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井上陽水と宮沢賢治(5) 『心もよう』心象スケッチ現代版

『心もよう』

🎵 さみしさのつれづれに
🎵 手紙をしたためています あなたに

この歌詞を見るだけで青春が蘇る。

さて、2024年4月3日現在、note「宮沢賢治の宇宙」では31件の記事を書いた。また、宮沢賢治はかぶるけれど、note「井上陽水と宮沢賢治」で4件の記事を書いた。テーマは井上陽水の歌『ワカンナイ』、『背中まで45分』、『ごめん』、そして『夜のバス』。今回は『心もよう』で書いてみたい。

『心もよう』は言わずと知れた井上陽水の代表曲のひとつで、1973年9月、リリースされた。シングルレコードは持っていないが、『心もよう』が収められたアルバム『氷の世界』は持っている(図1)。これまた、懐かしい!

図1 井上陽水のアルバム『氷の世界』。『心もよう』はA面の5曲目。アルバムの左に置いたのは、付いていた帯。1973年の発売。なんと、50年以上前のことだ。

心もよう=心象スケッチ

『心もよう』 そもそも、この言葉自身、心象スケッチの現代語版として捉えることができる。「心象」は『広辞苑』(第7版、岩波書店、2013年)によれば「心像」のことであり、次のように説明されている。

意識の中に思い浮かべたもので、感覚的な性質を持つもの。視覚心像、聴覚心像の類のもの。イメージ。

1960年代にフォークソングなるものが世に流れ出した頃、反戦、反体制の思想を前面に出したものがまずは受け入れられた。当時は安保闘争や大学紛争の嵐が吹き上げられていた時代だった。若者は敏感にその雰囲気に反応していたのだ。しかし、風向きは変わる。

風向きを変えたのは、井上陽水の“傘がない”という歌だ。

🎵 都会では自殺する若者が増えている
🎵 今朝来た新聞の片隅に書いていた
🎵 だけども問題は今日の雨 傘がない

この中の「だけども」という接続詞が若者の歌の世界における風向きを変えたのだと思う。社会性を匂わせながらも、個人の問題が大切だというメッセージだからだ。そして『心もよう』という名曲につながっていく。

人間は社会人としての側面と一個人としての側面を持つ。そのせめぎ合いの中で成長し、生きて行く存在なのだ。

宮沢賢治の心象スケッチ『政治家』

かくいう賢治も『政治家』という心象スケッチを遺している。

あっちもこっちも
ひとさわぎおこして
いっぱい呑みたいやつらばかりだ
       羊歯の葉と雲
       世界はそんなにつめたく暗い
けれどもまもなく
そういうやつらは
ひとりで腐って
ひとりで雨に流される
あとはしんとした青い羊歯ばかり
そしてそれが人間の石炭紀であったと
どこかの透明な地質学者が記録するであろう 
(『【新】校本 宮澤賢治全集』第四巻、筑摩書房、1995年、第四巻、232頁)

ここで、「けれども」が『傘がない』の「だけども」に通ずるのだ。
何かおかしいぞ。そう思ったとき、私たちは使う。「だけども」、そして「けれども」を。もちろん、問題はその後に続く言葉だ。何を選ぶか? それはあなた次第だ。

さて、賢治の『政治家』に戻ろう。石炭紀といえば、今からざっと三億年も前のことだ。「いつの時代も同じじゃないか。」そういう諦念が賢治にはあったのだろう。
しかし、この心象スケッチを書いた人が、『銀河鉄道の夜』を書いた人と同じ人物であるとは思えない。つまり、賢治も社会人と一個人の二面性を併せ持ち、日々生きていたのだ。今の時代の心象スケッチスト(シンガーソングライター)も同じだ。

心象スケッチ古典版 ― 日記文学

ここまで書いてきて、ふと気づいたことがある。それは、日本では古来、日記が文学として根付いていた。高校時代、日本の古典文学についていろいろ習う機会があったが、なぜか“日記”が多いことに驚いた記憶がある。実際、『土佐日記』(紀貫之)や『蜻蛉日記』(右大将道綱母)、『更科日記』(菅原孝標女)などが思い浮かぶ。また、天文学と関連のある日記もある。1054年の超新星爆発の記録(現在は“かに星雲”として観測されている)が載っている『明月記』(藤原定家)がそうだ。

先ごろ亡くなられた米国出身の日本文学者であるドナルド・キーン(1922 -2019)によれば、日記が文学として定着しているのは日本だけということだ(『百代の過客(上・下)』ドナルド・キーン 著、金関寿夫訳、朝日新聞社、1984年;『続 百代の過客』ドナルド・キーン 著、金関寿夫訳、朝日新聞社、1988年;図2)。

図2 (上)『百代の過客(上・下)』ドナルド・キーン 著、金関寿夫 訳、朝日新聞社、1984年、(中央)『続 百代の過客』ドナルド・キーン 著、金関寿夫 訳、朝日新聞社、1988年、(下)『日本文学を読む・日本の面影』ドナルド・キーン 著、新潮選書、2020年、『黄犬交友抄』岩波書店、2020年。

日記は英語ではダイアリーだが、ダイアリーという言葉から連想するのはスケジュール帳、あるいはメモ帳だ。もちろん、欧米の方々の中にも、日本人と同じセンスで日記をつけている人はいるだろう。しかし、表立って文学としての日記が議論されることは少ない。不思議だ。

こうしてみると、日本人は昔から個人の心象を日記にしたためてきた歴史がある。心象スケッチという言葉は賢治のオリジナルな表現だが、日本の文化として、心象を書き遺すことは古来行われてきていたのだ。昭和の時代のシンガーソングライターたちは、それを日記ではなく歌に置き換えて実践した。そもそも、今の時代、X(ツイッター)、フェースブック、インスタグラムなどのSNS(ソーシャル・ネットワーク・サービス)が該当する。時は流れても、心象スケッチは形を変えながら、受け継がれていくものなのだ。

守っていきたい文化

先ほど紹介した『土佐日記』が書かれたのは承平五年、934年。平安時代のことだ(和歌も含めれば、7世紀から8世紀に編まれた『万葉集』の時代に遡る)。つまり、心象スケッチは平安の時代から21世紀の今もなお、人々の心の中に生き続けていることになる。

しかし、この表現は正しくない。おそらく、人間が感情と言葉を持ったときが、心象スケッチの始まりのときだったのだろう。人類が長きにわたって紡いできた心象スケッチ。守っていきたい文化だ。


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