見出し画像

映画『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』をみて

画像1

映画『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』をみて、「実際にこころに大きなケガを負った事がある人が作った物語だ」と思った。

ドラマや映画には、深く落ち込んだ人が周りから「嫌なことは忘れて元気出せよ」とか「やまない雨はないさ」とか「オレたちがいつもそばに付いてるぞ」みたいな言葉を掛けられて立ち直る、みたいな描写がしばしば出てくる。

こころが健康な人はそういうシーンをみて、立ち直るキャラに感情移入して楽しむんだけど、それを楽しめるのは「高台」にいるからなんですよね。

もし、以前の僕が「傷ついて落ち込んだ主人公が立ち直る」という物語を考えるとしたら、そういうものになっていたと思う。そうしないと健康な人がエンターテイメントとして楽しむにはあまりにも重たすぎるし、……というか、それ以外の描きかたを思いつくこともできないと思う。
けど、こころに大きなケガを負った人は、ああいうシーンを見るの、かなりしんどいんですよね。

そもそも「落ち込んだ」と「こころがケガを負った」というのが似ているようでかなり違う。

僕は以前ちょっと病気をしたことがあります。

僕の場合は大学に入って新しい友だちもたくさん出来て、これから作品バリバリ作りまくって目立ちまくるでー!というタイミングですとんと落っこちてしまったので、例えるなら、事故にあって足の骨折れた、みたいな感じでしょうか。

足の骨折れてる人には登山は無理なんですよ。
やまない雨がやもうが大好きな仲間たちがそばにいようが、いやいやそういう問題じゃないんですって、骨おれてるから登山は無理なんです、という気分になる。

いまだにあの時、何がいけなくて病気になったのか自分でもよくわからない。
今は特に問題なく生きてるけど、「治った」のか、「見えないぐらい薄くなってるけどケガはまだある」のか自分でもわからない。

ただ、以前は「そういう病気になるような人」と「自分」とはまったく別ジャンルの人間だと思っていたけど、そうではない、と今はわかる。

自分が病気をするまでは「こころの病」みたいなものは性格が暗い人や意志の弱い人、不幸な生いたちの人がなるものだと思っていたんですよね。
でも、実際はそんな感じでもなかったんですよ。明るく楽しく元気なあなたでも、明日すとんと落っこちないとも限らない。
(逆に性格的にめっちゃ暗くて気が弱くてもこころの健康的はなんの問題もない人もたくさんいると思う。)

『シン・エヴァ』の中でも落ち込んだ人や、立ち直る人が描かれているんだけど、その描きかたがなんとなく自分も実際にこころに大きなケガを負った事がある人が描いたもののように感じた。

ニュアンス的な部分が大きいので具体的に「このシーンのこのセリフが……、」という説明はしづらいんですが、例えば「元気をだして!」というセリフがあったとして、他のドラマや映画ではどうしても「元気な人が元気じゃない人に言って(あげて)る感」を覚えるんですよね。

でも、『シン・エヴァ』からはなんとなく、
「『元気だせ』って言ってるドラマみて元気だせたら苦労はしないよな」
「おれもめっちゃ元気という訳じゃないけど、君が今より元気をだせるように応援したいと思ってこういう話を描いているよ」
というような優しさを感じた。
(庵野秀明監督について詳しい訳ではないのでぜんぜん的はずれなこと言っていたらすみません。)

ただ、この「優しさ」が、今すでにめっちゃ元気で、これからもずっと自分は元気だって(思いこんでいる)人がみても強く感じるものなのかどうかはわからないです。
なので、「このシーンに出てくるあれは○○のオマージュだ」とか「なん号機の設定がこうで……」とか、「一本の映画の展開としてどうだ」とか「SFアニメの完結編としてどうだ」とか……、そういう知識的な部分は僕はあまりわからないんですが……。

でも、わかったとしても、まぁ、それも大きな要素なんだろうとは思うけど、優しさの前では大した事ではないようにも感じました。

そういう事よりも、『エヴァンゲリオン』という物語によって元気を出すということや優しさについて描いて見せてくれたということに強くこころを震えさせられたのです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?