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中世キリスト教修道生活の核心その5 すべてを捨てる・自己放棄1 ChatGPTでアベラールとエロイーズ

今回は「すべてを捨てる sine proprietate vivatur=omnibus renuntiare」

自己の放棄の復習

アベラールとエロイーズにおいて「自己放棄」はどのような意味合いか、まずは第8書簡の3つの核心の提示から復習:

It videlicet continenter et sine proprietate vivatur, ac silentio maxime studeatur. Quod quidem, juxta dominicam Evangelica regnle discipliuam, lumbos precingere, omnibus renuntiare, otiosum verbum cavere. すなわち、節制的に生き、所有物を持たず、黙想に最も熱心である。確かに、主の福音の規律に従い、腰を締め、すべてを捨て、空虚な言葉を避けるべきです。

https://fr.wikisource.org/wiki/Page:Abelard_Heloise_Cousin_-_Lettres_II.djvu/3

所有物を持たず、すべてを捨てる。
引用元のルカ伝14:33

33 Sic ergo omnis ex vobis, qui non renuntiat omnibus quæ possidet, non potest meus esse discipulus.
33 それと同様に、あなたがたのうちで誰もが、自分のすべての財産を捨てない限り、わたしの弟子になることはできません。

修道院のメンバーになるには全てを捨てることが用件になっていたようである。ではすべてを捨てるとはどのような概念か。何を捨てたら全てを捨てたことになるのか。アベラール自身がすべてを捨てることについてどのように考えていたか、まずは続きを読もう。

アベラールの自己放棄

上記に続くアベラールのラテン語テキストから確認していこう。<https://fr.m.wikisource.org/wiki/Page:Abelard_Heloise_Cousin_-_Lettres_II.djvu/5>のスキャンデータからgoogle keepで文字認識してテキスト化。

II. Tunc autem relictis omnibusnudum Christum nudisequimur, sicut sancti fecerunt Apostoli, quum, propter eum, nou solum terrenas possessiones aut carnalis propinquitatis affectiones, verumetiam proprias postponimus voluntates: ut non nostro vivamus arbitrio, sed prælati nostri regamur imperio, et ei qui nobis loco Christi præsidet tanquam Christo penitus pro Christo subjiciamur. Talibus enim ipsemet dicit : « qui vos audit, me audit; et qui vos spernit, ipse me spernit. »

2その時、すべてを捨てて裸のキリストに従います。聖なる使徒たちが行ったように、主のために、地上の財産や肉体的な親密なつながりだけでなく、私たち自身の意志までもを後回しにします。私たちは自分の判断に従うのではなく、私たちの指導者の指示に従い、キリストの代わりに私たちに立っている人に、完全にキリストのために従属します。なぜなら、イエス自身がこのように言っています:『あなたがたを聴く者は、私を聴く者であり、あなたがたを拒む者は、私を拒む者である。』ルカ伝10:16

Qui si etiam, quod absit,
male vivat, quum bene præcipiat; non est tamen ex vitio hominis sententia
contemnenda Dci. De quolibet ipsemet præcipit dicens: «< quæ dixerint vo-
bis servate, et facite; secundum vero opera eorum nolite facere. » Hanc
autem ad Deum spiritalem a seculo conversionem ipsemet diligenter des-
cribit, dicens : « nisi quis renuntiaverit omnibus quæ possidet, non potest meus esse discipulus. »
彼(キリスト)が悪く生きて、良いことを命じることがあるかもしれませんが、それでも神の意志は人間の欠点から軽視されてはいけません。彼はすべてについて命じ、言っています:『彼らがあなたに言ったことは守り、行いなさい。しかし、彼らの行いに従ってはいけません。』(マタイ23:3)また、彼はこの世から神に向かって精神的に転向することについて、慎重に説明し、言っています:『だれでも、自分が持っているすべてを捨てない限り、私の弟子にはなれません。』(ルカ伝14:33)

Et iterum³: « si quis venit ad me, et non odit patrem suum, aut matrem, et uxorem, et filios, et fratres, et sorores, adhuc autem et animam suam, non potest meus esse discipulus. » Hoc autem est
odire patrem vel matrem affectiones earnalium propinquitatum nolle sequi;
sicut et odire aĥimam suam est voluntatem propriam sequi nolle. Quod alibi quoque præcipit, dicens : « si quis vult post me venire, abneget semetipsum, et tollat crucem suam, et sequatur me. »

