転生都市不死密売事件




人生はなぞなぞのようなものだ、と誰かが言った。
 例えば俺の場合、十二の頃に父親を殺すことになった。
 父親は酒浸りで、酔うと俺や母親にも暴力を振るうろくでなしだったが、その時は違った。完全に別のものになっていた。
 よく憶えてる。割れた月が馬鹿みたいに明るい夜だった。俺が家に帰ると、母親がリビングに横たわっていた。どうして、と思う間も無く理由がわかった。あたり一面血の海で、父親が、掻っ捌かれた母親の腹に首を突っ込んでいたからだ。食っているのだ、とすぐに分かった。
 顔じゅう血まみれの父親と目が合った。俺は逃げたが、どうにもならなかった。床に抑え付けられて、母親の血がべったりついた歯で、父親が俺の喉笛を噛み切ろうとしているのがわかった。
 俺は必死だった。近くにあった花瓶を手に取って、父親の頭を殴りつけた。
 父親には恨みがあった。俺や母親を理不尽に殴りつけるこの男を殺したいと思ったことが無いとは言わない。だが少なくとも、この時俺の中にあったのは憎悪ではなかった。ただ、生きるのに必死だっただけだ。
 何度も何度もそうする内に、やがて父親は動かなくなった。リビングには父と母の血が夥しく流れていて、鉄の匂いがあたり一面に漂っていた。今や嗅ぎ慣れた人間の死の匂いだ。
 それから俺はほどなく企業複合体の運営する施設に保護された。最初は全くわけがわからなかったが、どうやら父親は狼男だったらしい。
 なら俺もそうなんじゃないかって? それは無教養から来るありふれた勘違いで、かなり差別的だ。『転生病』患者はある日突然自分を人間ではない"何か"と錯覚する。そこに遺伝性は無い。
 ともかくそんなわけで身一つで綺麗さっぱり天涯孤独になった俺は、自分で自分を生かす方法を探さなきゃならなくなった。

 これが俺の目の前に現れた最初のなぞなぞリドルだった。答え合わせは誰にもできない。本当に正解なんてものがあったのかも、誰にもわからない。
 だが事実として俺は父親殺しであり、『人狼殺し』でもあった。暴力の記憶が俺を歪め、その在り方を決定した。それが、俺に課せられたなぞなぞリドルへの答えになった。

 このエンブリオ市には、無数の転生病者が住んでいる。狼男、吸血鬼、人魚にハーピィやゴブリンにオークまで、唸るほど居る。ここはそうした罹患者を集めた元人間達のための医療特区なのだ。
 転生病にかかって自分を人間以外の怪物だと思い込んだ奴らがひしめき合って暮らすこの街はまさしく混沌とした種族のサラダボウルで、日々あらゆるところでクソどうでもいいものから最悪に厄介なものまで諍いと暴力に満ち満ちていてシミのように消えることはない。
 まさに絶え間無き悪問のなぞなぞリドル
 それが、俺の飯の種だ。

「ころっ」

 俺を囲む男のうちの一人が『殺せ』、とかなんとか言おうとしているのが分かったので、俺は聞き終わるのを待たずにそいつの喉を突いた。異常巨体のオークは喉を押さえて膝から崩れ落ち、悶絶した。
 ゴブリンだろうがオークだろうが急所の位置はそう変わらない。そもそも、どいつも自分でそうと思い込んでるだけの人間でしかないからだ。

「無理に決まってんだろ、ブタヅラ」

 オークの転生者は、その多くが自らの顔面を亜人のそれに整形し、人工筋肉や人工脂肪を後付けする。
 彼らの認識が持つ人ならざる自分の姿と、現実の彼らの肉体の乖離による認知的不協和を埋めるためだ。
 俺にしてみれば進んで不細工になっているだけのように思えるが、本人達にとってはそれが必要な"治療"なのだ。

「███ッ! █せ!」

 "転生"して別の種族になってしまった奴らは元の人間のコミュニティには馴染めない。必然的に同族同士のコミュニティを作り、時には彼らにだけ通じる言語やスラングでコミュニケーションを図る。
 そうやって種族同士の同一性を高めることで自分を"そういうもの"として定義しようとするのだ。
 スラング混じりのオークの言葉は俺にはほとんど理解できなかったが、それでもそこに込められた刺々しい敵意は理解できた。襲いかかってきたそいつの顎を掌底でかち上げて、そのまま脳天から床に叩きつける。
 ゆうに200kgはあろうかというオークの異常巨体を叩きつけられて、コンクリートの床にクレーター状のヒビが入った。
 俺を囲む一群に、動揺がさざなみのように広がるのがわかる。
 ここまでの全てが、俺にとっては造作もないことだった。

「人を探してる。おたくらの"客"はどこに居る?」

 俺の質問に、オーク達は誰一人答えなかった。いくら彼ら自身がそうである事を認めようとしなくても、彼らも元は人間だったからには俺の言葉は通じているはずだったが、そこにはどうしよぅない断絶があった。
 オーク達は答える代わりにめいめい雄叫びをあげ、手に持った鈍器を振り回した。

 俺は俺自身に暴力の徒であることを望み、その中で戦い続けることを自らの価値にする道を選んだが、それでも対話の余地さえもを奪ってしまうようなどうしようもない暴力の渦を前にすると悲しい気持ちになってしまう。
 暴力が全てを等しくする。後には何も残らない。
 俺は襲いかかってくるオークを一人一人丁寧に昏倒させた。俺以外に動く者が居なくなるように、徹底的に。

「██ッ!」
 
 それは金切声の悲鳴のようでもあったし、あるいは本当に豚の鳴き声のようでもあった。少なくとも彼らにとってはそれが言語であり、俺に向けられた殺意の発露なのだった。
 硝煙を上げる銃口が見えた。
 オークだって拳銃くらい使う。当然だ。実際には人間なんだから。

「痛えな」

 衝撃によろめいた俺が血の一滴も流さずに再び体制を持ち直すのを見て、オークの目に明らかな困惑が広がった。
 オークは立て続けに引き金を引く。俺は両腕で顔を庇い、そのまま突進。銃を持った腕を掴み、横っ面を殴り飛ばす。オークの異常巨体は、馬鹿馬鹿しいほど軽く吹っ飛んでいった。

「骨が折れたらどうするんだよ」

 残るオーク達の俺を見る目に、戸惑い以上のものが浮かぶのがわかる。それは恐怖だ。人間が化け物を目にした時に浮かべるのと、ちょうど同じ類の。
 だが、この世にはそんなものは居ない。オークもゴブリンも人魚もハーピィも、全部そう思い込んだだけの人間だ。俺はスーパーマンじゃないし、そう思い込んだ勘違いマンでもない。
 怪力のタネも、単なる仕事用のパワードスーツのおかげだ。オーク達のような拡張義体サイバネティクスなんて、ただの人間が使えばすぐに正気じゃ居られなくなる。

 オークの内の何人かが、武器を捨てて俺が入ってきた入り口に駆け込むのが見えた。現場放棄だ。存外に人間的な反応と言えるだろう。
 やめておけばいいのに。恐れを知らない怪物のままで居たなら、それ以上のものなんて味わう事もなかったのに。

「おいギギ、そっち行ったぞ」

 俺がそう呼ぶと、応えるように鉄扉が跳ね飛んだ。
 彼らがまず目にしたのは、腕だった。
 人間のそれでは無い、鱗を生え揃わせた、腕のように発達した前肢だ。
 その爪が跳ね飛ばした鉄扉をまるで紙屑のようにくしゃくしゃに丸めた。
 次に見えたのは目。爛々と輝く黄色い瞳を、黒い瞳孔が縦に割く爬虫類の目だ。
 次いで悍ましく生えそろった牙が、尾が、翼が見えた。
 ドラゴンが、彼らの前に立ち塞がっていた。

『私ニ無駄働きヲさせルな、カブト』

 ドラゴンは人語を発して、俺の名を呼んだ。どことなく、機械的な発声だった。
 ゆらゆらと揺れる尾が、鉄の鞭そのものの威力でオークを打ち据えると、彼らは一斉に恐慌に駆られ、降伏した。
 ドラゴンは、あらゆる生態系における頂点捕食者だ。彼らの変性した自我には、その根源的恐怖が刻み込まれていた。

「火を吹くなよ、燃えると人探しどころじゃなくなる」
『竜の息吹ハ、そウ易々と見せルものデハ無い』

 ドラゴンは誇り高い。無限に等しい命を持っていて、常に定命の者を見下してるからだ。
 奴らはそういう世界観で生きている。俺の相棒もその例に漏れない。

「まあいいや、じゃあ俺例の探してくるから、お前ここで待ってろよ」
『……元ヨり、ソノつもリだ。お前が無駄働キを押し付けなけレば』
「普段がサボりすぎなんだよ。たまには働け、ギギ」

 このドラゴンの名を、ギギイロイ・ウルムガバトという。旧き竜の言葉とやらで、『真の王』を意味するという。少なくとも、ギギ自身はそう信じている。
 当然ながら、ギギもまた本物のドラゴンなんかじゃない。俺が今とっちめたオーク達と同じ、自分を「そういうもの」だと信じ込んだだけの、ただの人間だ。
 ギギの場合はそれが他より少し重症で、ギギ自身が自らの世界で正しく生きていく為には、特殊な義体が必要だった。特殊で、強力な、ドラゴンの義体が。

「俺が戻るまで大人しくしとけよ。ステイだ。わかったか?」
『……』

 ギギは喉の奥で不服そうに唸ると、やがて素直にその場に寝転がって昼寝の姿勢に入った。
 でっかい猫みたいだ。鱗が生えてるし、火も吹くが。

「さて」

 こんな仕事をしていると独り言が多くなる。何せ話し相手と言えば生ある者を等しく見下すいばりん坊のドラゴンくらいなものだからだ。
 俺はオークが根城にしていた雑居ビルの探索を続けた。こうした『転生者』達に占拠された建物やなんかは、しばしば『ダンジョン』なんていう呼び方で表される事がある。そこには彼らの蓄えた宝物なんかが眠っているわけで、なるほどこの狂った街にお似合いの皮肉だと言える。
 俺の目当てはそれだ。オークの宝。それを探すために、ここへ来た。

「ここかな」

 一際厳重に施錠された一室があった。俺は力を込めて鍵ごと破壊しながらドアを開いた。

「バックス福祉局だ。転生事案に関わる人命保護でここに来た」

 俺はオークの宝……各地から攫われてきた人間の女達……に対して、自分の所属を名乗った。人間には、そういう手順が必要だからだ。
 敵意がないことを示すために、両手をあげて何も持っていないことをアピールしながら、部屋の奥に踏み入って行く。自らに訪れた悲惨を呪うことにさえ疲れ果てた者達の、擦り切れた恐怖の視線が突き刺さった。

「別にお邪魔しようってんじゃないんだ。人探しに来ただけでね」

 福祉局と言えば聞こえはいいが、この職業は俺たちの街ではもっと別の名前で呼ばれるのが一般的だ。つまり、荒事屋だとか、事件屋ランナーだとか。だから、警戒されるのは当然のことだった。
 言いながら、俺は部屋の中を見回す。探している人物……という表現はこの街では大いなる誤解と諍いの種だ……に一致する特徴を持った女性が居ないかを探す。
 彼女達は一様に俯いていて、俺と目を合わせようともしない。オークの仲間か何かだとでも思われているのかもしれない。ってマジか? こんなにハンサム顔なのに?

「人魚の娘を探してるんだ。居るか?」

 部屋の中には三十人ほどの女性がすし詰めになっている。埒があかないので、俺は素直に協力を仰ぐことにした。

「年齢は多分二十代で、女性の人魚の方。居たら手上げて!」

 手を挙げてぷらぷら振ってみる。俺は愛想が良い方のはずだが、誰も答えてはくれなかった。ただ彼女達の発散する猜疑心が、その場の空気を際限なく重くさせるだけだった。

「あの……」

 そんな中、一人の少女が手を挙げて俺に答えた。年齢は恐らくまだ十代で、軟禁生活でひどく薄汚れていることを除けば、美しい少女だった。オークたちにとっても、さぞや大事なお宝だったのだろう。ひどい話だ。

「私、見ました。人魚の娘」
「どこだ?」
「……連れて、行かれた」

 暗い目をしていた。ひどい苦痛と、拭い去ることのできない恐怖が染み付いていた。

「一度、奴らがここに来てあの娘を連れてって……それで、もう、戻ってこなかった」
「そうか」

 何もかもが摩耗してしまったかのような、平坦な声だった。そうやって感覚を鈍麻させることでしか恐怖に抗う術が無かったのだろう。力のない者がこの街で正しく自らを定義する為には、時にこうして最低の苦痛を受け入れる必要がある。生きる為に。自身が何者であるかを忘れない為に。

「協力に感謝する。こいつはお礼だ」

 俺は上着のポケットから安物のチョコ菓子を取り出して、彼女の手に握らせた。彼女はその意味さえもわからないと言うように、ぼうっとお菓子を握った自分の手を見つめている。

「食えば、少しは気分がマシになる」

 生きる為に感覚を鈍麻させる事を選ぶ。だが、どれだけ感覚を意識から遠ざけても、それでも人は痛みや苦しみから逃れられないし、眠くもなれば腹も減る。狼男も、ゴブリンもオークもドラゴンも、皆同じだ。何故ならこの街に居る誰もが、ただ自らをそう思い込んだただの人間に過ぎないからだ。
 だから、人間には甘いお菓子が必要だ。生きる為には。

「それで気分が良くなったら、ちゃんと家に帰れ。歩けるか?」

 俺が言うと、彼女は虚な目でゆっくり頷いて、それからぼろぼろと涙を溢した。歪になってしまった日常の中で、次第に表すことを忘れていた感情が堰を切っていた。彼女がこれから先の人生を真っ当に生きていける保証はどこにもなかったが、それでも、今はそうする事が必要だった。

「ここのオークは片付けたし、今に警察も来る。助かる気があるなら、みんな家に帰る準備をしておけよ」

 誰も彼も、助かりたければ勝手に助かればいい。そうする為の選択肢が残っているなら、そうするべきだ。
 生憎と、俺には彼女達全員を助け出してその後の人生を少しだけマシに生きられるように治療や支援に精を出すつもりはないし、その責任も無い。そこまでするのは、俺の仕事ではないからだ。
 俺の仕事は、もっと下品で野蛮な別のことだ。

『見つかったカ、カブト』

 来た道を引き返すと、昼寝の姿勢から片目を開けて、ギギが俺を見た。

「まだだよ」
『急げ。私は貴様の期待するほど気が長くは無イぞ』
「ああ。悪いがもう少し昼寝してろ。人探しは俺がやっておく」
『なに?』
「お前はもう十分くらい、そこで大人しくそうしてろ」

 俺の後ろから歩いてくる女たちを見て、ギギはわざとらしくため息に近いニュアンスの音声を発した。実に人間臭い仕草だったが、それを言うと不機嫌になって面倒なので何も言わないでおいた。

『貴様の人道主義ニは、毎度呆レル』
「見殺しにすると寝覚めが悪いだけだよ。心の冷たいトカゲ野郎と違ってな」
『百年も経てば誰モ生きてハ居られんヨウな軟弱ナ生き物に肩入レする気が起きなイだけだ』

 ドラゴンの最悪なところがまさにこれだ。奴らは自分たち以外の生き物を根本的にナメきっている。
 実際にはギギだって人間なんだから百年も経たずに死ぬのだが、当然のように自分を非定命の上位存在だと思っている。ドラゴンは自らの寿命による死という避け得ない認知的不協和をどうやって回避するのだろうか? どうやってもクソも、生き物はその時が来ればどのみち死ぬのだが。

「お前の前にもいつかジークフリートがやってきて真っ二つにされるかもしれないんだぜ。もうちょっと殊勝に振る舞って人間に敬意を払うってことを学習したほうがいいな」
『人間ノ神話なド、笑イ話だ』

 ギギは嘲るように鼻を鳴らして再び目を閉じた。竜を殺してその血を浴びて不死身になった英雄の神話など、自分を本物の無敵のドラゴンだと思い込んだギギにしてみれば笑い話にすぎない。自分が人間などに負ける筈がないと考えている。それがドラゴンというものだ。
 俺はそれ以上ギギには構わずオーク達のダンジョンの探索を続けた。
 元は廃ビルだったが、"ダンジョン"と化したここは既にオーク達の巣であり、即ち自らを亜人と信じ込むという病に侵された人々の家だった。
 このビルには十数人のオークが生活していた。その全てが俺に殴られ、ギギに脅かされ、無力化した。
 ここが彼らの家であるからには、そこには生活の痕跡がある。脱ぎ散らかされた服(彼らは服屋に売っているようなものではなく、あえてボロキレのような布を体に巻いただけの粗野なスタイルを好む)や、"宝物"達のための人間用の食器や、彼女達の管理とささやかな楽しみの為に用いるのであろう道具の類が散乱する。
 人ならざる者と成り果ててなお浅ましい人間の悪業が折り重なって形を成したかのようなここは、正しくこの世ならざるダンジョンと言えた。

