ChatGPTによる「アダムとイブ」とアウグスティヌスのリビドー
James Joyce はかのFinnegans Wakeを下記のように書き出している:
riverrun, past Eve and Adam’s, from swerve of shore to bend of bay, brings us by a commodius vicus of recirculation back to Howth Castle and Environs.
どれだけ混ぜこぜな英語を読み取れるだろう?柳瀬尚紀氏の本は持ってるけど今は見ずに。と言いつつ思い出してるけど笑
「川が走るように流れ、イブとアダムを思わせるような、曲がりくねった岸から湾へ、私たちをコモディウス帝の村に連れて行く、復活やホース城やバイロン卿がいるような雰囲気のところの」、みたいな。
bendはマドンナのマテリアルガールの記事のところで、イーグルスのホテルカリフォルニアで女の子がねじれたティファニーや、メルセデス「bends」にのってる(メルセデスみたいなグラマラスな体型とか)と出てきましたね。
vicusはハムレットと関係あるようです。
この次のパラグラフにはトリスタンが出てきます。ユリシーズにはいかがわしいところでノートゥングを振り回すレオポルド・ブルームが出てきますので、ワーグナーのトリスタン和音を思い出しながら読んでいくのがいいのでしょう。
ChatGPTはジョイスのフィネガンズウェイクだと指摘しますが訳してくれませんでした。
ここで私が指摘したいのはEve and Adamにpastがかかっていること。
それではそのpastに飛ぼうーアウグスティヌスが記述しフーコーが再構成したアダムとイブの物語、とりわけアダムの罰に。
ミシェル・フーコーの講演:有名な神学者のアウグスティヌス(354-430)のアダムへの罰について
フーコーが講演(日本語訳 フーコー・コレクション5巻pp116 性現象と孤独)や「性の歴史 4巻肉の告白」で下記の指摘をしている。
ここでは英語での講演(場所不明)でありフランス語ではないのであまり凝った表現をしていないせいか、ChatGPTで翻訳してもよくわかるので、肉の告白でなく、こちらでいきましょう。ブラウザの翻訳でも十分いけると思います。最後まで読むと反論コメントもついているので考えるヒントになります。
下記引用は公演のもの、中間部分に出てくる1パラグラフを抜粋
ちょっと長いですが1パラグラフの前半を提示します。パラグラフ全体は下記参考をご覧ください。
https://www.lrb.co.uk/the-paper/v03/n09/michel-foucault/sexuality-and-solitude
The surprising point ,,,,he(Augustine) then admits that sexual relations could have taken place in Paradise before the Fall. This is all the more remarkable since Augustine is one of the first Christian Fathers to admit the possibility.
ChatGPT訳
驚くべき点は、、、、彼(アウグスティヌス)が堕落前の楽園で性的な関係があった可能性を認めているという事実です。これは、アウグスティヌスがその可能性を初めて認めたキリスト教の教父の一人であるという点からさらに注目に値します。
Before the Fall, Adam’s body, every part of it, was perfectly obedient to the soul and the will. If Adam wanted to procreate in Paradise, he could do it in the same way and with the same control as he could, for instance, sow seeds in the earth. He was not involuntarily excited. Every part of his body was like the fingers, which one can control in all their gestures. Sex was a kind of hand gently sowing the seed. But what happened with the Fall? Adam rose up against God with the first sin.
堕落の前、アダムの身体、そのすべての部分は魂と意志に完全に従順でした。楽園で子孫を残したいと思えば、アダムは、たとえば地に種をまくのと同じ方法で、同じ制御を持ってそれを行うことができました。彼は無意識に興奮することはありませんでした。彼の身体のすべての部分は、指のように、そのすべての動作をコントロールできるものでした。性は種を静かにまく手のようでした。しかし、堕落の時、何が起こったのでしょうか? アダムは最初の罪で神に逆らいました。
Adam tried to escape God’s will and to acquire a will of his own, ignoring the fact that the existence of his own will depended entirely on the will of God. As a punishment of this revolt and as a consequence of this will to will independently from God, Adam lost control of himself. He wanted to acquire an autonomous will, and lost the ontological support for that will.
