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コミュニケーション

私は今、重度の障がいをもった方々を支援する仕事をしている。

文字盤や視線入力(視線でパソコンに文字を入力する)で会話をする人もいる。
つんくさんがパソコンを使って会話しているイメージ。

私が関わる方は簡単な単語でのやり取りやまばたき、表情で伝える。訴えてくる。

その方法をある人に伝えたら
「それって100%合ってんの?」と返された。

私は答えられなかった。適切な答えが分からなかった。答えられなかった自分が悔しくて、落ち着いて再考。


自信がなかったのかもしれない。
私が良いように解釈をしているのではないか、どこかでそう思う自分もいたからだ。


100%合うやりとり?

言葉でのやり取りだって、そのまま受け取ってはいけないという面倒くさいやつがあるよね。
日本人は特に。

「好き」って言いながら1人だけ嫌いって言えないとか「嫌い」って言いながら好きの裏返しだったりとか。

子どものイヤイヤ期や恋愛のやりとりなんかを思い返したらそのままじゃないってことが多くある。

私もあったな…
「こんなに私と2人で過ごして、他の女の子に誤解されちゃうよ」って好きな彼に言ったこと。
「早く告白してよー」って言いたかったけど、言えなかった面倒な会話(笑)
多分伝わってなかったな。


大事なのは正解を決めることじゃなくて
これかな?あれかな?それともあえてのこっち?って、選択の幅を広げることじゃないか。

信頼関係でみえてくるもの

最初は分からないことも、徐々に仲良くなって見えてくるものはある。

"この人今『うん』と言ったけれど、いつもの返事の仕方じゃないな…納得していないかもしれない"
"悩んでいる返答だけれど、これはほぼ心で決めているな"

そんなふうに感じることがある。
これらは関係性によって生まれたものだと思う。

合っているかもしれないし、間違った解釈かもしれない。
けれど関係性によって選択肢が増えたことは間違いない。

先に書いた告白してほしい気持ちは、まだ関係性が浅かったために伝わらなかったと考察する。

私が仕事で会話していることも、関係性ありきなのではと気づいた。

コミュニケーションとは

問われた時に自信がなくてすぐに返せなかった自分。
これは結局、私次第であった。
自信がなかった故に自身がわ試していた方法を伝えることができなかった。
相手が…とか、知らないくせに!という憤りは、自分に向かっていた。

コミュニケーションは正解を求めることなのか?
間違っていてもやりとりを楽しむことだってある。勘違いから会話が成り立たなくて笑い話になることもある。
コミュニケーションってそういうものじゃないか。

だからってこちらの良いように解釈して良いわけではない。言葉という、一般的にわかりやすいもので表現できない彼彼女らには、細心の注意を払う必要はある。
勘違いしながら、会話のやりとりを繰り返して
彼彼女らと地域の橋渡しをする。

それが私と彼彼女らの関係性。


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