 通路を奥へ進むと、どこからか腐臭が漂ってきた。臭いを辿って、さらに奥へ。
 臭いの源は、厨房だった。腐臭と、淀んだ血の匂い。足を踏み入れる。

「……見つけた」

 果たしてそこには、俺が探していた人魚の女性が居た。
 その体は青ざめて死斑が浮き上がり、あちこちが欠損してその表情も写真とは似ても似つかない恐怖と苦痛の表情に凍りついてはいたが、首筋のタトゥーが事前に聴取した特徴と一致していた。
 俺は端末で遺体の写真を撮りながら、現場の検証を始めた。彼女を探すのが俺の受けた依頼だったが、その成否に彼女の生死は含まれなかった。つまりはそういう仕事で、彼女もまたそういう女だった。

『ひどイ、モノだな』

 厨房の扉からぬっと首を突き出して、ギギが言った。

「昼寝してろって言ったろ」
『知っタことデハない』

 ギギは鼻をひくひくと動かして、部屋の中の空気を知覚しているようだった。あるいは、そこに満ちる色濃い悪徳の臭いを嗅ぎ分けようとしているのか。

「ギギ、オークってのは攫った女を殺すのか?」
『他種族のメスは、オークにとっては貴重ナ子袋であリ、玩具ダ。弄びこそスれ、殺スなど考えられン』

 ギギは転生した奴らの習性に詳しい。
 ただの冷血トカゲモドキではないのだ。そうでもなきゃこんな奴を相棒にしたりはしない。
 
『理由ガわからん、オークには遺体ヲ損壊する理由が無イ』

 彼女の遺体の欠損した部位──頬の肉/腹の肉/肋骨/生体義肢で再現された魚の下半身の肉、その一部。
 性器や乳房には一切関心を払わず=どこまでも無機質な肉体の分解。かつて生命であったものを、ただの物としか考えないものの有り様。

「見ろよ、あいつらボロきれみたいな服着て棍棒振り回してるくせに冷蔵庫なんか使ってるぜ。どういう神経してんだよ」
『遊んデいる場合カ』
「腹減ってんだよ」

 皮肉や軽口は、受け入れ難い現実から心を守るための緩衝材になる。こんな街でこんな仕事をしているからには、必須のスキルだ。
 俺は厨房に備え付けられた馬鹿でかい冷蔵庫の扉を開けた。

「なあ、ギギ」
『なんだ』

 実は俺の脳にも、ちょっとした拡張サイバネが施されている。モグリの闇医者にやらせたせいで具合が悪くて、考え事をするとひどく疼く。クソみたいなことを考える時には、特に。
 俺はこめかみの辺りを引っ掻きながら、冷蔵庫の中から出てきたものをギギに見せた。
 ギギは無機質な完全義体の両眼をすがめた。

「オークってのは、人間食うのか?」
『なに?』

 冷蔵庫の中に入っているのは、パックに切り分けられた肉……どうやらそれは、解体された人魚の欠損部位と一致する。

「あの遺体、欠損してるのはどこも柔らかくて美味そうな部位だと思わないか?」
『肉、ダト?』
「頬肉、腹肉。魚の部分は……フライにでもしたか?」

 専用のパックで密閉された人魚の身体部位は、そうと知らなければただの精肉のようにしか見えなかった。厨房に無造作に打ち捨てられたそれとは異なり、限りなく死の臭いを消し去った、無機質な死体。

『……オークは奴隷商人でもあル、お前も知ってイルだろう』

 オークは他種族のメスを攫って繁殖する。だが、生まれてくる子供が同じようにオークとは限らない。父親が狼男になった俺が今でも真人間のままであるように、転生病は遺伝しない。
 人ならざる自身の種から、人間の子供が生まれる。それが、彼らには耐え難い認知のズレになる。「自分は本当は人間である」という不都合な事実を思い出してしまう。
 だから、オークは生まれた子供や利用価値のなくなったその親を売り飛ばすのだ。戸籍を持たない人間の子供の需要は、この街では常に存在している。オーク達もまた、この街を回転させる俗悪と欲望の機構の一部なのだ。

「商人が、自分で自分の商品を食うわけがないか」
『誰カ、それを欲しがる者が居ル』
「理由はなんだ?」

 それは誰か。
 この街にはいくつもの種族がいる。オーク、ゴブリン、ハーピィに鬼、動く死体リビングデッド
 多種多様、無数無類の生物群バイオーム──行き着く果てとて知れぬ、生命の混沌。

 『誰かが人魚を攫ってたべてしまいました。それはなぜ?』

 果てしなく暗い闇から投げかけられた、馬鹿げたなぞなぞリドル

『……人魚の肉を食ッタ者は、不老不死になル』

 ギギが呟くように言った。無機質な合成音声でありながら、その声はどこか暗かった。

「なんだ、そりゃ」
『人間の迷信ダ。聞いた覚エがある』

 そんな迷信があるという。
 この街には、人魚がいる。

「そんなんアリか?」
『私の知ったことデハない』

 この街には人魚が居る。ならば、その肉を食って不老不死になる者も居るのだろう。
 一つ確かなのは、その誰もが、ただ自らを"そう"だと信じ込む病に侵された病人に過ぎないということだ。
 そうであるならば、そこにあるのはただの人間と、その死体を食う人間に過ぎない。

「……また面倒なことになった」

 街の名はエンブリオ。
 この世に蔓延る病巣を鋼の卵殻に押し込めた、異形の都市である。




 ことの発端は二週間ほど前。
 厄介ごとを持ち込んだのは、『エデン』職員の真島という男だ。

「近頃、我々の製品が相次いで紛失しておりまして」

 『エデン』というのは、この街をまさに創りたもうた巨大なる企業複合体アカシアのお膝元で『転生病』の治療のための道具を作ったり研究したりなんかをする研究機関だ。
 つまり奴らが言う商品というのは、『転生病』患者の使う治療道具や薬、拡張義肢サイバネティクスのことだ。

「ほとほと困っているんですよ。たまりません」
「そりゃいい気味だな、真島さんよ」
「本当ですよね」

 真島は微笑みながらよくわからぬ答えを返した。常に柔和な笑顔は、かえって仮面じみて不気味だ。

「で、用はなんだ?」

 真島に限らず、企業複合体の奴らは話していて気分の良い相手ではない。そもそも『エデン』という呼び名も俗称であり、皮肉だ。この街にいる誰もが、彼らに対してそんな皮肉の一つも吐かないことにはやりきれないのだ。
 俺は俺の業務をこなしながら、真島の話を聞いている。言外にとっとと帰れと伝えているつもりではあったが、彼らにはこの手の駆け引きはほとんど通じない。この街でしばしば差別的に用いられるのとは別の、本当の意味での人でなしの類だからだ。

「経過観察ですよ」

 真島は微笑を崩さない。
 それは即ち俺の業務──転生者の介護に関する話だ。
 俺は今、一人の転生者の食事の介助を行なっている真っ最中だった。

「あなたの介護技能に疑いを持つわけではありませんが、彼女は少々特殊ですからね」

 そう言って、真島は俺の差し出したスプーンから食事を摂る少女を見た。この世界のどこにも焦点を結ばないかのような微睡むように虚ろな目と、何の生気も感じられない弛緩した姿勢を除けば、ごく普通の少女だった。
 彼女は……カナメは、俺たちが今まさに自分についての話をしている事にさえ気づいていないようだった。

「経過はこの通り順調だよ。ほら要、あーんしなさい、あーん」
「食事は問題なくできるようですね」
「ご覧の通りな」

 食事はほとんど離乳食のようなものだ。
 要は特殊な『転生』を患っているため、自分の身体を自分の意思で動かすのが極端に苦手だ。彼女の意識はここではない何処かにトリップしていて、その意識と現実とを一致させるために、特殊な義体が必要だった。
 要の後頭部には大型の外付け拡張器官サイバネティクスが設けられており、微睡む彼女の意識を、彼女自身の認識が見せる遠い世界に接続している。『ピグマリオン』と呼ばれる類の装置だ。当然ながら、『エデン』の生み出した最新技術である。
  今この時も、要はその意識と肉体をすり合わせる作業を意識のどこかで続けているのだろう。

「ところで、ギギさんはどちらに?」
「散歩中だよ。お生憎だな」
「いえ、それは実に結構」

 ギギの義体も、元は『エデン』で作られた特注品だ。
 『転生病』は月の破砕に並ぶ今世紀最大の社会問題であり、同時に人類史上類を見ない未曾有の病魔でもある。
 月が砕けてその破片が地上に落下してから発見された未明粒子アーカーシャと呼ばれる新粒子や、次のかけらに含まれた隕鉄オリハルコンを用いた精神感応技術の開発は戦争を激化させ、長い争いの果てに国家という規範そのものを形骸化させ、それ以前までに存在した社会は崩壊した。
 そして同時に、技術の発展を目的とするある種の人間にとっては、それは福音となった。技術は研究によって飛躍し、それらの新技術を取り入れたアカシアのような巨大な企業がかつての国家に代わって世界を支配した。
 そうして世界には大量の難民と転生病者、そして拡張義体サイバネティクスが残された。
 例えば、人間に翼の拡張義肢サイバネティクスを与えたとする。精神感応金属を用いたそれは装着者の思考に連動して動作するが、ただの人間にはそれを動かすことはできない。人間には翼がないからだ。最初から"無い"器官を動かす感覚を、普通の人間は知らない。
 だが、例えばそれがその意識をハーピィに変質させた『転生者』なら。或いは自らを異形のドラゴンだとしか思えなくなった『転生者』であったのなら、話は別だ。
 彼らは人間の肉体で生活する事に強いストレスを覚える。現実の人間の肉体と、意識上の自己認識に埋めようの無い巨大な乖離があるからだ。故に彼らの治療の為にはその肉体を意識上の肉体に物理的に近づける必要があり、だからこそ、どんな人間よりも上手く、その拡張した義肢を使いこなすことができる。彼らにとってはそれが自然で、当然のことだからだ。
 重症化した『転生者』であればあるほど、奇特な怪物に意識が変質してしまった者であればあるほど、その『治療』には人間離れした強大な義体が必要になる。
 『エデン』は、そんな彼ら彼女らの"治療"のために様々な研究を行っている。少なくとも、そういう題目を掲げている。

「それで用はなんだ?」
「言った通り、要さんの経過観察ですよ」
「言った瞬間からバレてる嘘をつかれると馬鹿にされてる気がして物凄くムカついてくるのって俺だけか? とっとと話せよ」

 俺の仕事のほとんどは人捜しと、要のような『エデン』から仕事をしにきた介護の必要な同僚の世話をする事だ。
 もっとも、人捜しとは言ってもこの街ではその対象が人間であるとは限らない。むしろそうした、自分を人間ではない何かだと思い込んだ病人であることが多い。
 そして、その仕事には同じ『転生者』の協力が必要だったし、『エデン』には治療を施した『転生者』の実地試験を行う機会が必要だった。そのためには、実生活を送るのに著しい制約を持つ彼らの世話が出来る人間も必要だった。『エデン』からの認可を受けた介護士。俺もそうだ。俺がこの街の異常な転生犯罪者を素手で殴り飛ばしたりできるのは、『エデン』から貸与された介護用のパワードスーツを着用している為だ。本来はギギのような大型の完全義体フル・サイバネへの介助を行うための道具だが、俺は頭が柔らかいので発展的に応用している。
 そういうわけで俺達……俺の所属するバックス福祉局と『エデン』は、かなり親密な関係にあると言ってもいい。ちっとも気持ちの良い相手ではないけれど。

「出来れば所長とお話ししたかったのですが」
「留守だよ」
「そうですか」
「俺と話すのは不服かい」
「どうでしょう」

 真島は、またよくわからない答えを返した。
 不愉快な微笑は鉄面皮のように張り付いて揺るがない。

「我々の製品が立て続けに紛失している、という話をしたでしょう」
「ああ。いい気味だよな」

 真島は何枚かの写真が添付された資料をテーブルに並べた。
 俺は要にストローからお茶を飲ませてやりながら、それを見た。

「……人魚、か?」
「ええ」

 写真は、いずれも人魚の転生者だった。人魚の転生者の中でも重篤な自覚症状を持つ者は、バイオテクノロジーの産物である生体拡張義肢によってその下半身を魚類のものに変え、水中での呼吸が可能になる魚のエラに近い役割の呼吸器を取り付ける。そうでないと、彼女達は海の中で暮らそうとしてすぐに溺死してしまうからだ。
 そうして治療を受けた人魚達の写真だった。

「……『製品が立て続けに紛失してる』ってのはあれか、人でなし語で『人魚の転生者が連続で失踪してる』って意味か?」
「ええ、概ねそのような所かと」

 エンブリオは腐った卵である。
 『エデン』は……その職員は、或いはこの街を支配するアカシアという企業複合体自体が、そこに暮らす、本来彼らが治療すべき広義の人間達を、誰よりも人間扱いしていない。
 彼らはただ、この腐った卵の中で病に侵された人々を醸成し、何かを産み出そうとしている。その何かがなんなのかは、きっと彼らにしかわからないのだろう。わからないほうが幸福だ。

「バックス福祉局様には、紛失した生体拡張義肢バイオ・サイバネの回収、及びその原因の究明と解決を依頼しに参りました」
「解せねえな。事件の規模からして組織ぐるみで誰かが人魚を襲ってるのは間違いないが、身代金を要求するわけでもない。怨恨にしては被害者同士に接点が無さすぎる。犯人は何を考えてる?」
「その調査も含めてお願いしたいのですよ」

 バックス福祉局には、俺たちの他に数名のスタッフがいる。依頼を受けるかどうかを決めるのは所長だが、福祉屋自体が『エデン』の下請けとしての性質を持っている以上、どの道断る選択肢は無い。

「それと、犯人はできるだけ無事で捕らえてください。こちらで聞き取りたい事があるので」
「心配しなくてもそこまでやるつもりはねえよ」
「ええ、もちろん」
 
 真島は、機械的な微笑を一ミリも崩さずに言う。

「ただ、貴方は少々やりすぎる時がありますから」

 全くもって心外な話だ。
 もしかしてこいつらは俺のことを人殺しが趣味のサイコ野郎だとでも思ってるのか?
 信じられないほど失礼な奴らだ。

「ひでぇ話だ。どうする? 要」

 一先ず、俺は要にそう聞いてみる事にした。食事を終えた要は、微睡むような目でここではないどこかを見つめている。俺の声も、真島の声も、きっと何も聞こえてはいないのだろう。もしかしたら俺たちがここにいる事すら認識していないのかもしれない。それほどまでに、彼女の意識は変性してしまっているのだ。

「この件には是非ギギさんも同行して頂きたいのです。ドラゴンの完全義体については、データが不足しておりますので」
「そうかい」

 俺は広げられた資料を手に取って、そこに載せられた被害者の一人の写真に目をとめた。ちょっとした顔見知りだったからだ。
 "泣き虫"ノエルはギギの『エデン』時代の友人で、俺とも面識があった。

「……なんでこいつがここに混じってる?」
「事件との関連は不明ですが、同時期に失踪した人魚ですので」
「そうじゃなくて、こいつは『エデン』暮らしだろ。アンタらは自分のとこのガキ一人まともに面倒見てないのか?」
「彼女は少々素行に問題があるようですから」

 真島は他人事みたいに言った。どうしてそんな態度で居られるのか、俺は不思議でならなかった。

「まあ、そこのところが話を警察ではなくあなたがたに持ち込んだ理由でして。既に本件について『転生者の生命保護の為の活動』として正式な許可が出ています」

 この街はアカシアという企業複合体が作った街で、それはそのままアカシアという企業それ自体がこの街の法律になっていると言い換えてもいい。
 アカシアと提携する俺たちのような介護団体は、その活動が『転生者の生命保護』の範疇に含まれると許可された場合、一般には使用が許可されない『エデン』印の強力な拡張義肢や、"介護用"のパワードスーツの使用が認められる。
 俺が多少銃弾を喰らっても平気だったり、オークだのゴブリンだのを殴り飛ばせたりするのも、まさにこのパワードスーツを貸与されているからだ。アカシアはメチャクチャな企業だから、そういう横暴が罷り通る。
 だからこういう信じられない事を言い出すのだ。『転生者の生命保護』という名目で無理矢理事件に首を突っ込んで、警察に痛いところを掴まれる前にまずいものを全部回収しろと言うのだ。こいつらはその為に、『福祉局』という組織を民間につくったのだ。

「参ったよなあ、相棒?」

 俺がそう問いかけても、要は返事の一つもしない。もしかしたら本当に眠っているのかもしれなかった。俺は時たま、無性に要のことが羨ましくなる時がある。
 俺もいっそ自分を人間ではない別の何かだと思い込んでいられたら、こんな面倒にいちいち煩わされる事もなくなるのだろうか?