アダムは神の意志を逃れ、自分自身の意志を獲得しようと試み、自分の意志の存在が完全に神の意志に依存していることを無視しました。この反乱の罰と、神から独立して意志を持とうとするこの意志の結果として、アダムは自己をコントロールする能力を失いました。彼は自立した意志を獲得しようとし、その意志の本体的なサポートを失いました。
中略
His body, and parts of his body, stopped obeying his commands, revolted against him, and the sexual parts of his body were the first to rise up in this disobedience.
彼の体、および体の一部は、彼の指示に従わなくなり、彼に反乱し、彼の身体の性的部分がこの服従違反に最初に立ち上がりました。
The famous gesture of Adam covering his genitals with a fig leaf is, according to Augustine, not due to the simple fact that Adam was ashamed of their presence, but to the fact that his sexual organs were moving by themselves without his consent. Sex in erection is the image of man revolted against God. The arrogance of sex is the punishment and consequence of the arrogance of man. His uncontrolled sex is exactly the same as what he himself has been towards God – a rebel.
アダムがイチジクの葉で自身の恥部を覆った有名な仕草は、アウグスティヌスによれば、単なる恥ずかしさだけでなく、彼の性器が彼の意志に関係なく自発的に動いていたことに起因しています。勃起した性行為は、アウグスティヌスにとって、神に対する人間の反逆の象徴であるとされています。性行為の傲慢さは、人間の傲慢さの罰であり、その結果であると捉えられています。彼の制御できない性行為は、彼自身が神に対して行った反逆とまったく同じものであるとされています。
・・・・・中略
The principle of autonomous movements of sexual organs is called libido by Augustine. The problem of libido, of its strength, origin and effect, thus becomes the main issue of one’s will.
アウグスティヌスは、性器の自律運動の原則を「リビドー」と呼びました。したがって、リビドーの強さ、起源、および影響に関する問題は、意志の主要な問題となります。
引用ここまで
つまり堕落前は欲望なしに楽園で性行為をしていたが、堕落後はリビドーをもち性器はいうことをきかなくなり欲望本位の性行為をすることとなった。それが神の罰、そして、男と性器の関係は神と神に反逆する人と同じ位置付けである、というのです。このようなアナロジーでアウグスティヌスが筆を進められるところが不思議ではあります。
さて、フーコーはアウグスティヌスの説をexegetic fantasiesとして見つけ出してきましたが、そのアウグスティヌスの原典を読んでみたくないですか?
それが下記です
https://www.thelatinlibrary.com/augustine/civ14.shtml
アウグスティヌス【神の国 14巻 17章】より抜粋
「quia nondum libido membra illa praeter arbitrium commouebat,
nondum ad hominis inoboedientiam redarguendam sua inoboedientia caro quodam modo testimonium perhibebat.
