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海外で生活すると日本人は思いやりを忘れてしまう。

「思いやり」は日本人のもつ素晴らしい文化だ。

海外にいるとその思いやりを忘れてしまうのか、シンガポールで出会う日本人は思いやりに欠ける人が多い。彼らのモットーは「自分のことは自分で」なのだろうと勝手に思ってしまうほど相手のことはあまり気にしていない。

「自分のことは自分で」というと大人として当たり前でいいことのように思う。でも、実生活で体験するとそれはとても寂しい。

シンガポールに来てすぐ、同世代の日本人の集まりに参加した。食事が終わると彼らは、自分はバスだから、自分は電車だから、自分は自転車があるから、とさっさと各々帰路につき散っていった。まだ家への帰り方を覚えておらず、必死にとりあえず駅へ向かう人へついて行って帰ることはできたのだけれど、誰一人として何の助言もしてくれなかったことに驚いた。

シンガポール生活にも慣れてきて、趣味であるテニスを通じて仲間ができた。シンガポールは日本と同じで、日や時間帯によってタクシーは捕まりにくくなる。夜遅くまで飲んだ日も彼らは配車アプリで自分のタクシーを呼んで、さっそうと帰っていく。ほかの人の帰宅手段が確保できたか心配することも、一緒に乗り合わせて帰る提案もすることはない。何の悪気もなく行ってしまうのだ。

ホームパーティーをしようと買い出しの分担をしたら、飲み物担当の人はビールだけを買ってきて、お菓子担当の人はワサビ味のお菓子だけを買ってきた。それ、自分の好みだよね?みんなが何を飲みたいか食べたいか聞こうともせず想像すらしなかったのだ。

初対面の人に「不幸になってほしい」と言われたことがある。彼女はそのときしていたゲーム内の話をしていたようだけれど、不幸になってほしいなんて人から言われたことがないし、そんな言葉を簡単に発する人がいることに驚いた。気軽にそんなことをいう人とは仲良くなれないと思った。

日本にいたときは、こんな思いをすることはなかった。夜遅くまで遊んだときはお互いに帰り道の心配をして、夜道に一人取り残されることなんてなかった。ホームパーティーをするときは自然とバライティに富んだものが並んだ。人が傷つく言葉を簡単に発する人はいなかった。どれもほんの少し相手の立場になって考えれば変わる行動ばかりだ。

彼ら彼女らがもともとそういう人なのか、シンガポール生活がそうさせたのか、私にはわからない。それに、彼ら彼女らは「嫌な奴」ではなくシンガポールでのコミュニティに普通に属して普通に楽しんでいる。これが海外生活の常識なのか。もし、シンガポール生活が思いやりを失わせてしまったのだとしたら、私はこれ以上海外生活を続けることが怖い。

すくなくとも、私の日本での平和な日常はまわりの人の思いやりがあって成り立っていたのは確かだ。私はまわりの人に恵まれていた。感謝しかない。
私は人の思いやりに気づいて感謝できる人でありたいと思うし、私もまわりの人たちに思いやりを持てる人でありたいと思う。

自分が悪い方に変わらないように、海外生活は無意識に人を変えてしまうのかもしれないということは意識しておこう。

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