さらに、もう一つ³:『誰でも私に来る者が、自分の父や母、妻、子、兄弟、姉妹、そして自分自身までも憎まない限り、私の弟子にはなれません。』(ルカ伝14:26) これは肉体的な親密なつながりを憎むこと、または自分の意志を追求しないことを意味します。彼(キリスト)は他の場所でも同じことを命じており、言っています:『誰でも私に従いたいなら、自己を拒否し、自分の十字架を負い、私に従いなさい。』(マタイ伝16:24)

https://fr.m.wikisource.org/wiki/Page:Abelard_Heloise_Cousin_-_Lettres_II.djvu/5

すべてを捨てる。特に、念を押しているのは
・所有物
・親族・交友関係
・意志
その根拠も聖書の福音書のイエスの言葉から取られている。これが自己放棄の具体的な核心である。
 また、意思については、意思を捨てて、キリストの代わりである長上(上長)に完全に従えと求めている。救済のためには、自己の放棄=完全なる服従である。
 ルカ伝14:33の引用についてラテン語聖書と確認しておこう。いつものサイトでの比較である。
qui non renuntiat omnibus quæ possidet, non potest meus esse discipulus.(聖書 <https://www.newadvent.org/bible/luk014.htm>)
« nisi quis renuntiaverit omnibus quæ possidet, non potest meus esse discipulus. »(アベラール)
non renuntiat =renuntiaverit ?との違いがある他は同じに見える。また前回のアベラールがこの3つの核心を上げた時の引用ではrenuntiat omnibus(聖書)→omnibus renuntiare(アベラール)の置換があったが、それとは違うrenuntiaverit omnibusという言葉にしてある。写本まで戻らないとよくわからないかもしれないし校訂されたら落ち着く異文なのかもしれない。

すべてを捨てるとは意志を捨てること

Sic enim propinquantes post eum venimus, hoc est eum maxime imitando sequimur, qui ait : « non veni facere voluntatem meam, sed ejus qui misit me. » Ac si diceret : cuncta per obedientiam agere.
したがって、彼に近づいて彼に従うことにより、私たちは彼に追随します。彼は言います、「私は自分の意志を成すために来たのではなく、私を遣わした者の意志を成すために来たのだ。」(ヨハネ伝 6:38)これは言わば、従順を通じてすべてを行うことを意味します。(岩波文庫pp242に該当)
Quid est enim, «< abnegare semetipsum, » nisi carnales affectiones propriamque voluntatem postponere, et alieno, non suo regendum arbitrio se committere? Et sic profecto crucem suam non ab alio suscipit, sed ipsemet tollit; per quam scilicet ei mundus crucifixus sit, et ipse mundo: quum spoutaneo propriæ professionis voto mundana sibi et terrena desideria interdicit, quod est voluntatem propriam non sequi.
自己を拒否する」とは、肉体的な感情(*)と自己の意志を後回しにし、他人の支配下に自己を委ねることではないでしょうか? そして、このようにして彼は確かに他から十字架を受け取るのではなく、自らそれを持ち上げます。その結果、彼は世界が十字架にかけられ、また自身も世界にかけられるのです。(ガラテア書6:14)なぜなら、自分の自由な意思に従わないように、自らの聖職の誓いに従って、自分に対して世俗的で肉体的な欲望を禁じているからです。(*畠中訳では、肉親への愛情)
Quid enim carnales aliud appetunt, nisi implere quod volunt? Et quæ est terrena delectatio, nis; propriæ voluntatis impletio, etiam quando id quod volumus labore maximo sive periculo agimus? Aut quid est aliud crucem ferre, id est cruciatum aliquem sustinere, nisi contra voluntatem nostram aliquid fieri, quantumillud videatur facile nobis esse vel utile?
なぜなら、肉体的な欲望が他に求めることは、自分が欲することを実現することではありませんか?そして、世俗的な快楽とは、自己の意志を実現することです。これは、我々が何かを望み、それを達成するために最大の努力や危険を冒す場合でさえ当てはまります。また、何かを耐え忍ぶこと、すなわち他人の意志に反することをすることは、それが容易であるかまたは有益であるかどうかにかかわらず、自己の意志に反することを意味します。

従順にしなさいとの根拠をキリストの神についての発言、「自己を拒否する」とは、肉体的な感情と自己の意志を後回しにし、他人(長上)の支配下に自己を委ねる・服従との定義をさらに展開・念押し。「世俗的な快楽とは、自己の意志を実現すること」と列記が続きます。