なぜなら、まだ性的な欲望が彼らの体を意のままにはせず、人間の不服従を証明するために、その不服従がまだ彼らの肉体に対してある種の証拠を提供していなかったからです。」
ラテン語にしっかりリビドーてありますね。あとわかるのはtestimoniumこれは英語でtestimony証言、ですね。
中略
「Qua gratia remota, ut poena reciproca inoboedientia plecteretur, extitit in motu corporis quaedam inpudens nouitas,
神の恩寵が除かれた結果、相互の不服従に対する罰として、体の一部である無遠慮な新しさが現れ、」
gratia 恩寵、corporis 身体、inpudens 恥知らず、noitas 新しいもの
ポイントはこの新しさですね。
中略
「Proinde confusi inoboedientia carnis suae,
そのため、肉体の不服従に困惑し」
英語でobey従うをinを接頭辞につけて否定しています。confusiも困惑とか混乱とか英語でconfusionとしてしっかり残ってますね。
17章全文のChatGPT訳は下記に参考の2としてありますので参照ください。
このラテン語の翻訳は教文館の翻訳と照らし合わせましたが、結構いい線行ってます。
これを読めばフーコーがアウグスティヌスをどう再構成したかわかりますが、それより何よりおもしろすぎるアウグスティヌスのこの学説は普段は黙殺されていることがわかります。
フーコーと性の歴史 プロジェクト
人の心を吐き出させ覗き込むような、フーコーを苦しめた精神分析の原点がここにあり、それは司牧規則と告白のセットによってカトリックが人を支配したというフーコーの告発となっています。そして、司牧規則と告白のセットは国家理性と精神分析に移行するだろう、というのが性の歴史1巻のスケッチや講義録「安全・領土・人口」(1977-78)で説明されています。ただし、このストーリーに上書きがされすぎててバランスが悪く早まった死によって最終的にまとめきれていないように思います。
章立ての継承性について言えば性の歴史2.3巻での同性愛についての記述は「肉の告白」では影も形もありません。引用されているボズウェルによる先行研究もあるのに。系譜的に言えば、肉の告白の5世紀ころから精神分析までどう繋ぐのか、講義録でも、告白についてパレーシアを取り上げることですべてやり直し始めてしまい、近代まで繋げられるのかすら分かりません。パレーシアとキュニコスで近代までつなげるつもりだったのでしょうか?フーコーの講義録は毎年最後に近代哲学とどう繋がるか議論するのでそこが抜群に面白い。
しかし、中世から近代へだんだん概念は希薄化していっています。そういう意味で、面白いのですが各論の印象で、フーコーの死去が残念です。
しかし思うに、人の命は有限。どこかまだまとまったところから、自分で考えるのが思索なのだから後は自分で楽しむ領域です。
司牧規則、贖罪規定書、告白についてはかの阿部謹也先生も本にまとめていますので、いずれ。とくに司牧規則は日本語に訳出されていません。
フーコーの本はリファレンスしっかり読まないと鑑賞しているだけになる気がします。そうではなくて、思索することが楽しみになるようになりたい。
今回の本論は以上です。
以下は参考として、ChatGPTによるフーコーとアウグスティヌスの翻訳を掲げています。
【ネットで読める参考文献】
https://core.ac.uk/download/pdf/236007537.pdf
http://czt13771.cocolog-nifty.com/blog/2019/05/post-1bf65c.html
https://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51941454.html
【参考1 フーコー講演 広めにコピペ抜粋とChatGPT】
The surprising point is not that Augustine would give such a classical description of the sexual act, but the fact that, having made such a horrible description, he then admits that sexual relations could have taken place in Paradise before the Fall. This is all the more remarkable since Augustine is one of the first Christian Fathers to admit the possibility. Of course, sex in Paradise could not have the epileptic form which we unfortunately know now.
驚くべき点は、アウグスティヌスが性行為について古典的な記述を提供することではなく、そのようなぞっとするような描写をした後、彼が堕落前の楽園で性的な関係があった可能性を認めているという事実です。これは、アウグスティヌスがその可能性を初めて認めたキリスト教の教父の一人であるという点からさらに注目に値します。もちろん、楽園での性行為は、私たちが今知っているようなてんかん発作の形をとっているわけではありませんでした。
Before the Fall, Adam’s body, every part of it, was perfectly obedient to the soul and the will. If Adam wanted to procreate in Paradise, he could do it in the same way and with the same control as he could, for instance, sow seeds in the earth. He was not involuntarily excited. Every part of his body was like the fingers, which one can control in all their gestures. Sex was a kind of hand gently sowing the seed. But what happened with the Fall? Adam rose up against God with the first sin.
