見方

誠実に向き合うこと、その対象に優劣をつけないことが難しい。全部に誠実に向き合っていたら、自分が向き合いたいものに向き合う前に人生が終わってしまうと思ったからだ。しかし、向き合いたいものに優先的に向き合えばそんなことは生じないのだ。それができていないことが悔しい。

目的がはっきりしていたはずなのに、その団体の人々に良く思われたくなって、過剰に入れ込み始めている気がする。それはいいけど良くないのだ。他に私は熱量を注ぎたいものがあるのに。だから、私は熱量を注ぎたい対象にもっと時間と労力を割く。もっとそっちに頭を使う。その余剰で、他のことをする。そうすれば保たれるはずだ。全部は砕かなくてもいい。それは向こうも気づいている。だから、お互いにそんな感じで。

あーーーーーー、この感じが嫌なんだった!世間一般のコードになんて乗りたくない!!!いやだいやだ!どうせ最後は乗っている気がするのだけれど、嫌なのだ。なんでだ?よくわからない。わかったのは、今日私の中で、一つの人間の括りができたこと。これから比較検討が続いていくが、今回の仮着地点は、物事を斜に構え、人生をある程度知ったような感じを醸す、学問を深めはしないが、勉強はしており、経済を回してきた人間という括りである。うーーむ。ちょっと言い方に棘があるかも。この棘を溶かして真っ平らにできるような体験を求めている。棘は嫌です。抜いてください。そして、溶かしてください。

『勉強の哲学』を読み終えた。私はもうバカなのかもしれない。そして、もっとバカになりたいと思っている。信頼性、確かさは高3の時からのテーマだが、それは私の憧れの対象にまで適応されていることがわかった。私は、絶えず勉強を続ける人々とそのつながりに大変な憧れがあり、その根本はどうやら、不断の勉強が信頼性、確実性を担保するものであるらしいことにあった。

どこまでも安心したいの。人間だから。

でも、実践と理論の交わるところにいたいから、曖昧さも確実さも両方をバランス良く。ね。


読んでくださった方へ、何を思って読んでいたのか、読んでくだすったのか、コメントくをだされば、家の前にやまびこをしに走るくらい、喜びます。