、ぴりっとした刺激が通り過ぎ、お腹の中で泡が踊った。初めての炭酸。驚きの後に、すぐさま広がったのは、雨上がりの森に吹く水色の風のようなさわやかな香りだった。口の中にさっぱりとした甘さが残る。
 うわうわうわ、なんだこれ。
 両手で冷たい缶を握りしめ、きょとんとしている私に母が聞いた。
「辛かった?」
 急いで首を振る。
「へいき。もう、お姉ちゃんだから」

 ごくごくごくっ。泡が口の中をくすぐる、うふふふ、笑ってしまう、楽しい。母も三ツ矢サイダーを飲んでいた、おそろい。
 30年も前のことなのに、2人で飲んだ三ツ矢サイダーの味を、いまだにはっきりと覚えている。きっと、母が隣にいたからだ。あのとき母の隣は私の場所だった。私だけのお母さんだった。お気に入りの半袖の黄色の花柄のワンピースを着た小学3年生の私は、今の私よりも若い母と並んで座って三ツ矢サイダーを飲んでいた。

 その後、お姉ちゃんなんだから、言われても素直に、うん、頷けるようになった。あのときの三ツ矢サイダーのおかげだ。



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