「あーあ……また面倒な事になった」

 それが、二週間前。
 それから俺は街中のオークの巣を手当たり次第に叩いて回って、三つ目で当たりを引いた。
 そして、そこには人魚の死体があった。
 あちこちが虫食いみたいに欠損したその死体は、どうやらその身体の一部をどこかに売られて行ったようだった。
 よくある事だ。こんな街では、何が起きても不思議じゃない。
 そうでも思わなきゃ、とてもやってられない。
 『エデン』は俺たちのことを公的には『福祉局』と呼ぶが、世間ではもっぱら『事件屋ランナー』だとか、口の悪い奴らの中には『殺し屋』なんて言う奴も居る。この街で、表層と実態が一致しているものはほとんどない。もしかしたら、この街の外にだってそんなものは皆無なのかも知れない。
 転生者の保護と介助を行う『福祉局』も、周りに言わせれば言い訳を振りかざして血腥い所にわざわざ首を突っ込む『事件屋』だ。
 全くもって、因果な商売だ。

***

『カブト、ここにはノエルは居なイようダ』

 そして今。まさに俺たちは血なまぐさい事件に首を突っ込んでいる。
 オーク達の巣になっていた廃ビルには警察が駆けつけて、そこに攫われていた女達を保護したり拉致監禁を行なっていたオークを連行したりと慌ただしい。
 殺人事件の現場でもあるわけだが、肝心の死体はもう残っていない。『エデン』の回収班が警察より早く訪れて、さっさと持ち帰ってしまったからだ。

「そうみたいだな」
『次の巣ヲあたるぞ。ノエルを探す』

 ギギは高慢ちきで鼻持ちならないドラゴンでほとんどの人間を見下しているが、それでも共に暮らした過去を持つ同じ『エデン』の子供達に対してだけは、一定の情を見せることがある。
 別に悪いことじゃない。俺としたって完全に人間の情や倫理観から解き放たれた奴と仕事をするのは難しい。

「落ち着けギギ。まだ次の手がかりが何もない」
『慌てているわけではなイ。だが、同時期に失踪した人魚が現に死亡している以上、ノエルにも危害が及ぶ可能性は高イ』

 特殊合金で構成された鋼の竜の体に力が満ちるのがわかる。ぞっとしない気配だ。安全装置の外れた銃と会話している気分になる。

「ノエルが心配か? ギギ」
『……お前の仕事だ。私の知った事では無イ』

 ギギはぷいとそっぽを向いて、それきり黙り込んだ。友達のことは心配だが、心配していると思われるのはドラゴンのプライドに関わるのだろう。
 実に人間らしい振る舞いだったが、からかって余計ヘソを曲げられると面倒なので、放っておく事にする。

「よお、事件屋ども」

 俺たちが居座っていた遺体の発見された厨房に、重く沈み込むような声が響いた。入り口には、慢性的な寝不足と激務のせいで、病んだような暗い目つきをした男が立っている。目の下に刻まれたクマは、きっと永遠に消えることはないのだろうと思わせるほどに濃い。

「どうも、ワン警部補」

 ECPD警部補、ロナルド・ワンは俺のフレンドリーな挨拶にもいつも通りニコリともしない。
 
「よくよく面倒ごとに首を突っ込むのが好きな野郎だな、手前も」
「勘弁してくれ、俺もちょうどうんざりしてるところだよ」

 これは本当のことだ。一体誰が頼んだってくらい毎度毎度面倒な上に血なまぐさい目に遭うせいで、最近少し食傷気味だ。

「冗談で言ってると思うか?」

 ワンの目がギョロリと動いて、その中心に俺を捉えた。獲物を狙う猛禽を思わせるその病的に鋭い目つきから彼が冗談を言う姿をイメージするには、かなり豊かな想像力が必要だろう。

「まあ、あんたもたまには冗談言いたい気分の時ぐらいあるんじゃないかと思ってさ」
「殺人事件だと言うから来てみれば、遺体は綺麗に掃除された後。おまけに現場は探偵気取りの事件屋に踏み荒らされてる。冗談と言うなら、既に随分な冗談ではあるな」
「マジ? ウケる」

 俺が昔のギャルみたいに朗らかに笑ってみせても、ワンの表情は一ミリも変わらない。『エデン』の真島なんかとはまったく正反対の意味で、巌のように表情の変わらない男だった。熱も冷たさも通さない石でできた仮面を決して外さない事が、この世界の悪徳と向き合うために何よりも必要な事だと知っているのだ。

『カブト、時間の無駄ダ。早く行クぞ』

 ギギは人間の営みに興味が無い。嫌がらせ以上に職務上の牽制の意味が込められたワンの態度にも、一切取り合うつもりがないのだ。

「随分事件屋稼業が板についてるじゃねえか、御堂。誇り高きドラゴン様がよ?」

 ワンの冷たい目に、微かに嘲りと軽蔑が浮かんだ。あるいはそれは、彼なりの冗談の一種だったのかもしれない。

『ソノ、名は』

 瞬間、ギギが爆発的な怒りを発散するのがわかった。鋼の義体が、その内圧に砕け散るのではないかと思えるほどに。
 重症であればあるほど、「自分が本当は人間だという事実」を突きつけられるのは転生者にとって過大なストレスとなる。

『──私を呼んだつモリか?』
「哀れな奴だ。わからねぇなら教えてやる、事件屋気取りの病人め。てめぇの本当の名は──」
「やめろやめろ! ストップ!」

 この建物にはまだワンとその部下たちが保護しようとしているオークに攫われた民間人たちが残っているはずだし、なにより放っておくと建物ごと何もかもめちゃくちゃになる。証拠も手がかりもクソもない。己の誇りを冒涜された時、ドラゴンは躊躇しないのだ。

「ギギ、こんなところで暴れたら全部台無しになるぞ、時間を無駄にして、多分ノエルは死ぬ」
『私の知った事デハ……』
「嘘つくな馬鹿。警部補も、こんなしょうもない言い合いでベーコンみたいにカリカリになりたくてここに来たわけじゃないだろ」
「ふん」

 二人とも不服そうだったが、それ以上何かを言うこともなかった。こういうちょっとした諍いへの対処は本来俺の得意とするところでは無いが、それでもこの仕事をやるには結構必須のスキルだ。相棒がドラゴンだったりする場合なんかは特に。

「事件屋、お前ら何か掴んでんのか?」

 現場で発見された人魚の遺体は、既に『エデン』が回収している。事件のあらましを正確に把握してるのは俺たちと『エデン』だけだ。

「被害者は若い人魚の女性。『エデン』特注の生体拡張義肢を使用している。それで、ウチに話が来た。同様の転生者たちの連続失踪の捜索願として」
「それで、オークに当たりをつけたわけか」
「この街で女が消えたなら、まあベタなところでしょ」
「一連の失踪事件と今回の事件の繋がりは?」
「さあ、まだ何も」
「他には?」

 ワンの追求に、俺はただ肩をすくめるジェスチャーで応える。情報は時に金よりも価値があって、等価交換によってのみ得られるべきものだからだ。

「……警察にも何件か人魚の捜索願いが届いているが、いずれも発見には至っていない。『エデン』から被害者の身元に関する情報が公開されれば確認できるが、今回の事件と関係している可能性は高い」
「警察は捜査してないのか?」
「鋭意捜索中だ」

 ワンは渇ききった口調で言った。
 自分を人間じゃないと思い込んだ奴らが大路を歩いて、狼男が夜な夜な徘徊してオークが人を攫って売り飛ばすような街で警察の仕事をするのは、俺の想像する限りでもうんざりするような事だろう。
 少なくとも今この時にも誰かが死んだり死なせたりしているような中では、そう優先順位の高い案件とは思えなかった。

「なら少なくとも死体が上がったり、物騒なことにはなってないってことだ」
「そういうことだな」
「ぞっとしないな。こんな事件が掘ればそこらにいくらでも埋まってるってことか?
「とっくにご存じだろう」

 ワンの声には一切の感情も乗っていなかった。そこにあった何かは、いつしか何もかもすり減って消えてしまったのだろう。
 この一連の事件について、少なくともワンは何も掴んでいない。有効な手がかりは得られないだろう。

「動機はなんだ?」

 ワンの問いから連想されるイメージ。
 解体された人魚の腐乱死体/欠損した部位/パックに詰められた無機質な体──食肉という連想。
 人魚の肉を食ったものは、不老不死になる。
 この街でだけ歪な意味を持ち得る迷信。

「さあ?」

 ワンは冗談を言わないらしいが、俺は嘘も冗談も大好きだ。少なくとも、自分が言う分には。

「連続失踪事件なら、種族単位での性的偏執マニアって線もあるんじゃない? あとは生体拡張義肢バイオ・サイバネ蒐集家コレクターとか」

 俺には理解の及ばない話だが、この街にはその手の拡張義肢サイバネを装着した者や、義肢そのものに性的興奮を覚える類の変態が幾らか居る。
 彼らの存在は都市の暗がりに確かに息づいていて、中には転生者用の拡張義肢サイバネを自分の身体に移植するような人間も居る。
 当然、真っ当な人間の認知では義肢はろくに動かせないし、生身との認知的不協和で大概は正気では居られない。そういう狂人フリークスが絡む事件は、大抵悲惨なことになる。

「ああ、あとは怨恨とかな」

 ワンは当然のようにちっとも笑っていない。その病的に鋭い目つきは、値踏みをするように俺を睨んだままだ。

「特定の個人ではなく、人魚という一種族への強烈な怨恨。時たまそういう動機で、こういう事件が起こる」
「ゾッとしない話だな。人魚アレルギーの殺人鬼が、人魚を殺して死体を集めて回ってるって? だとしたら人魚がこの街から一人も居なくなる前に片をつけなきゃな」

 俺がそう言うと、ワンは鼻を鳴らした。もしかしたら、彼の世界ではそれが笑い声なのかもしれなかった。

「てめぇが言うと冗談に聞こえねえな、"絶滅者スローター"」

 笑える話だ。少なくとも、ワンの言う皮肉にしては、だが。

「俺ほど冗談の上手い奴はこの街には数えるほども居ないぜ。なんならコツを教えてやろうか、お堅いワン警部補?」
「結構だ。お前の冗談は胸焼けがする」

 ワンは鬱陶しげに手を振ってみせた。

「なら、俺たちは失礼するよ。行くぞギギ」
『人間ハ話しが長イ』
「お前がなんでも面倒くさがりすぎなんだよ」

 興味のない話は長く感じるものだ。ギギにとっては一ミリも興味のない人間の世間話や冗談や皮肉の言い合いを聞くなんてのはひどく退屈なものなのだろう。

「待て事件屋」

 ワンが呼び止めるが、足を止めてゆっくり話すつもりはもうない。話すべきことは全て話している。俺は顔だけ振り向いて答える。

「どこへ行くつもりだ?」
「さあ」

 俺たちが用があるのは人魚で、その人魚はすでに死体になっている可能性がある。
 なら、心当たりがある。この街ならではの、クソみたいな場所だ。

「まあとりあえず、餅は餅屋ってことで」

***

 エンブリオ市第七地区。
 エンブリオ市は同心円状の多重積層都市である。それ自体が企業複合体によって一から形成された都市であり、収容される転生病者の増加に併せて歪な伸長を繰り返し、その度に外周を継ぎ足して来たからだ。
 ここに暮らす人々の多くは病人であり、彼らの生活のためには適切な分断が必要だった。
 転生病を発症した者が、誰しも人間離れした義体を必要とするわけではない。薬で症状を抑えたり、体感映像で認知的不協和を緩和しながら普通の人間とそう変わらない生活をしている者も多い。
 そんな彼らが、侮辱されたら火を吹いて相手を丸焼きにする全身義体のドラゴンや、人工筋肉と人工脂肪で異常巨体になった人攫いのオークなんかと、果たして一緒に生活できるだろうか。
 答えはノーだ。どうしようもない断絶がこの街を切り分けている。
 神様がノーと呟くたびに、エンブリオは新たな殻を纏ってきた。その度に街は大きくなったが、都市を切り分ける断絶もまた永遠に癒えることのない傷口のように広がっていった。

 第七地区。世界樹じみて巨大な企業複合体の本社ビルを中心に同心円状に広がったこの都市の、七枚目の壁の内側──『人間の居ない街シャッタード・シティ』と呼ぶ者も居る。
 この壁より向こう側には、自分を正しく人間だと認識する者は生活していない。
 その壁の内側を、癒えることのない断絶の傷口をなぞるように、俺たちは走っていた。
 ほとんど私物同然の社有車であるピックアップトレーラーの荷台では、ギギがばかでかい猫みたいに丸くなっている。

「嫌だなあ」
 
 もうすぐ目的地に着く。俺は憂鬱で仕方なくて、誰にともなく呟く。

「俺、あいつら嫌いなんだよ。陰気でさ」

 助手席に座る少女──要は、一言も発さない。
 俺たちがオークのダンジョンを探索している間も、要は助手席に居た。常に一定の距離で彼女の世話をするのが俺の仕事の一つであり、同時にそうして同行するのが要の仕事でもあった。彼女の特殊な転生は、この上なく有用で、同時に危険なものだ。

『奴らモ、お前の事は嫌いダロう』

 車内のスピーカーから、荷台にうずくまるギギの声が聞こえた。
 無機質なノイズ混じりの機械音声は、どういうわけかいつでも不機嫌そうに聞こえる。

『棺屋は死者を愛し、生ある者を等シく厭悪している。人モ、それ以外も』

 世にも名高きエンブリオ屈指の異常性癖集団の名を、【深き眠りの同胞団スリーピー・ナッツ】という。
 同胞団は重篤な生ける屍リビング・デッドの転生者にして死体性愛者である"棺屋"のザキとその配下達によって運営される非合法の清掃業者である。
 彼らは都市中の犯罪組織と強いパイプを持ち、各地で勃発した抗争や殺人の現場に赴いて速やかに現場を清掃する。
 彼らは都市の一角に打ち捨てられた死体処理場を根城にしており、現場から回収した死体を保管している。
 この街で事件が起きて、死体が見つかっていないなら、そこにある可能性が高い。
 そうでなくても、死体を集めたくてウズウズしている"棺屋"は都市中の血なまぐさい事件に精通している。今回の事件について、何か情報を握っているかもしれなかった。

『……ノエルの死体ガ見つかったら、『エデン』が回収しに来ルか?』

 義体と接続された車内のスピーカーから、ギギの躊躇いがちな声が聞こえた。自分の口にした言葉に怯えているようでもあった。
 友達の話をすると、ギギの中にある人間らしい感情の残滓が浮き彫りになる。どれだけ自分を不滅のドラゴンだと思い込んでいても、その精神の根底は人間として生まれたという事実に縛られている。心までドラゴンにはなりきれない。それは同時に、ギギを苛む『人間であるという事実とドラゴンであるはずだという認識の齟齬』という苦痛が、本質的には永遠に解消されることの無いものだということを示してもいる。

「ああ。仕事だからな」
『……棺屋が回収する方ガ、幾らかマシかも知れンな。奴らは死を愛すルが、辱めはしなイ』
「ノエルの事は俺も知ってるが、そう簡単に死ぬようなタマじゃないだろ。案外本当にただ家出してるだけで、今ごろもう『エデン』に帰ってるかもしれないぜ」

 気休めだったが、同時にそれは俺自身が欲している言葉でもあった。俺たちの知る"泣き虫"ノエルは跳ねっ返りの不良娘でどうしようもないクソガキだが、それでもギギにとっては友達だったし、俺にとっても死んでほしくない奴だ。
 どれだけ死の匂いを嗅ぎ慣れてしまったとしても、見知った人間の死にまで慣れきってしまったら終わりだ。そうなってしまったら、そいつは本当の意味での人でなしに成り下がってしまう。

「戻ったら心配かけさせやがった罰としてノエルに飯でも奢らせようぜ。要も行くよな?」

 助手席の少女に語りかける。その目はフロントガラスの遥か彼方の虚空を見つめていて、やはりどこにも焦点を結んでいない。それでも、俺は彼女に話しかけるのをやめなかった。それが仕事だし、そうすべきだと思うからだ。

『そいつニいくら話しかけてモ無駄だ』
「そんな事ないさ、きっといつか俺の真摯な心が通じて、にっこり笑ってお礼を言ってくれるだろうぜ」
『恩着せがましい介護士ナド、私ならバ御免だな』

 ギギの減らず口も、運転中の眠気覚ましくらいにはなる。人間の居ない街シャッタード・シティには車通りも殆どない。単調で荒んだ景色が延々と続いて退屈だ。
 俺は欠伸を噛み殺そうともしなかった。思えば、それが良くなかった。

「あ?」

 車体が縦に大きく揺れた。助手席の要が、衝撃で大きく頷くように項垂れた。

「なんだ? 大丈夫か、要」
『カブト』

 俺が車を止めて要の様子を見ている間に、ギギが鋭い声を上げた。車体が軋むように大きく揺れて、ギギが荷台の上で身を起こすのがわかった。
 窓から外を見ると、すでに周囲をゾロゾロと囲まれていた。
 尖った耳と鼻、牙のような乱杭歯。血色の悪い肌。オークとは真逆──異常な低身長。
 ゴブリンの群れだ。その目を敵意と暴力への甘美な衝動にギラつかせて、既に臨戦体制に入っている。

