見出し画像

ゴッホの見た星空(19) 《星月夜》の渦巻はミストラルなのか?

《星月夜》の渦巻

ゴッホの名作《星月夜》は不思議な絵である。なぜなら、夜空には大きくうねる渦巻模様が描かれているからだ(図1)。誰しも、夜空に渦巻を見ることはない。

図1 ファン・ゴッホの《星月夜》(1889年)。ニューヨーク近代美術館に所蔵されている。 https://www.artpedia.asia/work-the-starry-night/

この渦巻はいったいなんなのか? 以前の note の記事では、次の六つの説があると述べた(表1)。

表1 《星月夜》に描かれた大きな渦巻の候補。note「ゴッホの見た星空(2) 《星月夜》の星空」(https://note.com/astro_dialog/n/n7e5788762bc9)

新たな説

この原稿は2024年3月5日に書いている。一昨日(3月3日)、宇宙論関係で買いたい本があったので、書店に出向いた。目指す本はすぐに見つかり、レジへと向かった。そのとき、新書の新刊コーナーがあったので、眺めることにした。すると、興味をそそる一冊があった。『天気でよみとく名画』(長谷部愛、中公新書ラクレ、2024年)というタイトルの本だ。目次を見てみると、なんと《星月夜》に描かれた渦巻が気象学的に説明されているではないか。渦巻を説明するアイデアは六つではなく、七つだったのだ。非礼を詫びて、気象学説を紹介させていただく。

アルルに吹き付ける局地風、ミストラル

気象学説は《星月夜》に描かれた渦巻をアルルに吹き付ける局地風、ミストラルであるとするアイデアだ。まず、ミストラルについて簡単に紹介しておこう。

ミストラルはより一般的な気象用語では「ボラ」と呼ばれる局地風のことだ。気象学者の吉野正敏による解説を見てみよう(『風の世界』東京大学出版会、1989年、59頁)。

中緯度において極気団または寒帯気団が低緯度方向または周辺の比較的暖かい地域に張り出してくるときに起こる。いわゆる寒波の吹きだしにともなう現象である。

日本で言えば、関東の空っ風が該当する。「赤城おろし」などだ。関西では「比叡おろし」や「六甲おろし」がある。この「おろし」は英語ではフォール ウインド(fall wind)だが、山頂から吹き降りてくるわけではない。山麓をまわり込んで吹き付けてくる強風である(この解説も『風の世界』に出ている、25頁)。

さて、ミストラルだが、フランス南部に吹き付ける局地風である(図2)。アルルには、ローヌ川が流れるローヌ谷を吹き抜けてくる。風速は時速50キロメートル、最大では時速90キロメートルにもなる。風速は秒速10メートルが時速36キロメートルに相当する。時速90キロメートルは風速30メートルに近く、台風並みの強風であることがわかる。外に出て、おちおち、絵を描いている場合ではない。

このミストラルは、普通は冬から春にかけて吹く風だが、一年を通じて吹く。ひとたびミストラルが発生すると、数日から一週間ぐらいの期間続く。ゴッホのように外で風景画を描く人にとっては災いの元である。

図2 フランス南部で観測されるミストラル。数字は時速で測った風速。アルルを含むプロヴァンス地方ではかなりの強風になる。ミストラルという言葉は南フランスのプロヴァンサル語の「見事な」という意味の単語に由来する。 https://ja.wikipedia.org/wiki/ミストラル#/media/ファイル:Carte_du_mistral.png

悪魔のミストラルを画布の中に閉じ込めたかったのか?