堕落の前、アダムの身体、そのすべての部分は魂と意志に完全に従順でした。楽園で子孫を残したいと思えば、アダムは、たとえば地に種をまくのと同じ方法で、同じ制御を持ってそれを行うことができました。彼は無意識に興奮することはありませんでした。彼の身体のすべての部分は、指のように、そのすべての動作をコントロールできるものでした。性は種を静かにまく手のようでした。しかし、堕落の時、何が起こったのでしょうか? アダムは最初の罪で神に逆らいました。
Adam tried to escape God’s will and to acquire a will of his own, ignoring the fact that the existence of his own will depended entirely on the will of God. As a punishment of this revolt and as a consequence of this will to will independently from God, Adam lost control of himself. He wanted to acquire an autonomous will, and lost the ontological support for that will.
アダムは神の意志を逃れ、自分自身の意志を獲得しようと試み、自分の意志の存在が完全に神の意志に依存していることを無視しました。この反乱の罰と、神から独立して意志を持とうとするこの意志の結果として、アダムは自己をコントロールする能力を失いました。彼は自立した意志を獲得しようとし、その意志の本体的なサポートを失いました。
That then became mixed in an indissociable way with involuntary movements, and this weakening of Adam’s will had a disastrous effect. His body, and parts of his body, stopped obeying his commands, revolted against him, and the sexual parts of his body were the first to rise up in this disobedience.
それが無意識の動きと不可分に混ざり合い、アダムの意志の弱体化は壊滅的な影響を持ちました。彼の体、および体の一部は、彼の指示に従わなくなり、彼に反乱し、彼の身体の性的部分がこの服従違反に最初に立ち上がりました。
The famous gesture of Adam covering his genitals with a fig leaf is, according to Augustine, not due to the simple fact that Adam was ashamed of their presence, but to the fact that his sexual organs were moving by themselves without his consent. Sex in erection is the image of man revolted against God. The arrogance of sex is the punishment and consequence of the arrogance of man. His uncontrolled sex is exactly the same as what he himself has been towards God – a rebel.
アダムがイチジクの葉で自身の恥部を覆った有名な仕草は、アウグスティヌスによれば、単なる恥ずかしさだけでなく、彼の性器が彼の意志に関係なく自発的に動いていたことに起因しています。勃起した性行為は、アウグスティヌスにとって、神に対する人間の反逆の象徴であるとされています。性行為の傲慢さは、人間の傲慢さの罰であり、その結果であると捉えられています。彼の制御できない性行為は、彼自身が神に対して行った反逆とまったく同じものであるとされています。
Why have I insisted so much on what may be nothing more than one of those exegetic fantasies of which Christian literature has been so prodigal? I think this text bears witness to the new type of relationship which Christianity established between sex and subjectivity. Augustine’s conception is still dominated by the theme and form of male sexuality. But the main question is not, as it was in Artemidorus, the problem of penetration: it is the problem of erection. As a result, it is not the problem of a relationship to other people, but the problem of the relationship of oneself to oneself, or, more precisely, the relationship between one’s will and involuntary assertions.
なぜ私はキリスト教文学が豊富に持っていたであろう、聖書解釈の空想の一つでしかないかもしれないものについてこれほどまでに主張しているのでしょうか? このテキストは、キリスト教が性と主体性との間に確立した新しい関係の証拠を示していると考えています。 アウグスティヌスの概念はまだ男性の性に関するテーマと形式に支配されています。 しかし、主要な問題は、アルテミドロスのように浸透の問題ではなく、勃起の問題です。 その結果、他の人々との関係の問題ではなく、自己と自己の関係、あるいはより正確には、自己の意志と無意識の主張との関係の問題です。
The principle of autonomous movements of sexual organs is called libido by Augustine. The problem of libido, of its strength, origin and effect, thus becomes the main issue of one’s will. It is not an external obstacle to the will. It is a part, an internal component, of the will. And it is not the manifestation of petty desires.
