心のどこかで別れる未来が見えていたから、noteに書けなかった
私がまだSNSを使っていた頃。
知り合いが自分の恋人と一緒に撮った写真や、隣に恋人がいると思われる写真(匂わせ)をInstagramにあげているのを頻繁に見かけた。
でも、しばらく経って、知り合いの投稿頻度が減ったようながして、なんとなくプロフィールを覗いてみると、恋人と撮った写真が全て消されていた、ということがよくあった。
ああ、別れたんだな。
誰に聞かずとも察する。
幸せそうだなぁと私が押した「いいね」はどこにいったんだろう、と思ったりした。
noteを始めた頃、今のパートナーとは別の恋人(元彼)とお付き合いしていた。
詳しいことはまた別の機会に書こうと思うけれど、当時付き合っていた交際相手もnoteのユーザーだったので、お互いの投稿を読んで、感想を言ったり、新しい記事を書くとURLを共有したりしていた。
彼は記事の中でよく私のことを書いていた。
一緒にどこに出かけたとか
何を話したとか
彼女(私)の性格はこんな感じとか
そんな内容が多かった。
しかし、私がnoteを始めて少し経った頃、その恋人とは別れることになった。
破局した瞬間、彼は私のことを書いた記事を全て消した。
破局した手前、相手にどうこういうことはないけれど、相手が私に関する投稿を消したことを知った時は正直複雑な心境だった。
自分といた記憶を抹消されたというか、楽しかったこともあったはずなのに、全て無かったことにされたというか、それなら最初から載せなければ良かったのでは?と思ってしまったり、、完全に私のわがままだけども。
でも、相手にそういうことをされて、1つ自分に対しても気付いたことがある。
それは、「私は元恋人に対する記事を全く書いていなかった」ということ。
書いていなかった、ではない。
書かなかった、のほうが表現として正しい。
恋人の話を直接記事にするどころか、恋人がいることすら話に出さなかった。
もともとInstagramをやっていた時にも、恋人の話題は全く触れてこなかったので、なんとなく恋人について人前で話すこと自体に気恥ずかしさもあった。
ただ、今改めて胸に手を当てて考えてみると、あの時、私が書かないという選択をしたのは恥ずかしさもあったけれど、それ以上に、心のどこかで「この人とは別れるだろう」という未来が見えていたからだと思う。
別れた時に「消す」という行為すらも嫌だから、先に防御線を張っておいて、そもそも「書かない」ということを選んでいた気がする。
そう考えると、私のほうこそよっぽど冷淡で残酷だなと思う。
私のnoteにも度々登場する現在のパートナー。
彼のことはよくnoteに載せていて、惚気ているじゃないか!とこの文章を読んでいる人には、言われるかもしれない。
当然、この先、彼と破局するリスクもゼロではない。
でも、思う。
彼に対しては、もし別れてしまったとしても、「たくさんのことをこの人から学んだ」と言い切れる自信がある。
「良い経験をさせていただいた」という思い出として消化できると思う。
彼がどうこうというより、「私が何を学び、何を感じ、どう思った」という「私」を主軸にして文章を書けると感じているから、躊躇せず、彼のことを私もnoteに書いている。
あとは、Instagramと異なり、直接の知り合いがほぼいないというnoteだからこそ、惚気られるというのもある。
将来のことを打算的に考えず、思いっきり今の恋愛を楽しめているのなら、それは幸せなことかもね。
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