「なんか怒らすような事したかな?」
『知らんガ、お前ハ他人を怒らせる癖ガある。もう少シ自覚すべきだ』

 なんの話かわからないので、ギギの言葉には適当な愛想笑いで応えた。
 ゴブリンの氏族が山賊じみて何も知らずに通行する人間を襲うのは良くある話だが、荷台に見えるようにギギが乗ってる状態で襲ってくるなんて事は本来ならまずあり得ない。普通はそうだ。ドラゴンに進んで喧嘩を売りたがる奴なんて居ない。つまり彼らは最初からそれを理解し、計画した上で行動している。
 タイミングからして、人魚の死体を売り捌くなんらかの組織か、或いはそれを買い求める誰かの指示によるものだと考えるのはそれほど突飛な連想ではないだろう。
 だとするなら俺たちはオークの巣を出た時から今までずっと尾行されていて、人気の少ない所に来たタイミングで襲撃が実行されたと考えるのが妥当だ。

「また面倒な事になったな」

 だが、同時にチャンスでもある。こいつらを締め上げれば、雇い主を辿って手掛かりが手に入るかもしれない。

「ギギ、殺すなよ」
『フン』

 鼻を鳴らす。ギギの無機質な電子音声は、どういうわけかどんな時も怒ったように聞こえる。

『私の知った事デハ無い』

 仕事が一つ増えた。
 ギギが殺す前に、敵を制圧する。

「キィッ」

 猿叫とも言うべき、甲高い声だった。オーク達が自らの言語を操ったように、ゴブリン達にも独自の言語と文化がある。獲物の知らない言葉で常に連携を取り合いながら、追い詰める。まさしく獣の狩りそのものだ。

「ギギ! 車ひっくり返すなよ!」

 かかってきたゴブリンの一人を蹴り飛ばしながら、俺は荷台の上で身をもたげたギギに言った。

「要が乗ってるんだからな! ちゃんと要を守れ!」
『お前の仕事ダ、私ニハ関係無い』

 全くドラゴンの相棒なんてのは扱いにくくて困る。俺の言うことを聞いてくれたためしがない。

「ギィィッ」

 ナイフを構えたゴブリンが突っ込んでくる。きっと盗品だろう。普段はこの辺りを通りがかった俺たちのような通行人を襲って、その身包みを剥いで生活している。時には転生者の義体を剥ぎ取って商品として売買する事さえある。生き物の死を売り捌くことに誰よりも慣れ親しんだ解体者であり、それを売買することによってこの都市の生ある者に還元する分解者。
 護身用のナイフや銃器を使いこなす事に、ゴブリンは忌避感を示さない。彼らの認識の中において、彼らは極めて狡猾な狩人だからだ。
 俺は突っ込んできたゴブリンを、大ぶりのアッパーカットで勢いよくすっ飛ばした。飛んだ先で、さらに三人が巻き込まれて倒れた。

「ストライク!」

 改めて周囲を見渡すと、総勢十人前後のゴブリンが俺たちを包囲していた。
 こんな人数で殺れると思われてるなんて、ふざけた話だ。
 俺のスーツは『エデン』印の特注品だ。砕けた月のかけらから採れた隕鉄を加工してある。
 大気中の未明粒子アーカーシャを取り込み、俺の精神に感応して動作する特別の人工筋肉が搭載されていて、分厚い鋼の筋肉で弾丸だって通さない優れものだ。更にそれを、無断で戦闘向きに改造したりもしている。
 ちゃんとした銘だってある。正式名称は、介護用多目的改造義装『ウルヴヘジン』……俺の名誉のために言っておくと、名付けたのは俺じゃなくて、我らがバックス福祉局の局長だ。

 俺の異常な膂力を目の当たりにしたゴブリン達の包囲に動揺が走る。
 その背後に、巨大な質量が落下した。ギギだ。

『遊んでやルつもりは無イ』

 広げた翼が、牙を剥いた相貌が、背後からの陽光を受けて絶望的なシルエットを路地に映し出した。

『せめて慈悲なク、殺してやル』

 脅しのつもりならこの上なく上出来だ。ドラゴンにこんな風に凄まれて震え上がらない奴は居ない。問題は、こいつが俺の話を一ミリも聞かないで本当に言葉通りの行動を実行に移しかねないということだ。

『おい、カブト』

 ギギは手近なゴブリンの一人を視線もやらずに尻尾で弾き飛ばしながら、屈むように俺に顔を寄せて呟く。

『私が片付ケテやる、何人か締め上げロ』
「なんだ、ちゃんとわかってるじゃないか」
『当たり前ダ、私をナンだと思ってる』

 人の話全然聞いてない偉そうな巨大トカゲだと思ってる、と言いかけたが、やめた。どうやら俺には人を怒らせる癖があるらしいので、少し自覚的に自制した。
 ギギがその気になったなら、この程度の包囲は物の数でもない。数分とかからずに片が付くだろう。相手にもそれが分かっているはずだ。なのに、彼らは恐慌に陥ることも、逃げ出す事も無かった。
 違和感──彼らはドラゴンがここに居ると知っていて襲ってきた。何故そんなことが出来る? バックアップが……ドラゴンを打倒し得る奥の手があるとでもいうのか?

「……あ?」

 我ながら間抜けな声が出た。
 急に夜になったのかと思ったからだ。それは影だと、一瞬遅れて理解した。
 頭上から投影されたその巨大な影──翼を広げた、絶望的なシルエット。

『カブト!』

 危険を察知するのは、ギギの方が早かった。俺はギギに駆け寄って、その翼が作る影の下に転がり込んだ。
 一瞬遅れて頭上から何かが落下した。それは地面を転がってから、少し遅れて爆発した。

「なんっ、だ、そりゃ……!」

 弾け飛ぶゴブリン──彼らの期待したバックアップ。その正体。
 恐らくは、彼ら自身もその詳細までは知らなかったのだろう。きっとその最期の瞬間まで、彼らは自分たちがこんな死に方をするだなんて想像もしていなかった筈だ。
 ただ幾らか俺たちの足を止めさえすれば、確実に俺たちを仕留められる奴が出てくる。その確信があったのだ。
 彼らの背後には、ドラゴンが居た。

「ギギ、要の所まで飛べ!」

 その間にも、頭上からの爆撃は続いている。
 爆弾はギギの竜鱗に触れる事なく、空中で軌道を変えて弾かれるように別の場所へ落下する。
 ドラゴンの不滅の肉体に宿った強力無比な神通力──実際には、ただの飛翔用の仮想重力発生装置。単なる『エデン』印の禁忌のオーバーテクノロジーの産物でしかない。
 ドラゴンの義体には、そんな機能が山ほど付いている。
 それが、今は敵に回っている。悪夢か、さもなくば酷い冗談のような状況だ。

「くそ、なんだあいつ! お前の親戚か!?」
『知ラん!』

 ギギが怒ったように言う。トレーラーの荷台に乱暴に着地して、仮想重力発生装置で落下する爆弾を弾く。そのまま、ギギは羽ばたきながら跳躍した。打ち捨てられた廃墟同然のビル壁を蹴り渡りながら、仮想重力によって飛翔──頭上の爆撃手へ肉薄。

『貴様……』

 果たしてそこには、ギギよりも二回りは巨大なドラゴンの姿があった。漆黒の鱗を纏った完全義体──仮想重力に加え、自らが推進力を搭載する事でより完全な飛行能力を獲得したタイプ。
 それが、空中から爆撃を行ったのだ。眼下の光景は、もはや戦場と相違ない。
 俺はギギの義体にしがみついたままで、それを見ていた。

『邪魔ヲ、スルナ、竜ノ仔』

 低い、地獄のような電子音声だった。声を発するための全ての器官が、この世に生きているもの全てを呪う為に歪んでしまったかのような。
 背後から取りつこうとしたギギを、黒いドラゴンは尻尾の一撃で一蹴した。

「ギギ!」
『騒グな』

 ギギの不滅の竜鱗──仮想重力の皮膜が、致死的な激突の衝撃を和らげる。反動に吹っ飛んでビルの壁面に激突するが、俺にもギギにも怪我は無い。

『貴様、私ヲ真なる竜の王たる者ト知っての事カ』
『ソンナ物ハ、知ラヌ』

 ギギとよく似た、コミュニケーションを取ることすら厭悪するような一方的な言葉。こいつとは、会話で切り抜けるのは無理だ。俺は直感した。こいつは俺たちを殺そうとしている。

『我ノ邪魔ヲ、スルナラバ』

 黒いドラゴンが、こちらに向き直った。牙を剥く──口を開く。その内奥にある地獄の機構が露わになる。俺は懐から拳銃を抜き出して、狙いを定めた。だが、全てがあまりにも遅かった。
 生き物が呼吸することを阻む術など無い。
 ドラゴンの息の前に、この世の全ては均しくなる。

『灰燼ト帰シテ、ソノ愚ヲ悔イヨ、愚カナ定命者共』

 俺は何かを叫ぼうとした。
 ギギに向かって。或いは地上にいる要に向かって。だが、それら全ては滅亡の音と光に呑み込まれて、何者にも届くことはなかった。
 そして、すぐに何もわからなくなった。



 懐かしい心地がした。
 いつか、随分前にもこんな事があった気がした。多分、父親を殺した直後だったと思う。
 その時に横たわっていたベッドの感触。清潔で、けれどどこか作り物じみた匂いのする空気。暑くも寒くもない、完璧に快適な環境。
 思い出される記憶は泡のように浮かんでは弾け、意味のある思考を生み出す事はなかった。そこにはなんでもあった。安全があった。暖かい寝床があって、食事があった。俺を殴る父親も、それを止められずに啜り泣く母親も居なかった。飢えも貧困も無かった。
 完璧な場所──楽園のようだろう、と誰かが言った。そいつは笑っていた。
 そんなものは知らなかった。生まれてから、一度も。この世のどこかにそんな物があるなんて、俺にはタチの悪いペテンだとしか思えなかった。
 いけすかない場所だと思った。だから、目を覚ました。

「ああ、目が覚めましたか」

 ベッドサイドに座っていたのは、『エデン』職員の真島だった。真島は気味の悪い笑みを浮かべてこっちを見ている。
 周囲を見渡す。見覚えのある景色──企業複合体アカシアに管理された研究施設。『エデン』の有様は、俺が居た頃から時間が止まっているように変わっていない。
 楽園エデンで目を覚ましたというのに、幸せとは程遠い気分だった。

「さっきまでバックス局長もいらしてたんですよ。入れ違いになりましたね」
「そうか」
「いつも通り、激昂してらっしゃいました。『こんな仕事も満足にこなせないのか』と。ついでに私もお叱りを受けました。相変わらず恐ろしい方ですね」
「そうか」

 俺たちバックス福祉局の局長は、端的に言って頭がおかしい。他のところもおかしいが、頭の方に比べれば些細な問題だ。それに下品だし、野蛮だ。それからいつも怒っている。こんな状態で会っていたら、本当に殺されかねない所だ。

「どのくらい寝てた」
「丸一日といったところですかね。怪我はそれほど酷くはないようですよ。我が社の介護用スーツと、何よりギギさんの耐久性のおかげですね」
「そのギギはどうした」
「義体のオーバーホールを終えて静養中です。くつろいでいますよ。ここは彼女にとってはホームですから」
「なら、要も無事か」
「それが……」

 真島が言い淀んだ。その顔は相変わらず仮面じみた微笑の形に固まったままだ。

「どこへ行くんです?」
「もっとマシな話をする奴のところだ」
「それほど酷くないと言いましたが、しばらくは絶対安静だそうですよ」
「そうか」
「要さんは無事ですよ。ギギさんを通してバイタルが確認できています。ただ、身柄はこちらにはありません。意図は不明ですが恐らく襲撃後に実行犯が連れ帰ったかと」
「そうかい、ありがとよ」

 俺は無理矢理立ち上がり、ベッド脇の機械から体のあちこちにつながっていたチューブを引き剥がして立ち上がった。点滴台を引きずって、廊下に出る。

「やあ、随分なザマじゃあないか」

 廊下の向こうから、声がかけられた。知った声だった。俺は露骨に顔を顰めた自覚があった。

「それにその顔。まるで狂犬だな。今すぐ誰でもいいから噛み殺さなきゃ気が済まないかい?」
「何の用だ」

 美術品じみて風に靡くプラチナブロンドの髪。その身体をすっぽり覆う事ができそうな、真っ白な翼。作り物みたいに整った顔には、いたずらを思いついたような幼なげな笑み。吊り上がった唇の端には、火のついたタバコ。
 見知った顔だ。そいつは笑いながら言った。

「お見舞いに決まってるじゃないか。なあ、"絶滅者スローター"。古き友よ」
「お前が言うと、俺は何でも皮肉に聞こえちまうよ、"出題者クエスチョナー"」

 その少女、アンジュ・"クエスチョナー"・キャロルは、俺の言葉を聞いて悪戯がバレた子供のようにケラケラと笑った。冗談を言ったつもりはこれっぽっちもなかったのに。

***

 『エデン』施設内には庭園がある。多種多様な"生態"を持つ転生者の発展的治療の為に設けられたものだ。
 珍獣のためにしつらえられた珍奇な檻か、動物の環境展示のようなものといった類のものだ。恐らくは、当の『エデン』という組織自身がそうとしか考えていない。

「それで? カブト」

 咥えたタバコに火をつけながら、アンジュは歌うように切り出した。
 施設内は全面禁煙だが、アンジュは気にした素振りもないし、注意する職員も居ない。この施設における彼女の立ち位置の特殊性故にだ。

「今度はどんな面倒に首を突っ込んだんだい?」

 アンジュはにやりと笑った。その目は好奇心に爛々と輝いている。

「人聞きの悪い。俺はこの人でなし施設の人でなし共に無理矢理付き合わされてるんだよ」
「そうかい?」

 アンジュは喉の奥でくつくつと笑った。どんな時でも意味なくもったいつけたがるのが奴の性分だった。うんざりだが、いつものことだ。

「何が言いたい?」
「別に。ただ君は君が思ってる以上に、今の自分の事が嫌いじゃないはずだぜ」
「……本題に入ろう」

 こいつと話していると、俺は著しく調子を崩す。もしかしたら、こいつが俺以上に他人を怒らせるのが上手いせいかもしれない。
 俺は何もかもが面倒になって、事のあらましをアンジュに説明した。

「人魚の失踪事件、ね」

 飴玉を口の中で転がすような調子で、アンジュは言った。思案に耽っているようでもあった。

「初耳か?」
「まさかだろ」

 アンジュはこの『エデン』から一歩も外に出られないが、それでも異様に耳が早い。アンジュはせせら笑うように言った。

「何せ、私の恋しい"泣き虫ノイズィ"ちゃんまで行方不明なんだ。当然私も情報を集めていたさ」
「ノエルか」

 ギギとノエルが友達であるように、楽園暮らしの彼女達の結束は固い。特に、ノエルとアンジュの関係は……姉妹と言おうか親友と言おうか……とにかく繋がりが強い。

「どうせまたお前が怒らせて、そのせいで家出したんだろ」
「人聞きが悪いな。私はただ彼女に発展的な人生を送るためのアドバイスをしただけさ」
「お前は他人を怒らせる癖があるって事にもう少し自覚的になったほうがいいな」

 大方予想通りのようだったので、俺もアンジュに発展的な人生を送るアドバイスとやらをしてやった。なるほど、気分が良い。
 アンジュは深くため息をついて、大袈裟に肩をすくめて見せた。

「ノエルはいずれここを出る事になるんだ。そのための準備が必要なんだよ。……あの娘は私とは違う」

 ギギや要がそうであるように、ここで育った転生者達も、希望すればさまざまな制約を被る事にはなるが、この箱庭の外で生活する事ができる。『エデン』にとっても彼女らの特殊な義体が外の生活で運用されるデータが必要だからだ。
 ここで研究対象として一生を過ごすか、ここよりも多少は広いが悪徳に満ちた街でその一部となって過ごすか、少なくとも選ぶ権利がある。
 アンジュにはそれがない。彼女だけが、その権利を持っていない。

 アンジュは天使の転生を患っている。白い翼を持っていて、賢くて、美しい。天使の転生者は他にほとんど例がなくて、どうやったら彼女の認知と現実の肉体の乖離を埋められるかは誰にもわかっていない。彼女はここで認知的不協和による発作に怯えながら、症状を抑える薬を飲んで、『エデン』の冗談みたいな科学力が彼女の抱える問題を解決する奇跡のような確率に期待し続ける以外の未来を持たない。
 一生を楽園に縛られた天使。
 それが、アンジュ・"クエスチョナー"・キャロルだ。

「人間と人間との間に生じる問題は、まるでなぞなぞリドルのようだな。本当に答えが存在するのかさえ疑わしい難問ばかりだよ」
「お前はそういうのが好きなんだろ、"なぞなぞ狂リドラー"?」
「返す言葉も無いな」

 アンジュは困ったように笑った。紫煙を吐く彼女に、俺は言った。

「人魚の死体を欲しがってる奴がいる。そして俺たちは、恐らくその本人に襲われた。ドラゴンだった。あれは何者だ?」
「ドラゴンの転生者、それも完全義体を所有しているのなら、その時点で十中八九『エデン』の関係者だろう。君が寝ている間に、あらかたこっちで調べはついたよ」