アウグスティヌスは、性器の自律運動の原則を「リビドー」と呼びました。したがって、リビドーの強さ、起源、および影響に関する問題は、意志の主要な問題となります。これは意志に対する外部の障害ではありません。それは意志の一部で、内部の要素です。そして、それは卑俗な欲望の現れではありません。
Libido is the result of one’s will when it goes beyond the limits God originally set for it. As a consequence, the means of the spiritual struggle against libido do not consist, as with Plato, in turning our eyes upwards and memorising the reality we have previously known and forgotten. The spiritual struggle consists, on the contrary, in turning our eyes continuously downwards or inwards in order to decipher, among the movements of the soul, which ones come from the libido. The task is at first indefinite, since libido and will can never be substantially dissociated from one another. And this task is not only an issue of mastership but also a question of the diagnosis of truth and illusion. It requires a permanent hermeneutics of oneself.
リビドーは、神が元々設定した限界を超えた場合、人の意志の結果です。その結果、リビドーに対する霊的な闘いの手段は、プラトンのように視線を上向きに向け、以前に知っていたものを覚えておくことではありません。むしろ、霊的な闘いは、魂の動きの中から、どれがリビドーから来ているかを解読するために、私たちの視線を連続的に下向きまたは内向きに向けることにある。この課題は最初は不確定であり、リビドーと意志は本質的に互いから完全に分離することはできません。そして、この課題は主従関係の問題だけでなく、真実と幻想の診断の問題でもあります。これには自己の持続的な解釈学が必要です。
【参考その2 アウグスティヌス 「神の国」 14巻 17章】
https://www.thelatinlibrary.com/augustine/civ14.shtml
[XVII] Merito huius libidinis maxime pudet, merito et ipsa membra, quae suo quodam, ut ita dixerim, iure, non omni modo ad arbitrium nostrum mouet aut non mouet, pudenda dicuntur, quod ante peccatum hominis non fuerunt. Nam sicut scriptum est:
Nudi erant, et non confundebantur, non quod eis sua nuditas esset incognita, sed turpis nuditas nondum erat,
quia nondum libido membra illa praeter arbitrium commouebat,
nondum ad hominis inoboedientiam redarguendam sua inoboedientia caro quodam modo testimonium perhibebat.
Neque enim caeci creati erant, ut inperitum uulgus opinatur; quando quidem et ille uidit animalia, quibus nomina inposuit, et de illa legitur: Vidit mulier quia bonum lignum in escam et quia placet oculis ad uidendum. Patebant ergo oculi eorum, sed ad hoc non erant aperti, hoc est non adtenti, ut cognoscerent quid eis indumento gratiae praestaretur, quando membra eorum uoluntati repugnare nesciebant.
「この性的な欲望に対して、私たちは当然恥ずべきです。そのため、私たちの意のままに動かすか、動かさないか、いくらかの権利を持つ部分、つまり私たちの性器を指して「恥ずべき」と呼びます。なぜなら、人間が罪を犯す前には、それらは恥ずべきものではありませんでした。書かれているように、「彼らは裸であり、恥じることはありませんでした」。これは、彼らの裸が知られていなかったわけではなく、むしろ不品行な裸ではなかったためです。なぜなら、
まだ性的な欲望が彼らの体を意のままにはせず、人間の不服従を証明するために、その不服従がまだ彼らの肉体に対してある種の証拠を提供していなかったからです。
彼らは盲目的に創造されたわけではありません、一般の誤解とは異なります。なぜなら、彼らは動物を見て名前をつけ、女性も「良い木で、見ても心に善く思う」と認識していました。彼らの目は開かれていましたが、神の恩寵の衣服に与えられるものを認識するようには開かれていませんでした。彼らの肢体が彼らの意志に逆らう方法を知らなかったからです。
Qua gratia remota, ut poena reciproca inoboedientia plecteretur,extitit in motu corporis quaedam inpudens nouitas, unde esset indecens nuditas, et fecit adtentos reddiditque confusos. Hinc est quod, postea quam mandatum Dei aperta transgressione uiolarunt, scriptum est de illis: Et aperti sunt oculi amborum et agnouerunt quia nudi erant, et consuerunt folia fici et fecerunt sibi campestria. Aperti sunt, inquit, oculi amborum, non ad uidendum, nam et antea uidebant, sed ad discernendum inter bonum quod amiserant et malum quo ceciderant. Vnde et ipsum lignum, eo quod istam faceret dinoscentiam, si ad uescendum contra uetitum tangeretur, ex ea re nomen accepit, ut appellaretur lignum sciendi boni et mali.
