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宮沢賢治の宇宙(33) 賢治の四次元観

時空に住む

私たちは空間三次元と時間一次元が相互作用する四次元の「時空」に住んでいる。その時空も科学の発展と共に様変わりしてきた。

ニュートン力学の時代は、空間は絶対空間であり、また時間は絶対時間であった。また、当然のことながら、空間と時間は独立した物理量であり、両者には何の関係もない。ところが、アインシュタインの相対性理論では、空間も時間も相対的なものであり、しかも両者は深く関連しながらこの宇宙を形作っていると理解されるようになった。

賢治は相対性理論に基づく時空感を素早く身につけて、作品に生かした。このnote では賢治の時空感、四次元観を見てみよう。

『銀河鉄道の夜』に見る賢治の次元感覚

賢治は代表的な童話『銀河鉄道の夜』で、独特な表現を使って彼の次元感覚を披露している。まずは、それを見てみよう。

『銀河鉄道の夜』の第九節“ジョバンニの切符”の中で、車掌がジョバンニたちの切符の検札に来たときのことだ。ジョバンニは銀河ステーションで銀河鉄道に乗り込んだとき、切符をもらった記憶はなかった。ところが、上着のポケットを探してみると、たたまれた紙切れが見つかった。四つ折りで緑色したハガキぐらいの大きさの紙だ。とりあえず、それを車掌に見せると、こう言われた。

「これは三次空間の方からお持ちになったのですか。」 (『【新】校本 宮澤賢治全集』第十一巻、筑摩書房、1996年、149頁)

空間は三次元なので、本来なら“三次元空間”の方がしっくりくるのだが。ここで面白いのは、車掌が「あなたは三次空間から来たのですか?」と質問していることだ。それは、言外に「ここは三次(元)空間ではありませんよ」と言っていることになる。では、銀河鉄道の車内はどういう空間なのか? それは、もちろん、四次(元)空間だ。

ジョバンニは訳がわからず何も言わずにいると、隣にいた鳥捕りがその切符を見て、驚いたように話し出した。

「おや、こいつは大したもんですぜ。こいつはもう、ほんたうの天上へさへ行ける切符だ。天上どこぢゃない、どこでも勝手に歩ける通行券です。こいつをお持ちになれあ、なるほど、これほど不完全な幻想第四次の銀河鉄道なんか、どこまででも行ける筈でさあ、あなた方大したもんですね。」 (『【新】校本 宮澤賢治全集』第十一巻、筑摩書房、1996年、150頁)

銀河鉄道に乗る前、ジョバンニたちがいた町は三次空間だった。つまり、まだニュートン力学的な世界観の町に住んでいたのだ。ところが、ひとたび銀河鉄道に乗り込むと、そこは幻想第四次の世界になる。幻想が何を意味するか不明だが、「空間と時間が合わさった四次元の宇宙にいることになった」と解釈できる。

もちろん、ニュートン力学的な世界観の宇宙(三次元空間)にも時間は流れている。賢治は、「銀河の中はアインシュタインの相対性理論の世界である」ということを主張したかったのだろう。

第四次の意味

次は、“第四次”だ。賢治の詩のひとつである「ダリヤ品評会席上」には、第四次限という言葉が出てくる。

最后に一言重ねますれば
今日の投票を得たる花には
一も完成されたるものがないのであります
完成されざるがまゝにそは次次に分解し
すでに今夕は花もその辨の先端を酸素に冒され
茲数日のうちには消えると思はれますが
すでに今日まで第四次限のなかに
可成な軌跡を刻み来ったものであります 
(『【新】校本 宮澤賢治全集』 第四巻、筑摩書房、1995年、281頁)

じつは、物理用語には、「次元」はあるが、「次限」という言葉はない。そのため、「第四次限」という言葉は賢治の造語である。夏目漱石が人生観を人世観と言っていたようなものだ。「原子朗の『宮澤賢治用語辞典』では「第四次元」と「第四次限」は同義とされている。また、『宮澤賢治イーハトーヴ事典』(天沢退二郎、金子務、鈴木貞美 編、弘文堂、2010年)には第四次元の直接的な解説はないが、「異次元世界 / 多次元世界」の項目に解説がある(23 – 26頁)。25頁に出ている宮前興二によるコラム「賢治と次元」が参考になる。

第四次限の意味は、やや曖昧だ。なぜならば、次元の数を表現するとき、三であれば三次元、四であれば四次元というように、「第」を付けることはない。「第」をつけるのは、一般には順番を表すときだ。たとえば、第一、第二などである。

賢治の時代に「第四次元」を冠した一冊『通俗第四次元講話』(寮佐吉 訳、黎明閣、1922年)があった。賢治がこの本に出会ったかどうかは不明だが、当時は「四次元」よりは「第四次元」の方が馴染みのある名称だったのかもしれない。