 アンジュは『エデン』のシステムに無断で潜入し、無断で情報を抜き取ることを得意とする。天使の転生を患って得た特性に関わるものではなく、単に特技なのだ。

「人間の名前はミハエル・岩動イスルギ・オーランド。ドラゴンとしての名前はロゾロ・ラジーン。ドラゴンの言葉で『黒い天蓋』という意味だそうだ」

 確かに大きなドラゴンだった。頭上を飛ばれると、落ちた影で夜が来たと錯覚するほど。
 俺はアンジュがプリントアウトしたミハエル……黒い天蓋のロゾロ・ラジーンという名の男の経歴に、簡単に目を通した。
 62歳。男性。獣型一類転生。ステージ5──救いようのない末期患者の烙印。
 従軍経験あり。某国の空軍で、戦争に出ている。その時点で既にドラゴンの転生を患っていたようだ。
 軍を除隊されて後、治療のためエンブリオへ。

「あれほど大規模の義体を所持するとなると、まあ軍絡みか」
「どんな兵器作りもこの街では治療の一環だからね」

この街の法は企業複合体アカシアそのものであり、彼らは「より富を生み、より繁栄する」という唯一の理念をどこまでも追求する。さもなくば滅びるという、ある種の強迫観念に取り憑かれているかのように。
 転生者の拡張義体は、他ならぬ企業複合体アカシアの手によって兵器への転用やその技術を応用した開発が盛んに行われている。
 ロゾロのそれは制作された時期的にもかなり初期型のドラゴン義体だろう。
 アカシアの木に実る、歪な禁断エデンの果実──ロゾロの存在は、企業複合体の求める理念に大いに貢献したことだろう。

「オークの巣で見つかった人魚の死体は、パック詰めされてた……まるで食肉みたいに。あれはなんだ?」
「君の連想は正しいよ。あれはまさしく食肉さ」
「本当に食ってるってのか? 人魚の死体ばかりを? なんのために?」
「それが今回の事件のキモだよ」

 アンジュは立ち上がると、芝居がかって俺に向き直り、白い羽を打ち振った。
 その見かけも相まって舞台のワンシーンのように様になっているが、天使というには、得意満面の笑みはまるで儚さに欠けていた。

「さあ、"なぞなぞリドル"だ。カブト」

 好奇の光を宿した瞳は、天使というよりは、さながら死ぬまで悪ふざけをやめることのない悪戯好きの妖精オイレン・シュピーゲルだ。
 俺は彼女の言葉を待った。"出題者クエスチョナー"による、なぞなぞの始まりを。

「完全義体を所持したドラゴンの男が、人魚の死体ばかりを狙って食べる理由はなんだ?」

 アンジュの中では、そのなぞなぞリドルの答えは既に出ている。ならさっさと教えればいいだろうというのが俺の考えだが、彼女にとっては違うらしい。『エデン』で生活を共にした僅かな期間での経験から、俺にもその程度のことはわかる。

「変態だから?」
「ヒントは、さっき渡した資料の中」

 ステージ5のドラゴンの転生者。元軍属。治療のためエンブリオに──治療?

「ミハエルはドラゴンとして軍に属していた。軍を除隊された理由は転生病の治療のためじゃない……こいつの持病か」

 アンジュの笑みが深まる。
 資料に付記された『エデン』の治療記録──切除しても切除しても転移を繰り返し再発するガン。『エデン』の冗談みたいな科学技術を以てしても完治する術とて無し。
 『エデン』による方針──終末期治療へシフト。

「だがわからん、不治の病に侵されることと、人魚の肉を食うことになんの関係がある?」
「君の故郷に、八百比丘尼という尼の言い伝えがある。彼女はあるものを口にする事で、八百年の長寿を得たという」

 ──人魚の肉を食った者は不老不死になる。
 ギギの口にした、不気味な迷信。

「それが、人魚の肉だってのか?」

 アンジュは笑みを深めた。人間世界の悲惨や、どれだけ救いようのないほど転生しても消えることのない人間の悪業──この世のあらゆるものにユーモアを見出すことができる者の、途方もない自信に満ちた笑み。
 この世界のどんな難解な謎も、アンジュにとっては馬鹿馬鹿しくて愉快な"なぞなぞリドルに過ぎない。
 ドラゴンは不滅の命を持つ非定命者イモータルだ。彼らの認知においては彼らは不老不死であり、死ぬことはない。永遠に生き続けるロゾロ=ラジーンというドラゴンと、ガンで死に瀕しているミハエル・岩動・オーランドというちっぽけな人間の間にある途方もなくて消しようのないギャップを解消させるための、ひどく血なまぐさい、たった一つの間違ったやり方。

「じゃあそいつは、自分の病気を治そうとして人魚の肉を集めてるわけか?」
「そうだ。一人では足りぬから二人、二人では足りぬから三人。犠牲者の数は無為に増え続ける……そしてその手は、ノエルにまで伸びた」

 アンジュの笑みに暗い影が差した。この世界で唯一無二である者の命に危機が及ぶことへの、暗く冷たい怒り。
 被造物じみたアンジュの美貌に怒りが宿ると、まるで本当にこの世のものではないかと思わせるような底知れぬ妖しさがあった。

「だが、俺たちを襲ったのは何故だ?」
「君たちは"棺屋"に赴く道中襲撃された。その推測は間違っていなかったのだろう。彼らはある意味で現代における死霊使いネクロマンサーだ。誰よりも死に親しむ故に、生ある者の肉体にも通じている。……企業複合体アカシアとの繋がりを期待できない中では、最も優れた名医と言える。もっとも、今は居場所を移しているだろうがね」

 道中俺たちを襲ったのがゴブリン共だったのも、その前提なら符合する。
 彼らは死体も商品として扱う。当然死体愛好家の棺屋は上客だ。繋がりが深く、融通が利くのだろう。

「だが、要は攫われた」

 残された謎を口にすると、思っていたよりも硬質な声が出た。
 要の無事が脅かされている現状に、自分で思っている以上にイラついているのがわかった。
 アンジュのように、この世の全てをなぞなぞにして、そこにユーモアを見出すような事は俺には出来なかった。

「その場で殺すことも出来たはずだ。何故わざわざ連れ去った?」
「奴は、人魚の肉を食っても不老不死にはなれなかった」

 アンジュは言いながら、新しいタバコに火をつけた。完全な晴天が人工的に再現された天井に向けて煙を吐く。

「なれなかったんだよ、カブト。だから、必要だったんだ」

 アンジュは、解き明かすべき最後の答えを告げた。どうしたって、俺はそこにユーモアを見出すことなんて出来なかった。
 "なぞなぞリドル"の答えはどんな時も馬鹿げているほど単純で、残酷なほど幼稚だ。そんなものを、愛せるはずがなかった。

「ありがとよ、アンジュ」
「行くのかい?」
「ああ。だがその前に、ギギを運ぶ」

 ギギの義体は特殊だ。その機能を十全に発揮するためには要との同期が不可欠。
 つまり、今ギギは自分では動けない状態にある。だから、俺が運ぶ。俺に貸与された介護用パワードスーツの出力が馬鹿げているほど過剰なのは、まさしくこういう時のためだ。

「カブト」

 庭園を出る間際、アンジュが呼び止めた。俺は、首だけを振り向けて彼女を見た。その表情は白い翼で隠されていて、窺い知る事はできない。

「……ノエルは、まだ生きてると思うかい?」

 "出題者クエスチョナー"から"絶滅者スローター"へ──最後の謎かけ。
 答えは決まってる。

「俺たちが死なせない。そうだろ?」
「ああ。頼む」

 去り際、俺はアンジュに何か言ってやることにした。珍しく深刻になっているのを見て、馬鹿にしてやりたくなったからだ。発展的な人生を送るためのアドバイスという奴だ。
 俺には人を怒らせる癖があるらしいが、なにかやらなくちゃならないことがある奴には、そうしてやるのも悪くない。少なくとも、怒りは止まっている足を動かすための動機にはなる。

「お前もたまには自分のなぞなぞリドルを解いてみろよ。ノエルがお前に望んでることがなんなのかをな」

 そうして答えが出たら、アンジュ自身が、その口で本人に伝えれば良い。
 そのための機会を失わせない努力をするのは、今回はひとまず俺の仕事だ。



 エンブリオ、第七区画。
 『人間の居ない街』──その何処か。
 薄暗く、殺風景な場所だった。ろくな話し相手の一人も居らず、ノエル・"ノイズィ"・トランペットは一人部屋の隅で膝を抱えていた。
 彼女の今居る施設は、かつては死体安置所だったものだ。施設には死体が満載されているはずだったが、死臭はしなかった。それどころか、なんの匂いも感じられない。
 清潔な場所には清潔な匂いがあるはずだったが、ここにはただ虚無的な漂白された空気が満ちていた。
 いけすかない場所だ──ノエルは膝を抱く腕に力を込めた。

「不安か」

 ノエルと同じ部屋で、彼女を監視するように眺めていた女が言った。
 全身に包帯を巻いて、顔まで覆い尽くされている──典型的な生ける屍リビング・デッドの転生者の特徴。
 彼らは自らを腐敗してゆく死体だと認知している。そのため、腐れた自らの肌を晒さぬために、常に包帯でその身を覆い隠そうとする。臭いを消すのもそのためだ。彼らは可能な限り死臭を隠す。その肉体は健全に生きているからにはそもそも死臭など発しようもないが、それでも生きた屍として社会に紛れる為に、病的に自らの体臭に敏感である者は少なくない。
 "棺屋"のザキもその手合いだった。まさしく、虚無の匂いを纏う女だった。

「食われたくはないか。あの男に」

 死体性愛者──生ある全てを厭悪する現代の死霊使いネクロマンサーは、それでも時たま、生者であるノエルに話しかけた。
 そうされる度に、ノエルは却って自らが死に近づくような錯覚を覚えた。

「別に」

 問われれば答えねばならない。例え相手が死体を愛する死体のような女であっても、ノエルの意識は未だ人間としての頸木を逸脱してはいなかった。

「私は何も怖くない」
「恐怖しないのは、死体だけだ。死せる者はもはや死なぬからだ。お前はまだ、死体ではない」

 ザキの言葉は独り言めいていた。ノエルはその虚無の瞳から目を逸らした。

「もっとも、もう一人の女は違うようだが」

 ザキはノエルの隣で粗末なソファに座らされた少女に視線を向けた。
 少女の名は、要という。『エデン』で育った転生者だ。特殊で珍しい転生を患っており、彼女の意識は一日のほとんどの時間、肉体を離れて過ごす。今は、彼女は眠っている。

「要に手を出したら、お前達みんな殺してやる……!」
「それは無理だな。私を殺すことができるならお前はとっくにそうしている筈だし、なによりそんなことをしてもお前達二人が逃げ出す事はできないとお前自身が理解している」

 この死体安置所所は、"棺屋"のセーフハウスの一つだった。こういった場所が都市に無数に設けられており、彼女はそこに"恋人"を保管し、ビジネスに利用する。
 そして今ここでは、仕入れられた人魚の肉の解体が行われている。当初は人魚を攫ったオーク等にやらせていたが、品質面の問題から彼女が担当することになった。死体の扱いにかけて、彼女はこの都市の誰よりも長じている。

「……死体が恋人なんだって?」
「そうだ」
「自分の恋人を切り刻んで料理にするのか? ……心が痛まないのか?」

 棺屋の悪徳を口にするだけで自分の中の何か大切な場所がひどく傷つけられたような気がしたが、ノエルは歯を食いしばって嫌悪感に耐えた。

「彼女達は物言わぬ故に美しい」

 死体を愛する女は言った。暗く抑揚のないその言葉に微かに熱がこもった。

「私の恋人モノだ。どうしようと、私の勝手だ」

 顔を覆う包帯の口元に皺が寄った。それが彼女の笑みの形なのだと理解するのに、ノエルはかなりの想像力を必要とした。

「お前は奇妙だな、人魚の少女」

 ザキが言った。彼女が生きたものに興味を示すのは、珍しいことだった。

「その域にまで転生が進行しているにも関わらず、お前の肉体は人間のそれのままだ。足が痛くはないのか?」

 重症化した人魚の転生者は、下半身を魚のそれに整形する。だが、ノエルの下半身は生まれたままの人間の形をしている。
 本来そうあるべきというノエルの認知に、肉体が追いついていない。認知と実体の乖離は、幻肢痛となって発現する。すなわち、本来魚の形をしているはずの下半身が二本の足に引き裂かれる苦痛として。

「……痛い」

 ノエル・トランペットは『エデン』で暮らしている。この都市の外で転生病を発症した彼女は、その特異な転生症状の研究のために保護されることになった。
 ある日、彼女とその家族を乗せた飛行機は墜落した。天候条件の著しい悪化によって救助作業は難航し、事故による唯一の生存者だったノエルは、三日間をその現場で過ごした。ノエルが人魚になったのは、その時だった。
 飛行機が墜落する確率はおよそ0.0009%と言われている。宝くじが当たるよりも低い確率だ。なのに、何故自分たちは事故に巻き込まれ、自分だけが生き残った? 大好きだったパパもママも、みんな死んでしまったのに?
 それは、自分が人魚だからだ──"なぞなぞリドル"の答え。それはどんな時も残酷で、悪意に満ちて歪んでいて、そして馬鹿げているほど幼稚だった。
 ローレライの伝説──人魚はその歌で船乗りを誘惑し、座礁させる。
 彼女は歌うのが好きだった。父と母が、自分の歌を褒めてくれるのが好きだった。だから、いつも歌っていた。何も考えずに──彼女は人魚だったのに。
 自分の歌が全てを狂わせたのだ。自分の歌が飛行機を墜落させ、父と母を殺し、自分をここに追いやったのだ。
 ノエルは助けを求めて泣き叫んだ。父も母も、誰も、目を覚ます事はなかった。足が痛かった。引き裂かれるようだった。なぜお前は人魚なのにそれを認めようとしないのだ?──痛みは、絶えず彼女にそう問いかけるようだった。
 救助が来たのは、その三日後だった。その時には、ノエルの声帯は彼女自身の絶え間ない絶叫によって完全に破壊されていた。

「痛いに、決まってる」

 『エデン』に保護された彼女は、生体拡張義肢による肉体の人魚化を拒絶した。声帯も潰れたまま。歩く事も、声を出す事もできない。不具となった現実が、彼女の暗い迷妄を煽った。
 ──パパとママが死んだのは、お前のせいだ。お前が殺したのだ。お前が破滅を呼ぶ人魚だから、なにもかも台無しになったんだ。
 暗闇から、誰かが自分を責めていた。動かしようのない真実だけを口にして、誰かが自分を、その暗い場所に手招きしていた。
 地獄への誘惑──罪を苛む罰の炎への狂おしい憧れ。
 なぜ自分だけが生き残ったのかという、答えのない"なぞなぞリドル"を解き続ける事に、彼女は疲れ切っていた。
 そんな時、彼女の前に天使が降り立った。

 ──人魚姫のお話を知ってるかい?