「神の恩寵が除かれた結果、相互の不服従に対する罰として、体の一部である無遠慮な新しさが現れ、それによって恥ずべき裸が生じ、人々を恥じさせました。そのため、神の戒めを破って明らかになった後、彼らについて「その目は開かれ、彼らは裸であることを認識し、無花果の葉を縛り、自分たちに衣服を作った」と書かれています。『目が開かれた』と言いますが、見るためではなく、以前から見ていたので、善と悪の違いを見分けるためにです。そのため、その知識をもたらした木自体が、食べることが禁じられた場合にその知識をもたらすため、その名前を受けました。それは善と悪の知識の木と呼ばれるようになりました。」
Experta enim morbi molestia euidentior fit etiam iucunditas sanitatis. Cognouerunt ergo quia nudi erant, nudati scilicet ea gratia, qua fiebat ut nuditas corporis nulla eos lege peccati menti eorum repugnante confunderet. Hoc itaque cognouerunt, quod felicius ignorarent, si Deo credentes et oboedientes non committerent, quod eos cogeret experiri infidelitas et inoboedientia quid nocet.
Proinde confusi inoboedientia carnis suae, tamquam teste poena inoboedientiae suae, consuerunt folia fici et fecerunt sibi campestria, id est succinctoria genitalium. Nam quidam interpretes "succinctoria" posuerunt.
「なぜなら、病気の苦痛は、健康の喜びよりもさらに明白になります。したがって、彼らは裸であることを認識したのです。その裸は、罪に対する抵抗がない状態で、心に恥じさせずに存在していました。彼らはこのことを理解したのです。実際、もし彼らが神を信じ、従うなら、罪や不服従を経験する必要がなかったかもしれませんでした。
そのため、肉体の不服従に困惑し、その不服従の罰として、無花果の葉を使い、自身の身体の部分を覆うものを作りました。これを「campestria」と呼び、いくつかの解釈者は「succinctoria(腰巻)」と解釈しました。」
Porro autem "campestria" Latinum quidem uerbum est, sed ex eo dictum, quod iuuenes, qui nudi exercebantur in campo, pudenda operiebant; unde qui ita succincti sunt, campestratos uulgus appellat. Quod itaque aduersus damnatam culpa inoboedientiae uoluntatem libido inoboedienter mouebat, uerecundia pudenter tegebat. Ex hoc omnes gentes, quoniam ab illa stirpe procreatae sunt, usque adeo tenent insitum pudenda uelare, ut quidam barbari illas corporis partes nec in balneis nudas habeant, sed cum earum tegimentis lauent. Per opacas quoque Indiae solitudines, cum quidam nudi philosophentur, unde gymnosophistae nominantur, adhibent tamen genitalibus tegmina, quibus per cetera membrorum carent.
「Campestria」はラテン語の言葉であり、その由来は、野外で裸で運動していた若者たちが恥部を覆ったことからきています。したがって、このように身を包む者たちを「campestratos」と呼ぶことが一般的です。従って、罪によって有罪とされた不服従の意志に対して、性的な欲望が無遠慮に作用することを防ぐのは恥ずべきことでした。このことから、すべての民族は、その祖先から継承したため、恥部を覆う習慣を持っており、一部の野蛮人たちは、バスでも恥部を隠して体の一部を露出しないくらいに徹底的です。また、一部の裸体の哲学者、いわゆるギュムノソフィスト(gymnosophists)も、他の身体部位が裸である一方で、恥部には覆いを使用しています。
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