使徒的な生活

Quum vero ita tam rebus nostris quam nobis ipsis penitus renuntiamus, tunc vere omni proprietate abjecta vitam illam apostolicam inimus, quæ omnia in commune reducit, sicut scriptum est: « multitudinis credentium
erat cor unum et auima una. Nec quisquam eorum, quæ possidebat, aliquid
suum esse dicebat, sed erant illis omnia communia; dividebatur auten
singulis prout cuique opus erat. Non enim æqualiter omnes egebant; et
ideo non æqualiter omnibus distribuebatur, sed singulis pront opus erat.
したがって、私たちは完全に自分の物事と自分自身から完全に断絶すると、本当に使徒的な生活を送ります。これはすべてを共有する生活であり、それは「信じる者たちの多くは一つの心と一つの魂を持っていた。そして、彼らの中で誰もが自分の所有物を自分のものとは言わなかったが、すべてが共有され、必要に応じて分配されました。なぜなら、すべての人が平等に必要としているわけではなかったからです。したがって、平等にすべてを分配するのではなく、それぞれに必要なものを提供しました。
(vitam illam apostolicam inimus」は「使徒的な生活を送る」や「使徒的な生活に取り組む」と解釈)

Cor unum fide, quia corde creditur; anima una, quia eadem ex charitate
voluntas adinvicem, quum hoc unusquisque alii quod sibi vellet, nec sua
magis quam aliorum commoda quæreret, vel ad communem utilitatem ah
omnibus omnia referrentur: nemine quæ sua sunt, sed quæ Jesu Christi,
quærente seu affectante. Alioquin nequaquam sine proprietate viveretur,
quæ magis in ambitione quam in possessione consistit.
信仰に結ばれた一つの心、なぜならそれは心で信じられているからです。一つの魂、なぜなら愛から生まれる意志がお互いに通じ合い、それぞれが自分に望むことを他者にも願い、自己の利益や他者の利益よりも共通の善に向かっています。誰もが自分のものではなく、イエス・キリストのものを求め、追求しています。さもなければ、所有によってなく、それは所有よりもむしろ野心によるものである。

岩波文庫pp243に該当

自己放棄することで使徒的な生活が実現される。その使徒的な生活の評定としてアベラールは:私たちは完全に自分の物事と自分自身から完全に断絶すること、としている。そして、所有があるとさらに欲しくなる野心が有害としている。これは確かに、とは思う。
 共産主義のcomunistの語源すら omnia communiaと現れている。

まとめ

 前回見たように禁欲を競い合う野心を抑えるためにカッシアヌスは規則を作ったとのことであるが、自己放棄はわかりやすく完全に放棄を求めている。
 清貧という言葉があるがこれは誤解を招くかもしれない。清貧という言葉では所有という概念は残るかどうか任意性がある。そうではなくて所有権ふくめすべて放棄したものが,中世キリスト社会での清貧という言葉の定義である。中世ヨーロッパでの自己放棄は厳密な実践である。
 次回は修道院の規則や戒律を検討しよう。

執筆後記

 アベラールとエロイーズの修道院での禁欲・自己放棄・沈黙のうち、「自己放棄」の前半。今回は一旦まとめたものの、マラソンや東京にコンサートに行ったりで詰めきれず公開が伸ばし伸ばしになってしまいました。誰も待ってないとは思いますが😀。いまさら気がつきましたが聖書の出典のラテン語の比較をほとんどしていません。また後日。
 自己放棄の概念は、ソクラテス,プラトンの自己への配慮、汝自身を知れ、がストア派に伝わり中世に入っていった命題と絡み合い対立していく。これについては第二書簡にエロイーズが「哲学者と結婚」という古来からの議論をセネカを引用し、その中で「すべてを捨てる」という正当性を古代にも求めています。そのすべての捨て方が全く異なるのです:ギリシア=ローマでは雑事を奴隷に任せて捨て去り師匠と友愛の関係を結び哲学することで社会と関わりを深め自己を好きになっていきますが(フーコーの性の歴史3巻、自己の陶冶)、こちらは自己を否定し上長に完全に服従しキリストと使徒との関係を上長と自分の間に作ります。
 また、下記リンクにあるように自己放棄については近現代の日本にも伝わっていますが、その意味・解釈は当時の独自の解釈で中世の伝統からは変容しているようです。

 無神論者を標榜するサルトルやボーヴォワールにもこの言葉は出てきます。
 さらに今に近いところでは高橋たか子氏の「土地の力」でも出てきます。それらはフーコーの後に提示・議論することにしましょう。

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