 天使は、とっておきの冗談を披露するように笑っていた。

 ──王子さまに恋をした人魚姫は、彼に会うために人間になった。自らの声を引き換えにして。

 タバコを吸っていた。自分とそう歳も違わないはずなのに──そんな天使が居てたまるか、と思った。ひどい冗談だと感じた。

 ──まるで、今の君みたいに。

 作り物みたいに、綺麗な顔をしていた。こんなに美しい人を、見たことがないと思った。
 彼女は、まさしく天使のようだった。

 ──君がありのままの君でいる事に耐えられないなら、君はむしろ大声で歌わなきゃならないんだ。

 ある種の残酷や凄惨すらも好奇の対象として愛するような──この世の全てにユーモアを見出すいたずら好きの妖精オイレン・シュピーゲル

 ──歌ってごらんよ、そして、君の歌のせいで壊れてしまうものなんてこの世には何一つ無いんだって事を証明するんだ。

 程なくして、ノエルは声帯の拡張義体化手術を受けた。天使の導きに従って。
 そうして彼女は声を取り戻し、破滅を呼び寄せる悪運の歌を獲得した。
 

「痛くて、痛くて痛くて、たまらねえよ」
「なら、なぜ治療しない?」
「それは私が──」

 ノエルは、何かを答えようとした。その言葉を、鉄を引き裂くような破滅的な音が……ドラゴンの咆哮が、ロゾロ=ラジーンという名の死にゆくものの怒りに満ちた声が遮った。

「あの男にもいよいよその時が迫っている。どうやら時間が無いようだな」

 ザキは立ち上がり、自身の部下に指で支持を下して要を運ばせた。

「要!」
「人魚の肉には……当然だが……不老不死を得る有意な効果は認められなかった。彼はお前ではなく、先にこの娘を試したいとのことだ。命拾いをしたな。どのみち無駄ではあるが」
「なんで、アンタはあの男に手を貸す? なんのために?」
「ふふ」

 ザキは笑った。この建物に満ちる虚無の匂いと同じ冷たさを孕んだ、無機質な笑いだった。
 そして、呆れ返るほど幼稚で、残酷な答えを返した。

「あの男が死ねば、ドラゴンの死体が手に入るだろう?」

 それだけだった。"棺屋"のザキの世界で価値のあるものは、本当にそれだけだった。あの男が死んで、その時に自分が一番近くに居れば、自分がこの世で最も希少な科学技術の宝庫であるドラゴンの義体を手に入れることができるという、それだけのことでしかない。あるいは、ドラゴンの義体に宿る価値にすらも頓着しないのかもしれない。何故なら彼女は、恋する乙女でしかないからだ。
 転生した者は、皆そうだ。自分の見ている世界だけにどこまでも忠実で、それを遂行することだけを考えている。
 自分も同じだ、とノエルは考える。
 だが、"泣き虫ノイズィ"が彼女のミドルネームになったその時から、彼女の世界はまた別のものに転生した。

 ──君が君に宿った業を克服するためには、君自身の認知の上に存在する全てを破滅させる歌声を手に入れる必要がある。その喉を手に入れて、君は歌わなければならないんだ。君が望まない限りには、破滅も悪運も決して訪れはしないのだと証明しなくてはならない。

 天使が口にした、難解なリドルを思う。
 自分が今いる場所から抜け出すために歩く事は出来なくても、なぞなぞの答えを見つけるために、立ち上がる事は出来る。
 足が痛むのは、自分がまだ人間だからだ。全てを破滅させる人魚ローレライなんかではないからだ。天使アンジュが、そう信じるためのリドルを与えてくれたからだ。
 拡張された声帯を移植したその夜に、ノエルは静かに、声を上げて泣いた。
 彼女がどれだけ泣いても、声を上げても、彼女を取り巻くなにものも破滅する事は無かった。天使はただ、彼女の手を握って、その羽で包んでくれた。
 天使はノエルを"泣き虫ノイズィ"と呼んだ。やがてそれは彼女のミドルネームになった。それこそが、彼女に与えられた福音だった。

(──私が、足を治さないのは)

 彼女は人魚だが、人間で居たいと願っていた。両親の破滅が自分のせいだと認めたくなくて──だが、今は違った。
 足が必要だった。あの人と……彼女に福音を与えてくれた天使アンジュと共に歩みたいと願う、その為に──人魚姫の童話のように。

 『エデン』一の問題児、ノエル・"ノイズィ"・トランペット。
 彼女には、一般の人魚の転生者にはほとんど見られない特異な転生が見られる。
 自らの声を、なんらかの攻撃性を秘めた器官であると認知している。
 故にその治療のため、ノエルの喉の拡張義体には、特異な性能が付与されている。
 あらゆる音域の音波を発し、さらに指向性を与えてそれを発信することができる。
 ノエルは、ここに拉致されて来た時から、外部に向けてその音波を発信し続けて来た。
 破滅の歌声──それを歌うために作られた物。
 楽園に宿った禁断の果実──残酷な現実を克服するために与えられた力。悪問の"なぞなぞリドルを解き明かすためのヒント。

(諦めない為だ)

 彼女が『エデン』を抜け出したのは、都市で消息を絶つ人魚達を救おうとしたからだった。
 自らの手で、何かを為すことが出来ると証明したかったからだ。
 自分にも、誰かを救えると。

(私も、アンジュみたいに──)

 彼女は声を上げていた。
 それは尋常の人間の耳には届かない音域の声。 それでもどこかに居る、この声を聞くはずの誰かに向けて。

(私にも……!)

 その時、再び轟音が響いた。
 それは、ロゾロ=ラジーンの咆哮とは別の、もっと近くて、暴力的な音だった。
 一台のピックアップトレーラーが、設備を破壊しながら建物の中に侵入し、タイヤ痕を刻みつけながら荒っぽく停車した。
 やがて運転席のドアが開き、男が降り立った。怒りに満ちた鋭い目つきと浮薄な笑みを浮かべた口元は不可解なコンフリクトを起こしていたが、その凶相こそが彼にとっての平常なのだろうと思わせるある種の自然さがあった。この世の理不尽に絶えず怒りながら、それを笑い飛ばしてしまおうという努力を続けているような。

「なんだ、やっぱ生きてたかノエル。心配損だな、ギギ?」

 男はトレーラーの荷台の、動かないドラゴンに言った。代わりに、ノエルが返事を返した。

「カブト兄……」
「お前はもう少し静かに生きるって事を覚えるべきだな。人並みの幸せって奴を」

 そんなものはこの街のどこにも無い。人間ではなくなってしまったものに、人並みの幸せなど望むべくもない。わかりきった事だった。ノエルにも、それを口にした男にも。だがそれでも、男はそれを探しているのかもしれなかった。
 ──だから怒っているのかもしれない。ノエルの目には、その野蛮な男はそんな風に見えていた。

「さて、役者は揃った」

 "棺屋"は男を振り向いて、冷淡な視線を向けた。生きているものには、一切の感興を示さないという態度。

「いい加減、事件を解決させるとしようか」

 再び、竜の咆哮が轟いた。
 それは、終末を思わせる音だった。

***

 エンブリオ第七区画。
 『エデン』の研究施設がある都市の中央から、七枚目の壁を超えた所。『人間の居ない街』。まさしくこの都市の悪徳そのもの。
 それぞれの壁に設けられた関所は、『エデン』のお墨付きであることを示す福祉局の社員証を提示すればほとんどフリーパスで通過できる。
 民間人はこうも行かない。もっとも、中心に近い階層に住む者が都市の外縁を目指す理由はほとんどの場合において存在しない。だから、実質的にはそれは貧しくて汚くて危険なスラムから抜け出そうとする者を阻むための門だ。
 都市が隔離されている理由は、『エデン』の研究施設が細かく区分けされているのと同じだ。都市そのものが、症例や重症度によって分断された一種の行動展示なのだ。
 違うのは、企業複合体アカシアはその管理を半ば投げ出しているということだ。

 ──人間ではなくなった者がどのように生活し、どのような文化を形成するのか。

 企業複合体の好奇心の対象は、概してその一点に収束される。それこそが、彼らがこんな大それた都市を作り出した理由でもある。
 例えばそこにどんな酷い差別や諍いや血なまぐさい問題の数々が蔓延っていたとしても、彼らがそれに介入する事はない。それこそが、彼らの観察対象だからだ。
 そして、その中で興味深い研究対象をピックアップしたり、自業自得の機密情報の漏洩を隠蔽したり、あるいは今回のように、事件に巻き込まれた研究対象を回収するための行動を丸投げされるのが、俺たちのような『福祉局』の役割という事になる。
 嬉々として地獄を作っておいて、その管理には頓着しない。それでも、転生病という病に侵されたこの世ならざるただの人間達は、この街に来て企業複合体に頼る他にない。

 アリアカシアという種の樹木がある。アリアカシアはその名の通りアリと共生する習性を持った樹木だ。住処として自身の体と、そこから湧き出る樹液をアリに提供し、アリはその見返りに自らの棲家を守るために樹木に取り付く害虫を排除する。
 両者は拮抗した利害関係にあるように見えるが、実態は異なる。アリアカシアの樹液を食料として生活するアリ達は、実のところその樹液を摂食することによって糖を分解する酵素の働きを阻害され、アカシアの体から漏れ出る分解酵素を含んだ樹液以外を摂取できないようになる。
 両者の関係は利益提供による共生ではなく、実のところ依存と隷属に過ぎない。
 企業複合体アカシア──実に気の利いた名前をつけたものだ。この都市の全てをその身から滴る甘美な樹液で隷属せしめる彼らこそが、この街の絶対の支配者なのだった。

 つまり俺たちは、樹の中で起きた問題を解決するための、仕事熱心な働き蟻というわけだ。
 だからこうしてこの最悪の都市の最低の場所を必死こいて駆けずり回っている。
 そうして、今ようやく事件の核心に触れた。

「まさかそいつを担いだままで俺を倒して逃げ切れると思っちゃいないよな? "棺屋"」
「どうしてこの場所がわかった?」

 質問に質問で返す。生者の作法よりも死者の道理で会話する"棺屋"の流儀──自らの納得のみに忠実な者の自閉的コミュニケーション=生ける屍リビングデッドの典型的な人格形成。
 俺がこの場所を把握できたのはノエルの声が手掛かりになったからだ。ノエルの発した可聴域の外にある声をギギの義体が察知し、それを解析して場所を割り出しただけに過ぎない。
 だが、そんな事を教えてやる義理は無い。代わりに鼻で笑ってやる。

「お前が本社のあるこの区画を出なかったのは、そう出来ない理由があったからだ」

 ザキの無感情な目がじっと俺を見返す。さざなみの一つも起こることのない、永遠に凪いだ夜の湖面のような暗い目。

「ミハエル・岩動・オーランドは、遠からず死ぬ。余命幾許も無い老人を連れてはそう遠くへは行けない。後は、足がものを言う」

 そう、これは時間との勝負だった。
 ミハエル=ロゾロ・ラジーンは遠からず死ぬ。そうなれば棺屋はドラゴンの義体を持って行方を眩ませるだろう。ノエルと要を追う手がかりは失われる。故に、俺たちはロゾロが生きている間に……棺屋がそのそばを離れられない制約を課されている間に……彼らを見つけ出す必要があった。そして、間に合った。要もノエルも、まだ生きている。

「そうか」
「そうだよ。だから要を置いてとっとと消えろ。そうしたら、見逃してやってもいい」
「見逃す?」
「お前は生き物の死体にしか興味がない死体性愛者だろ」

 "棺屋"の性癖はこの街では周知の事実だ。彼女は生き物の死骸にしか欲情しない。それが彼女が患った転生とは全く別の、彼女自身の魂に備わった業の形だった。

「お前からドラゴンの義体を買い取ろうとしてる奴が居るはずだ。『エデン』の技術を故意に外部へ流出させようとしてるなら、企業複合体もお前の話を聞きたがるだろ。奴らが転生者とどんなやり方で話をするか、俺はよく知ってる」
「昔は人狼共の犬だったお前が、今はアカシアの犬か。世知辛い事だな、トリカブト」
「死人の分際でせこせこ金稼ぎしてる奴の言えた義理かよ」
「地獄の沙汰も金次第でな。亡者こそ金が入り用だ」

 冷たい死人の温度の、笑えない冗談だった。死人との会話を続けるほどに、心がささくれ立つのがわかる。

「バックについてるのは反転生者テロ組織ブレイブ・リーグか?」

 ザキは、ただ首を傾げて沈黙を返した。
 死人に口無し──自らの転生の発展的応用。

『モう、いい。カブト』

 不意に、空気の軋むような感覚があった。
 それは現実に巨大な質量が首をあげる気配だった。ギギが目覚めていた。

『そイツと話していても無駄だ』

 要との距離が近づいた事で、ギギの義体が復活したのだ。普通なら頼もしい相棒の復活に喜ぶところだが、この状況は実は大分まずい。

「ギギ、あんた……」
『ノエル、お前は自分が死にやすイ生き物だともう少シ自覚しろ。お前達は、いずれ死すべきその時を待たずとも、容易ク死ぬ』

 それはあるいは、ギギなりに友人への気遣いを込めた言葉だったのかも知れない。ドラゴンにはドラゴンの優しさの尺度が存在するらしい。

『死人、貴様が何ヲ企み、何を為そうと知らヌ』

 ギギは竜の目でザキを睨みつけた。ギギは怒っている。それは、要を攫われたせいで自分が行動不能の無様を晒すハメになったからであり、友達であるノエルを攫われたからだ。
 怒ったドラゴンを止める術はこの世に存在しない。そういうふうに作られたからだ。それがドラゴンという存在が認知する世界だからだ。ギギには、正しくその為の力がある。

『貴様ハ、ここで死ね』
「その前に、私はお前の大事な大事な小娘を殺せるぞ」

 ギギの怒りが、さらに沸騰寸前に高まるのがわかった。非常にまずい

「一瞬だ。お前が一呼吸するよりも早い」
『私の知った事デハない』
「ならば、試すか?」

 ギギが牙を剥く──口を開く。その内奥に秘められた殺戮の機構が顕になる。

『ドラゴンは躊躇しなイ』

 ザキの顔を覆う包帯に、微かに皺が寄った。死人は笑った。

既に死せる者アル・グールは恐怖しない」

 壊れた壁から、ぬるい風が吹いた。全てが崩壊するまでには瞬きほどの時間もかからない。やってられるか、と思った。

『……邪魔ヲするな、カブト』

 俺は睨み合う二人の間に立った。最悪な気分だ。自分をドラゴンだと思い込んだ全身兵器と、自分を歩く死体だと思い込んでるせいで危機感が致命的に欠如したアホが居て、その間に立つなんて、まともな人間ならとてもやるべきじゃないと考えるまでもなくわかる事だ。
 もちろん俺はまともなので当然わかっているが、同時に、この世には嫌でもなんでもどうしてもやるべきことはやらなくてはならない極限の状況というものが存在することも知っている。

「そいつを返せ、ザキ」
「そんなにこいつが大事か? "絶滅者"。存外いじらしいな」
「そうだ」

 腹立たしい冗談にも耐える。どうしたって、そうしなくてはならない時がある。

「大切なんだ。返してくれ」

 人間が言葉を獲得したからには、それはどんな時でも嘘をつける権利を獲得したことに他ならない。
 でもだからといってどんな時だって嘘で切り抜けられるわけじゃない。大抵の嘘はバレるものだし、両手に余るほど大きなものは隠し通せた試しがない。
 だから、本当の事を言う。その方がよっぽど話が早い。

「ふっ」

 何がおかしいのか、ザキは笑った。そして指先で部下に指示を出して、要をソファに横たわらせた。

「やめだ。"絶滅者"と事を構えるのは割に合わん」
「そうか」

 俺とザキとの関係はそれなりに古い。職務上の必然という奴だ。だから、俺たちは互いに互いの危険性を承知している。ここから先に踏み込めば、互いに無視できない損耗を負う事になる。その分水嶺を、ザキは見誤らなかった。

「"絶滅者"、それにドラゴン。ああそれと、人魚の少女」

 ザキは俺たちを順に指差した。それから、呪わしいほどに恍惚に蕩けた目を向けた。

「実に良い目をしている。きっとお前達は、これからも山ほど死体を作るだろう──どうぞ今後とも我が社をご贔屓に」

 恭しく一礼し、棺屋のザキは部下を伴ってその場を後にした。
 後に残されたのは、俺とギギと要、そして泣き虫ノエルだけだ。

「よおノエル。まあなんていうか、久しぶりだな」

 俺はせいぜいフレンドリーに見えるようににこやかに手を振ってやった。ノエルはニコリとも笑わない。

「お前、なんだってこんな事した?」
「……」
「死ぬかもしれなかったぜ」

 実際、かなり危ないところまで来ていた。ノエルが今ここに生きているのは、本当にたまたま幸運が重なったというだけのことでしかない。

「またアンジュと喧嘩したのか?」
「……嫌いだ」

 黙り込んでいたノエルが、不意に口を開いた。

「あの死体屋も、死にかけのドラゴンも……エデンもアカシアも、みんなみんな嫌いだ!」

 燃えるような怒りだった。同時に、氷のように冷たい悲しみだった。きっとこの数日で、この世にある凄惨に近づきすぎてしまったのだろう。

「この街には私と同じ人魚がたくさん居て……あいつらに食われた! 何人も、何人も! 不死になりたいとか死体が可愛いとか、そんな……意味のわからない理由で! アカシアもエデンも、自分のことしか考えてない! 自分ではなんにもしないくせに! だからこんな事になるんだ!」

 ノエルの言う事は正しい。この街は狂っていて、そのせいで命を落とした奴が大勢居る。誰にもそれを覆す事はできない。

「何が福祉局だ! 何が事件屋だ! ……みんな同じじゃないか! 同じだ……誰も助けられなかった……私と……同じ……」
『ノエル……』

 ノエルは遂に泣き出した。泣き虫ノエルの面目躍如──アンジュならうまく慰めただろうが。そういうのは俺の仕事じゃないし、きっと今のノエルに必要なのはもっと別のことだ。

「そうだ。俺もお前も同じだ。奴らに食われた人魚は助けられなかったし、アカシアもエデンもクソで、この街はいかれた病人の犯罪者だらけで最悪だ」

 俺は笑おうとした。上手く行ったかどうかはわからないが、そうするべきだと思った。

「けど、俺もお前も生きてる。生きてるからには、やるべき事がある」

 ノエルは泣いていたが、それ以上に怒っている。この街があまりにもクソなことに。この街を支配する企業複合体が、その下にあるエデンが、更にその下にある俺たち福祉局が、どんなに酷いものかを知って、だから怒っている。
 それが必要なのだ。少なくともそれは、止まってる足を動かす理由にはなる。

「カブト兄の、やる事ってなに……?」
「お前と同じだ」

 外からは、ドラゴンの咆哮が聞こえる。死の苦痛に悶えるような悲痛な叫び。不滅の命を持つ筈の者が、今まさに朽ち果てて死のうとしている。膨大な命を道連れにして。
 俺はそれを止めなくちゃならない。仕事だからだ。そして何より、俺がそうすると決めたからだ。

「多分素質あるよ、お前」

 こういうことを言うと、アンジュは怒る。前にも俺のせいでノエルが不良になったとかで散々嫌味を言われた事がある。
 だが、人間が何を考えて何を選んで、どうやって生きていくかを決めるのは、どうしたってそいつ自身だ。自分に課せられた問題は、自分で解決しなくてはならない。
 そして今まさに、俺たちは俺たちの解決すべきものを目の前にしている。