ところで、「ダリヤ品評会席上」では「すでに今日まで第四次限のなかに」となっている。「今日」という時間を表す言葉のあとで「第四次限」が使われていることに気づく。つまり、「第四番目の次元」である「時間」を表している。

第四次延長

「第四次延長」という不思議な言葉も賢治の作品に出てくる。『春と修羅』の「序」を見てみよう。

すべてのこれらの命題は
心象や時間それ自身の性質として
第四次延長のなかで主張されます
 (『【新】校本 宮澤賢治全集』 第二巻、筑摩書房、1995年、10頁)

「それ自身の性質」という言葉があるが、「それ」はその直前の「時間」を指している。したがって、「第四次」は時間を意味する。「延長」という言葉が続くが、これは未来を表す。つまり、「これらの命題を、今後考えていくことにしよう」ということだ。

四次

賢治の作品の中には、単に「四次」という言葉も使われている。それは口語詩の「疾中」にある詩のひとつ、〔手は熱く足はなゆれど〕である。

手は熱く足はなゆれど
われはこれ塔建つるもの
滑り来し時間の軸の
をちこちに美ゆくも成りて
燦々と暗をてらせる
その塔のすがたかしこし
  (『【新】校本 宮澤賢治全集』第五巻、筑摩書房、1995年、161頁)

ここには四次という言葉は出てこない。じつは、この詩の下書稿に出てくる。

手は熱く足はなゆれど
われはこれ塔建つるもの
滑り来し四次の軸の
をちこちに美ゆくも成りて
燦々と暗をてらせる
その塔のすがたかしこし
  (『【新】校本 宮澤賢治全集』第五巻 校異篇、筑摩書房、1995年、176頁)

「滑り来し時間の軸の」「滑り来し四次の軸の」の比較から、ここでの四次は時間を意味している。

『農民芸術概論』に見る「四次」と「第四次元」

最後に『農民芸術概論』との綱要を見ておこう。この『農民芸術概論』は「農民芸術の綜合」に出てくる。

・・・・・・おお朋だちよ、いっしょに正しい力を併せ われらすべての田園とわれらのすべての生活を一つの巨きな第四次元の芸術に創りあげようではないか・・・・・・  (『【新】校本 宮澤賢治全集』第十三巻(上)、筑摩書房、1997年、8頁)

ここでは、この言葉の前に「田園とわれらのすべての生活を一つの巨きな」があるので、“第四次元”ではなく、本来なら“四次元”とすべきだったと思われる。
また、『農民芸術概論綱要』の「農民芸術の(諸)主義」に“四次”が出てくる。

四次感覚は静芸術に流動を容る
神秘主義は絶えず新たに起こるであらう
  (『【新】校本 宮澤賢治全集』第十三巻(上)、筑摩書房、1997年、12頁)

ここでは、「静芸術に流動を容る」ので、“四次”は時間を表している。

『農民芸術概論綱要』の「農民芸術の綜合」には「第四次元」が出てくる。ところが、もうひとつ「四次」が出てくる。

巨きな人生劇場は時間の軸を移動して不滅の四次の芸術をなす
おお朋だちよ 君は行くべく やがてはすべて行くであらう 
(『【新】校本 宮澤賢治全集』第十三巻(上)、筑摩書房、1997年、15頁)

ここも、「時間の軸を移動して」なので、“四次”は時間を意味する。ついでながら「結論」も見ておこう。

・・・・・・われらに要るものは銀河を包む透明な意思 巨きな力と熱である・・・・・・  (『【新】校本 宮澤賢治全集』第十三巻(上)、筑摩書房、1997年、15頁)

こういわれても、農民の方々のみならず、私たちも当惑する。「銀河を包む透明な意思」がなんであるか、理解できる人はほとんどいない。ただ、賢治に悪意はない。賢治は自分の思ったことを、素直に表現しているだけだ。それを読む農民や私たちが理解するかどうかには、頓着していなかったのではないか。

賢治の四次元観

さて、ここまで賢治の作品に出てくる言葉である「四次」、「第四次」、「第四次限」、そして「第四次元」を紹介してきた。

まず、「四次」だが、これは時間の意味で用いられている。また、「第四次」と「第四次限」も同様な解釈で矛盾はない。
「第四次元」は「農民芸術の綜合」に一回だけ出てきていた。

・・・・・・おお朋だちよ、いっしょに正しい力を併せ われらすべての田園とわれらのすべての生活を一つの巨きな第四次元の芸術に創りあげようではないか・・・・・・  (『【新】校本 宮澤賢治全集』第十三巻(上)、筑摩書房、1997年、8頁)

先の説明で述べたように、ここでの「第四次元」は通常の「四次元(空間三次元+時間一次元)」で用いられている。順番を指示する“第”をつけてしまったことで、解釈が難しくなっていた感がある。これは賢治の癖だったのだろうか。

それにしても、詩や童話の作家がここまで四次元の世界に深入りするとは驚きだ。「文理両道、ここに極まれり」という気がする。


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