『天気でよみとく名画』によれば、ゴッホは「ミストラルのひどい風でイーゼルが揺れて絵が描けない」と嘆いている。挙げ句の果てには、ゴッホはミストラルのことを悪魔と呼んだ。そのミストラルを《星月夜》に描かれた渦巻で表現した可能性があるというのだ。この説は渦巻の「天の川」説を提案したチャールズ・ホイットニーも指摘しているとのことだ(表1)。迂闊にも見逃していた。ご容赦を。

ミストラルを渦巻として《星月夜》に描いた。ゴッホは絵を描く邪魔をするミストラルを画布の中に閉じ込めてしまいたかったのだろうか? それは十分にあり得るだろう。

では、渦巻にした理由はなんだろう。たとえば、強風にさらされたとき、私たちは「渦」を感じるだろうか? 「渦」よりは直線的な風の動きを感じるように思う。これは風のスケールが人のスケールに比べて十分大きいからだ。渦構造といえば竜巻を思い浮かべるが、竜巻は発達した積乱雲の中で発生するもので、局地風とは関係ない。では、渦巻く風はあるのか?

カルマン渦

空気の流れが乱れると「乱流」になるが、この乱流は多数の渦構造になる。これはカルマン渦と呼ばれている(図3)。この名前はハンガリーの物理学者セオドア・フォン・カルマン(1881-1963)に因んでいる。

図3 カルマン渦。たとえば電線や木の枝(図中の左にあるグレーの丸印はその断面図)を風が通り抜けると、風は多数の渦を作って流れていく。 (『風の世界』吉野正敏、東京大学出版会、1989年、221頁、図55)

気象学的にみると、このカルマン渦は地上の多くの場所で大規模な気流として観測されている(図4)。渦の大きさは数10キロメートルから100キロメートルにも及ぶ。これでは、私たちが渦を見ることはない。

図4 大規模なカルマン渦の様子。済州島と屋久島を通過する風がカルマン渦を形成している。鹿児島県の東西の広がりは約100キロメートルなので、それと同じスケールの渦が形成されていることがわかる。 https://dot.asahi.com/articles/photo/130364?pn=1

このカルマン渦の姿をみると、渦巻が連結していて、《星月夜》の渦巻に似ているように思う。ただ、カルマン渦が認識され理論的な解釈が行われるようになったのは20世紀に入ってからだ。ゴッホはミストラルに独自の感性で「渦」を見ていたのだろうか。

天文学者の観点から渦巻銀河説を支持してきたが、気象学の観点からのミストラル説もとても興味深いアイデアだと感心した。やはり、視野を広げて、いろいろな可能性を吟味することが大切なのだろう。

追記:ゴッホがミストラルと記した文章をゴッホの手紙に探してみた。調査は不十分だが、以下の文章を見つけた。

僕はいつもミストラルと戦わねばならないが、こいつが邪魔して油絵の筆使いを自在にこなすことが全くできない。習作の「すさまじさ」はそのせいだ。 1888年、8月6日 (『ファン・ゴッホの手紙』二見史郎編訳、圀府寺司 訳、みすず書房、2001年、287頁)

心せよ、祭りの翌日を、冬のミストラルを。 1888年、9月17日ごろ (『ファン・ゴッホの手紙』二見史郎編訳、圀府寺司 訳、みすず書房、2001年、287頁)

やがて一家の父親になるという感動は、お父さん同様、君にとっても大きく、また格別なものに違いない。しかし、当面はパリのいろんな小さな悩みとごちゃ混ぜになって気持ちもうまく表せないだろうか。この種の現実は結局ミストラルの突風みたいなもので、あまりありがたくはないが気落ちをさわやかにしてくれる。 1889年7月14日あるいは7月14日 (『ファン・ゴッホ美術館編 ファン・ゴッホの手紙 II』圀府寺司 訳、新潮社、2020年、449頁)

*********************************<<< 関連記事は以下でご覧いただけます >>>

ゴッホの見た星空(6) 《星月夜》の渦巻は渦巻銀河M51なのか?https://note.com/astro_dialog/n/n1d5abb10e788

ゴッホの見た星空(7) 渦巻銀河M51の秘密https://note.com/astro_dialog/n/n5a599689ee26

*********************************

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?