「じゃ、行くかギギ」
『……なんダ、その手は』

 突き出した俺の拳を見て、ギギは怪訝そうにした。

「グータッチだよ。こうやって拳を、コツンってすんの」
『知ラン、何の意味があル』
「これやると絆パワーが爆発して超強くなんだよ!」
『私の知った事デハ無い』

 ドラゴンの相棒ってのはこれだから困る。これから死ぬかもしれないって言うのに情緒のかけらもない。

『……死ヌなよ』
「お前もな、ギギ」

 たった一言だけ言い残して、ギギは砕けた壁から矢のように建物の外へ飛び出して行った。
 ギギは、本人としては不本意だろうが一度あのロゾロ=ミハエル・岩動・オーランドに敗北した事になる。ドラゴンのプライドに照らし合わせれば、許せない恥辱だろう。恥は報復によってしか雪げない。ギギにはそれがわかっている。

「ノエル、要のこと見といてくれ」
「……どこに行くの?」
「ギギが派手にやってくれるんなら、俺は俺で本分を全うしなきゃな」

 事件屋だなんだと揶揄されはするが、建前ではあっても俺たちは福祉局の職員であり、その職務の本質は転生者の介護、及びその生命の危機に際しての現場介入である。
 この街は歪で、介護を必要とされる人間も、同様に誰もが歪んでいる。だから、俺たちのような歪な職業が生まれた。
 それをやる。課せられた役目を果たす。ここに来て、いよいよ事件は大詰めだ。

「ダンジョンハックだ。事件屋の仕事の、一番面白い所だぜ」



 地上数百メートルの孤独の中にあって、ロゾロ・ラジーンは絶えず死病の苦痛に苛まれていた。
 かつて軍に所属していたその時も、同じように、心は常に空にあった。誰よりも高く飛び、何よりも速く飛んだ。彼の認知においては、彼は正しくドラゴンそのものであり、そうあるために彼に課せられた条件が、軍への貢献だった。
 ロゾロ=ラジーンは、寄る辺無き天の彼方から地上にあるものを葬り続けた。それこそが自らに課せられた絶対の権能の正しい使い道だと信じていたし、そうする事がまた、彼の誇りを保つ事に貢献するという大義名分によって、未曾有の兵器は運用され続けた。
 努めて地獄の入り口を開き、あまねく弱者を等しくその断崖へ突き落とし続ける日々──絶対者としての栄華は、長くは続かなかった。少なくとも、彼の認知における彼自身の悠久の命からすれば、それは瞬きと思えるほど短い、一瞬のことに過ぎなかった。

 身体が激痛に苛まれている。吐き気がする、空気が不味い。なんだこれは、一体なんだ?
 竜の身体には一切の異変もない──ここにない、自分ではない誰かの肉体が病に侵される苦痛と、その弱い定命の肉の器に自分が縛られているという耐え難い認知的不協和が、ロゾロ・ラジーンを発狂させた。ミハエル=岩動=オーランドという脆弱な人間が、絶対者である自分自身と何よりも分かち難く結びついているという事実こそが、彼にとって何よりも耐え難い苦痛の源だった。
 そしてその時、奴が現れた。

「お初にお目にかかります、ロゾロ・ラジーン様。誇り高き竜の英雄よ」

 元よりロゾロにとって虫や動物に等しい人間の雌雄を一目で見極めることは困難だったが、それでもなお、ことさらに奇妙な相手だと思えた。その者には、かおが無かったからだ。
 無貌の男──その装いが男のものであることがわかったので、ロゾロはそう認識する事にした──は、恭しく一礼し、続けた。

「万軍を塵芥のごとく葬り去る天空の王、舞い踊る死の天蓋……ふふ、失敬。音に聞こえた英雄が、こんなところで死んでしまうとはなさけない!」

 無貌の男の嘲弄にロゾロは激昂しかけたが、病に侵された身体ではそれも許されなかった。苦痛に呻きながら、死にゆく竜の呪詛に満ちた暗い目が、男の顔なき顔を睨んだ。

「故に、私は当然こう考えます。あなたはこんな所で死ぬべきではない」

 当然のことだった。真に不死なる絶対の存在であるはずの自分が、脆弱な羽虫の如き人間と同じく老いさらばえ、病に侵され、死ぬ。
 許されて良い筈のない事だった。だが、この都市においても、そんなロゾロの「当然の主張」は誰にも聞き届けられることはなかった。
 今この時、この無貌の男に出会うまでは。

「この世界は病んでいる。貴方の身を蝕む病巣と同じ、死へ至る業病に侵されている。我々はそれを治療したいのです。その為には、貴方のような真の勇者の力が必要だ」

 無貌の男は手を差し出した。
 その手には、今のロゾロの望む全てが握られているように思えた。

「貴方が我々と同盟を結んでくださるのならば、我々は貴方に治療を施し、再び貴方に翼を与えることを約束します」

 それから、男は様々なことを語った。
 そのほとんどはくだらぬと思えたが、興味を惹くものもあった。
 人魚の肉の持つ不死性。
 そして何より、企業複合体に取り上げられた義体を取り戻すことが出来るという言葉。
 再び空を飛ぶことが出来る。絶対者としての永遠の命を手にすることができる。
 ロゾロは男の手を取った。自らがこの無貌の男と同盟し、この男の望む者となることを約束した。

「共に世界を救いましょう、勇者ロゾロ」

 組織の名は、『勇者同盟ブレイブ・リーグ』という。

 その理念は転生病者の排斥にあるが、ロゾロの前に現れた男はなんらかの転生を患った異形者であり、その誘いに乗ったロゾロ自身もまた、当然のように人ならざる認知を持つ異形である。そうでありながら、彼らは地上から一切の異形を排除することを標榜していた。
 ロゾロにはその意味はわからない。興味がないからだ。人間が何を憎み何を信じようと、それはドラゴンの尺度で見る世界においては極小の精神活動に過ぎない。
 転生し、異形と成り果てた者への差別意識=勇者──この都市でだけ歪な意味を発揮する、馬鹿げた冗談。
 知った事ではない、とロゾロは考える。
 どれもこれも、ちっぽけな人間風情の営みだ。自分が煩わされる謂れはない。忌まわしい病が完治したなら、あとは義体だけいただいてしまえば良い。歯向かうなら殺せば良い。ドラゴンとはそういうものだ。
 人間と、それに追われる人間もどきの顛末になど何の興味もない。
 ロゾロにとって、転生病を患って人間以外の何かに成り果てた者の滑稽さを嘲笑うことと、自らが不死のドラゴンであるという認識は矛盾しなかった。彼の世界においては、地上でただ一人、彼だけが正常だった。

『実ニ、クダラヌ』

 天空から、ロゾロは眼下の光景を睥睨する。
 彼に再び竜の身体を与えた無貌の男は、ロゾロに破壊を命じた。思う様に、全てを壊せと。
 初めからそのつもりだった。醜い虫の巣のごときこの都市と、己を不出来な肉の器に閉じ込めて辱めた企業複合体への憎悪のままに、全てを破壊する。
 あとは、捕らえた人間の小娘が──あの娘の血が不死の妙薬たり得ることを祈るのみだ。

『我ノ為ニ、塵芥ノ如ク、消エ果テヨ、虫共』

 口を開く。地獄を現出せしめる、破滅の機構が顕になる。
 竜の息吹は、この世全てに等しく絶対的な災厄として降りかかる。
 一呼吸するだけの間に過ぎない。たったそれだけで、全ては崩壊する。

『私の知った事デハ、無イ』

 声がした。絶対の孤独を意味する天空の世界に、ロゾロ以外の何者かが居た。
 それは、鋼の鱗を持ちながら一対の翼で飛行している。
 それは、逞しく発達した前肢と、鞭の如くしなやかな尾を持つ。
 それは、神話の世の具現の如くそこに存在する。ありうべからざるもう一つの絶対者。

『貴様ガ消えろ、羽虫』

 第三世代型ドラゴン義体──ギギイロイ・ウルムガバト。
 その名は、真なる竜の王を意味するという。

『ゴミ、ガ……』

 ロゾロの発するノイズ混じりの電子音声が、殺意を帯びて歪んだ。

『ゴミは貴様だ、死に損なイ。貴様モ竜ならば、セめて誇り高ク死ね』
『竜ナラバ、死ナヌ』

 暗い呪詛に掠れたロゾロの声──彼自身の世界を信じきって疑わないものの有り様。

『貴様ガドウカハ、知ラヌガナ』
『フン』

 ギギは人の話を聞かない。初めから、そんなものには何の興味も無い。ある意味ではロゾロと同じ、ただ自分自身の中でのみ完結する世界への孤独な信仰があった。

『借りを返スぞ、『黒い天蓋』』

 瞬間、ギギが加速してロゾロに肉薄する。
 次世代型のドラゴン義体で飛行するギギの体躯は、ロゾロよりも一回り小さい。
 それ自体が一個の弾丸と化したかのような急加速。鋭い爪を振り抜く。

『クダラヌ』

 ロゾロがその背に生え揃わせた一対の巨大な羽を打ち振り、爆発するような気流を伴って旋回する。
 被造物の鱗に覆われたロゾロの義体に笑みを浮かべる機能は備わっていなかったが、死病に呪われた邪竜が獰悪な笑みを浮かべるのが、ギギにはわかった。

『ソンナモノデ、竜ノ王ダト? 笑止!』

 一瞬前にまでギギが存在した虚空を、邪竜の顎門が噛み砕く。
 ロゾロの翼が巨大な翼膜で揚力を生み、長い距離を飛び続ける事に長けた蝶のようなそれであるならば、ギギの翼は薄く繊細なトンボのようなそれであった。
 急旋回/急停止/急加速──第三世代型ドラゴン義体の面目躍如。抜群の運動性能によってロゾロの認識を撹拌する。

『小癪ナ、羽虫ガ!』

 それこそが、ドラゴン義体の有用性そのものだった。戦術ヘリや戦闘機を上回る高速の世界で『機械を操作する』という認識上の手続きから解放された、自身の認識上の肉体による精密飛行。
 仮想重力場の生成と義体そのものの性質上の必然によって、ドラゴンは操縦者の重力負荷からさえも解き放たれている。
 真に空の王となるべくして生み出されたもの──知恵の果実の産み落とした先史科学の宿業が火花を散らし、空中を交錯する。

(老いて死にかけたドラゴンの割に、素早い)

 超高速の世界で、もはや言葉は意味をなさない。ギギの思考は、飛行するドラゴンの速度で回転する。

(何か仕掛けがあるな)

 二柱のドラゴンが空中で接近し、火花を散らして交錯する。
 ドラゴンの義体は、飛行制御の為の仮想重力場を纏っている。二柱のドラゴンは互いに、そ発展的応用によって瞬間的に体表に斥力を発生させることで不壊の竜鱗をその身に再現する術を持っていた。
 機銃やミサイルの類はほとんど効果をなさない。故に、二柱のドラゴンの戦闘は、超接近距離で互いの擬似重力場を中和したうえで爪と牙でその身を削りあう獣の如きそれとならざるを得ない。

(……チッ)

 舌打ち=極めて人間的な不快感の発露。
 『黒い天蓋』──ロゾロ・ラジーンのその名の通り、ロゾロの巨躯が制空権を奪う。
 義体の性能差を補って余りある、類稀なるロゾロの戦闘経験。戦地で自らの有用性を証明し続ける事で、自分自身を定義してきた異形者のならわし──戦闘こそが、彼が彼であるための手段だった。

『塵ニナッテ、死ネ、紛イ物』

 ロゾロが口を開く。あまねく地獄を現出せしめる破滅の機構が顕になる。
 たった一呼吸の内だ。眼下に見下ろしたギギと、その背後にある地上の光景。全てが、ロゾロ・ラジーンの吐き出す息吹の圏内にある。
 誰にもそれを阻めない。生き物が呼吸する事を、止める手立ては無い。

 ギギは第三世代型ドラゴン義体の冗談じみた飛行制御能力を最大活用し、空中でその身を翻した。ブレスを回避する。その威力圏内から逃れる──ああ、だが。しかし。
 
『ク、ソ……!』

 ギギは最大速度でロゾロに向けて突進し、その顔面に爪を振り下ろした。ロゾロの首が高速飛行するギギを追う──照準を補正する。
 ──破滅が訪れる。

『仕留メ、損ネタカ……』

 ロゾロは呪詛に歪んだ声で呟く。
 ギギを追って放たれたブレスは、地表を破壊せず、廃墟となったビル群の一部を消し飛ばすのみにとどまった。
 ロゾロ・ラジーンの吐き出す息吹──指向性超振動波。
 大気を震わせ、それを以て万物を微塵に帰す破滅の吐息。単純な炎では、ドラゴンの認知にある自らの破滅的威力の全てを再現する事はできない。

(カブトの、悪い癖がうつった……!)

 ギギは胸中で相棒を呪った。
 
 ロゾロの超振動波ブレスによって、疑似重力発生装置の三割が破損している。ギギが負った負傷は小さくはない。
 だが、まだ飛べる。
 真なる竜の王たる者──その証は、未だ失われてはいない。

『鬱陶シイ、羽虫ガ。大人シク地ニ墜チテ、死ネ』

 敵を倒す。竜の息吹を地上に向けさせず回避を続け、ドラゴンの義体を破壊する。
 ギギは自らの勝利条件を再度確認し、合成音声に深い疲労と苛立ちを滲ませるように低く唸った。

『私の知った事デハ無い』



 福祉局の業務が転生者の介護と人命保護のための事件介入であるならば、彼らの生活するダンジョンを踏破することもまた、避けようのない俺たちの仕事だった。 
 ‘‘棺屋‘‘のセーフハウスには、当然のように生きた人間は存在しなかった。ただ大量の死体を──ザキの恋人を──眠らせておくだけの設備だけがあり、それさえもぬけの殻だった。
 沈む船からは鼠さえ逃げ出す。死者のための方舟であったはずの場所には、もはやただ虚無だけが息を潜めていた。

 棺屋のバックに居た存在、ロゾロに義体を与え、彼に人魚の肉を提供し、俺とギギを襲撃した存在──
 この事件を解決するということは、その存在を突き止めるということだ。そしてそれは、犯人を捕まえて警察に突き出す事を意味しない。
 今回糸を引いていたのが俺の思う通りの相手ならば、企業複合体は事件そのものをもみ消して犯人の身柄を確保したがる筈だ。だから真島は……『エデン』という組織は俺たちを動かし、事件を"解決"させようとした。

「まったく、面倒なことになった」

 虚無に満ちた空間に、虚しい独り言が反響した。
 目当てのものを見つけるのは、そう難しくなかった。あらゆる清潔も不浄も病的なまでに漂白された虚無の匂いの最も色濃いその場所に、俺の探していたものが……見つけ出すべき人間が居た。
 そいつは無数の配線や巨大な機械にまるで虜囚のように絡め取られて、ベッドの上で眠っていた。
 ひどく痩せ細った男だった。不滅の命など持ち得ない事が、一瞥しただけで十分わかるほどに。

「今回は本当にうんざりしたよ……あんたもそう思うだろう、ロゾロ・ラジーン?」

 今まさに死にゆく男を、俺は彼自身がそうと信じる、彼自身の名前で呼んだ。
 ドラゴンのような完全に人間の形態から逸脱した転生者の完全義体は、遠隔操作によって動作している。本当の意味で人間がドラゴンになるための方法は、『エデン』にすら未だ存在しない深遠の謎だ。
 ロゾロ・ラジーンは……或いは、ミハエル=岩動=オーランドという死にゆく男は……俺の言葉になんの反応も示さなかった。
 その目はどこにも焦点を結ばずに、虚空を見つめているように見える。彼の後頭部からは一際太いコードが大きな機械に繋がれている。彼は今、『ピグマリオン』と呼ばれるその装置で、ドラゴンの視界を追体験している。
 俺の知っているそれよりも、幾らか旧式の機材だった。

「話しかけたって無駄だって。そいつ、頭おかしいからさ」

 嘲るような女の声がした。
 漂白された虚無の空間に一滴の血が溢されるような匂いがした。

「そんなことない。俺の真摯な心が通じて、にっこり笑って返事をしてくれるかもしれないだろ」
「ハハハ!」

 笑っている、というにはあまりに不吉な気配を纏った女だった。
 顔の至るところに刺されたピアス。黄色い雨合羽、目に痛いほど強烈な桃色の髪──毒を持った生き物に特有の、警告色じみた色彩。
 不吉な笑みの正体は、片方の唇の端から耳まで裂けるような大きな傷痕だった。

「面白いね、アンタ。そういうの好きだよ」

 知った事か、と思った。俺はとっとと用を済ませる事にした。

「悪いけど、そいつ連れて帰るから」
「なんで?」

 首を傾げて、女が俺を見返した。光を返さない、石のように黒い目だった。

「そういう仕事でね。そいつにだって帰りを待つ人が一人くらいいるかもしれないだろ」
「ギャハハハ!」

 また、女が笑った。どこまでも不吉で、悪徳を煮詰めた鍋の底を掬い上げたように下卑た笑い。

「ンなわけねーじゃん! こんな頭おかしくなる病気にかかって、おまけに別の病気で死にかけてるじいさんが一人死んだって、鳴くのはカラスぐらいのもんだろーよ!」

 こいつにとっては、自らを異形の存在であると認知する転生病は「頭のおかしくなる病気」ということになるらしい。
 この女は俺が気に入ったらしいが、俺の方はこいつの冗談をまったく好きになれなかった。

「かもな。でもそれがお前に関係あるか? 『勇者同盟ブレイブ・リーグ』の勇者様?」
「へえ〜、もうバレてんだ? ウケる」

 女は驚いたように目を見開いた。大袈裟で道化じみた所作だったが、どこか作り物のように空々しくもあった。

「なんでわかったの?」
「転生者を金で雇って人魚の死体を集めさせて、ドラゴンの完全義体を手配して、棺屋を動かすだけの金とルートと動機がある奴なんて、そう多くない。ロゾロを使って企業複合体相手のテロをやろうとしてたんだろ?」
「さぁ〜ね。アタシらそういう難しい話はよく知らないし。ねえサソリお姉ちゃん?」

 女は、部屋の隅で蹲っていたもう一人の女に声をかけた。揃いの黄色い雨合羽に、座っていてもわかるほどの長身。色素の欠落した白い髪。暗く虚無の底を睨むような赤い目。
 蠍と呼ばれた女は、自らを呼ぶ声にやや不自然な間を置いてから顔を上げた。

「……う?」
「ねえ蠍お姉ちゃん! バレちゃったよ正体! どーする!?」
「うう」

 蠍はゆっくりと立ち上がり、桃色髪の女の隣に立った。

「バレた……ら、ころせって、お姉ちゃん言ってた……よ?」
「だよね〜やっぱ。お姉ちゃん超怖いし」
「や……やる? 蜜蜂ミツバチ

 桃色髪の女……蜜蜂は耳まで裂けた口で獣のように獰悪な笑みを浮かべた。

「まあ待ってよ。この人とはまだ話す事があるからさ」

 そう言いながら、次の瞬間には表情ひとつ変えずに人間の喉笛を噛みちぎれるような研ぎ澄まされた殺意を、二人ともが等しく身に纏っていた。
 あまりにも滑らかに、暴力と日常が接続された者の有様──暴力を自らの有用性にすることを選んだ生き方。つまり、俺と同類。

 『勇者同盟ブレイブ・リーグ』は反転性者思想を持つテロ組織であり、それは同時に企業複合体に対する明確な敵対を意味する。
 彼らは人類の異形化……すなわち企業複合体が行う拡張義体を用いた転生病治療……の根絶を標榜している。彼らの目的は、企業複合体を壊滅させれば概ね解決する。
 そして今回は、そのためにロゾロのような転生者を利用した。恐らくは、最初から使い捨てにするつもりで。
 ここにいる彼女達は、ロゾロが制御不能になった時のための安全装置なのだろう。

「一応自己紹介しとこっか。アタシは錆釘サビクギ蜜蜂ミツバチ。で、こっちがお姉ちゃんのサソリちゃん。もう一人お姉ちゃんが居て仲良し三姉妹だけど、今日は二人だけ。よろしくね事件屋さん」

 蜜蜂が喜劇じみて一礼すると、ならうように蠍も頭を下げた。獣のように張り詰めた殺気を纏う妹と違って、姉は外部からの刺激にひどく疎いようだった。
 目深に被った黄色い雨合羽の奥の赤い目は血走っていて、ゾッとするほど暗い。蠍はただじっと俺を睨んでいる。

「噂に聞く『勇者同盟ブレイブ・リーグ』の戦士職ウォリアー・クラスってのがどんなもんかと思えば、ただのドチンピラじゃねえか。下っ端風情が、俺と何を話したいって?」

 『勇者同盟』は組織に属する者達を互いに勇者と呼びならわし、その役割に応じた職業クラスが割り当てられる。
 市井に紛れて情報戦を行う斥候スカウトや後方支援の魔術師メイガスは殆ど目に触れることも無くその実態も謎に包まれているが、実行部隊である戦士ウォリアーは、時たまこうして表に姿を表す事がある。彼ら自身も自軍の戦士ウォリアーの勇猛さを喧伝しているフシがあるため、戦士と呼ばれる存在については幾らかの情報が出回っている。
 俺も話くらいは聞いた事がある。都市一番の人でなし共の命を狙う、いかれた人でなし共だと。

「そういうアンタも結構立派な使いっ走りらしいじゃん? "絶滅者スローター"って言うんでしょ?」
「そう呼ぶ奴も居るな」

 俺はうんざりして答えた。当然だが、俺の情報も既に漏れてるらしい。

「元は人狼氏族の鉄砲玉で、今は企業複合体の犬か。アンタ、今の待遇に満足なの?」
「何が言いたい?」
「アンタ程の英雄が、こんな所で使い潰されるのに納得がいくのかってハナシ」

 こいつらの基準では、俺は"英雄"とかいうやつになるらしい。信じられない冗談だ。

「アンタはこっち側でしょ? ねえ、"絶滅者スローター"。なんせアンタは、この都市から一つの転生者の種族そのものを絶滅させたんだから!」

 色々言いたい事はあるが、おおむね間違ってはいない。
 ある時、『エデン』は人為的に複数の特徴を兼ね備えた転生者を作り出そうとした。目論見は半分成功して、半分失敗した。
 奴らが作り出した転生者達は施設を抜け出して独立し、一個の氏族を形成した。複数の転生的特徴を兼ね備えた転生者の種族──『キメラ』と仮称されるそれらは、『エデン』を出た後で自らの認知的不協和を埋めるための拡張義体を求めて、片っ端から転生者を殺して拡張義体を奪い、自らに移植し始めた。
 そして、何もかもが手遅れになってから俺が呼ばれて、俺はただ、やるべきことをやった。
 そうして俺は"絶滅者スローター"とあだ名されるだけの業を背負った。腹立たしいが、訂正する気もなかった。何もかもただの事実で、それはもう誰にも変えられないからだ。神様にも、自分たちを神様だと勘違いした企業複合体アカシアにも。

「確かに、エデンも企業複合体アカシアも、お前らに潰された方が世の中多少はマシになるのかもな」
「でしょ? 何もかもどいつもこいつも、この街にあるものは全部腐ってて最悪なんだよ──共に世界を救おうじゃないか、勇者カブト?」

 最後の言葉は、この女の口調とは違う、別の誰かの口ぶりだった。
 きっと彼女にその言葉を告げた誰かの発した言葉なのだろう。
 顔の見えないどこかの誰か、自分自身でさえも望まぬままに人間ではない何かになって社会から弾かれてしまった者達を怪物と呼び、それを忌避し排斥する自分自身を『勇者』と呼んだ、誰かの言葉。きっとその言葉はこうして人から人へと伝わって際限なく拡散し続けるのだろう。

「お断りだな。俺はつまんない奴と組みたくないし」
「アタシがつまんないって?」
「ああ、お前の冗談は最悪だ」

 俺の癖──他人を怒らせる事。
 自覚的になろうとしても、治すのは難しい。

「お前の姉ちゃんも相当具合が悪そうに見えるが、救ってやらなくていいのか? 勇者殿」

 蜜蜂の表情が曇った。槍玉に上げられた当の蠍は何を話しているのかわからない様子で、ただポカンとしている。

「……蠍お姉ちゃんは病気なんだ。アタシにはどうにも出来ない」
「病気か。介護士の俺に言わせれば、そいつはお前の言う『頭のおかしくなる』やつとは別だな。治せる病気だろ」
「…………う?」

 蠍は首を傾げている。血走った目──典型的な中毒者ジャンキーの面相。

「簡単だろ。クスリをやめさせてお姉ちゃんを救ってやれよ。姉妹の絆って奴で、ちゃんと病院に連れてけ。医療機関で然るべき処置を受けさせろ」
「黙れ」

 蜜蜂の表情から、一切の感情が欠落した。
 耳まで裂けた傷痕だけが、獣のような笑みを象っていた。

「血は水よりも濃い。私たちの絆は誰にも断ち切れない」

 また、彼女のものではない言葉。誰かに与えられた信仰──澱みない口ぶりは、彼女がその言葉を何度も繰り返すように口にする姿を想像させた。そうして反復することによって、言葉に込められた意味が強まるかのように。それは恐らくは彼女達の間にだけ成立する、ひどく歪な呪文モージョーだった。

「錆釘捩じ込んで殺してやるよ、犬コロ」

 言い終わるのと同時に、蜜蜂の背後に幽鬼のように佇んでいた蠍が一切の迷いのない速度で駆け出した。
 真っ直ぐに突き出されたその拳を、俺は正面から受け止めた。

「おっ、おおっ、おおおおおっ」

 蠍は咆哮を上げながら、蜜蜂の発した殺意に即応した。
 何者よりも濃い絆で繋がれた、毒を持つ生き物のならわし──血走った狂気の目が俺を見た。
 蠍の上背は、俺よりも頭ひとつほど高い。その拳を両手で受け止めると、蠍が上から俺を押さえつけるような形になる。

「おっ?」

 異常事態──蠍の膂力は、明らかに人間のそれではない。
 上から力を加える蠍の拳を押し返す。フルスロットルで起動する『ウルヴヘジン』が悲鳴を上げる。

「マジか」

 俺の見立てでは、この女は転生者の類ではない。にも関わらず、俺のように特別な外付けのデバイスを用いずにこれだけの力を発揮している。
 恐らくはオークやオーガが使うような人工筋肉がそのまま生身に移植されている。
 通常ああした大規模な生体移植は人体に大きな負担を強いる。普通の人間はそもそも生体移植で異形化した身体を上手く扱えないし、拒絶反応でまともでいられなくなるか、悪くすれば死ぬ。そのはずだ。だからエデンでさえも転生者用の拡張生体義肢を『人間』に移植したりはしない。

「妹っ、を……いじめるなっ!」

 ──だから、この女はまともではないのか。
 不意に訪れる納得──既にどうしようもなく、彼女は人間ではなかった。自ら人間であることを捨てて、異形となることを選んだ者。不可抗力の結果としてそうなったものではなく、自らの意志によってそう成り果てた人造の……或いは、真の意味での……怪物フリークスと呼ぶべき存在。
 中毒症状は、拒絶反応を抑えるための薬物を常用しているからか。
 転生による人間の異形化を排斥する組織にあって、自ら人間ではなくなることを選択した者。
 毒をもって毒を制す──まさに、彼女たち姉妹の、その名の通りに。
 だが、俺もここで大人しくやられるわけにはいかない。
 そうできたならどんなに楽だろうと思うこともあるが──それ以上に、こんな奴らにナメられたまま死ぬのはごめんだ。

「────ふっ」

 俺は組み合った蠍の左腕を抱えるように取って、小手投げの要領で投げを打つ。
 倒せればそのまま寝技で制圧する。踏ん張るなら、そのまま肩を極める。
 彼女達を生かしたまま捕える事が、今回の事件の解決方法だ。致命的な外傷を与えず、無力化する必要がある。

「ぐっ、うう」

 投げを打つ腕から伝わる抵抗──まるで深く根を張った大木を引っこ抜こうとしているような錯覚。
 俺の投げを、蠍は踏ん張って堪えた。冗談みたいな膂力がそれを可能にしていた。関節も極まりきっていない。それどころか、俺は自分の足がゆっくりと地面から離れるのを感じた。
 冗談だろう、と思った。

「う、ああっ!」

 獣じみた吠え声を上げて、投げを打った俺を逆に腕一本で投げ飛ばす。
 そこらのオーク程度の人工筋肉では無理な話だ。相当異常な改造が施されている。
 そしてそれはそのまま、蠍の正気が危険なレベルで失われかけていることをも意味している。
 自動的な殺意に血走った目が、俺を見た。
 その目は、狼男に成り果てて母親を殺し、息子まで手にかけようとした俺の父親と、どこか似ていた。

「ううあっ!」

 錆釘を握り込んだ拳を、まるで投擲のようなフォームで全身を使って叩き込む。
 格闘技の技術では説明のつかない一撃──分類不能の拳。『横から殴る』という、ただそれだけの攻撃。
 顔面を狙うそれを、俺はスウェーバックで回避する。爆風じみた拳の風圧が顔を打つ。

「おおあっ」

 連撃──体ごと振り抜いた先で、既に体幹の捩れを利用して次の攻撃の予備動作が完了している。
 カウンターなどというものは、ハナから意識の端にも無い。一撃必殺を放ち続ける間断なき連撃。攻撃と溜めが一体化した攻撃──怪物のリズム。
 人間を相手にしたそれではなく、もっと巨きな何かと戦う為に形作られたかのような動作。
 なんの飾りもない、ただの暴力。
 だが、どこまでも実戦の中で磨かれた、黒光りするような純粋な暴力だ。
 
「ちっ──」

 幾ら馬鹿げた大振りの一撃でも、これにカウンターを合わせようとするのは回転する殺人ミキサーに手を突っ込むようなものだ。
 たまらず距離を取ろうとした俺の耳元を、何かが鋭いものが高速で通過した。

「アンタの相手はお姉ちゃんでしょ。逃げんなよ」

 射出された物体の出所は、蜜蜂の手にした銃……否、工具めいた機械。ネイルガンか。
 ならば、弾丸以上の速度で放たれたそれもまた、弾丸ではなく釘なのだろう。
 後退する足が止まる。
 蠍の凶拳が風を巻いて迫る。

「おおああああっ!」

 俺は振り抜かれる拳を掻い潜って、すれ違うように蠍の後方へと逃れる。
 蠍が振り返る。
 狂気の目──瞬間、皮膚が粟立つような戦慄。

「やっちゃえ、お姉ちゃん」

 蜜蜂が呟く。その顔には、獰悪な獣の笑みが張り付いている。
 ぶるり、と雨合羽の下の蠍の体躯が震えた。
 青白い燐光がその下から透ける。
 その目が狂気に見開かれる。

「あ、ああ、あ」

 苦痛と恍惚の狭間にあるような蠍の声。
 ある種の鬼は、自らが神にも等しい権能によって天候を操るという自己認識を発現する。
 『エデン』はそんな彼らの為に忠実にその権能を授けた。
 青白い燐光──体内で蓄えられた雷が、肉眼で視認できるほどに輝く。
 腕を突き出す。
 その先にあるのは俺と──その背後にある、蜜蜂の放った釘。
 俺は回避しようとした。そうしようと考えた。 だが、全てが遅かった。
 ──雷鳴。

「──────ッ!」
 
 全身を突き刺すような激痛。
 すぐに爪先まで身体が痺れて、視界は真っ白に塗り潰された。
 『ウルヴヘジン』を着ていなければ即死だっただろう。
 やってられるか、と思った。

「なんだ、思ったよりもあっけないじゃん、"絶滅者スローター"。もっと踊ってくれるかと思ったのに」

 蜜蜂の挑発を受けても、俺はとても起き上がる気にはなれなかった。
 海馬が痒い。俺の脳に埋め込まれた|拡張<サイバネ>は収まりが悪くてひどく疼く。施術した闇医者がヤブだったせいだ。
 薄れゆく意識の中で、ただ頭蓋の内で疼く異物感だけが不快だった。

「面倒なことになった……」

 全身痺れてちっとも動かなかったし、電撃で幾らかの機能がやられたせいで『ウルヴヘジン』の反応も悪くて身体がひどく重い。
 正直このままずっと眠っていたかったが、そうもいかない。
 ギギがまだ戦っているからだ。
 ギギが仕事をしているのに俺が眠っていたら、どんな腹立たしい罵倒を受けるかわかったものじゃない。

「おっ、立つんだ。おとなしく寝てればこのまま楽にしてあげたのに」
「うるせぇぞ、バカが」

 何か気の利いた文句をつけてやる気にもなれないほど俺は疲れていたし、苛立っていた。
 足元には自分の血で出来た血溜まりがあったが、全身くまなく痛むせいでどこから出血しているのか考えるのも面倒だった。

「ぶっ殺してやる」

 自分でも馬鹿馬鹿しくなるほど陳腐な言葉が出た。こういう直接的な暴力性は、今の仕事をしている限りには抑えなくてはならないし、事実これまではそこそこ上手く行っていた。
 だが、こういう極限の状況で顔を出すのは、どうしようもなく俺の本質の部分だった。
 最悪な気分になる。俺の本質は、暴力を生業にする以外に生きる術を知らなかった無知と、短絡的な暴力衝動だった。
 だが、だからこそ出来ることもある。しなくてはならない事も。

「やってみろよ、犬っころォ!」

 再び、蜜蜂がネイルガンの引き金をひいた。
 射出される釘は、弾丸以上の速度と貫通力を持った凶器であり、同時に蠍の放電に指向性を与えるための誘雷針でもある。
 俺は釘を回避し、更に着弾地点と蠍の間に立たないように足を使うことを強制される。
 釘の射線と蠍の立ち位置は合図の一つもないのに計算し尽くされていて、獲物を想定された袋小路に追い詰めていく。
 獲物を水面にまで追い詰めて捕食する、シャチの狩りにも似た連携。
 彼女達がいかにして変性した人間を狩り立ててきたのかを雄弁に物語る、ある種の機能美を備えた暴力の形。
 
「くそ面倒くせえ」

 『エデン』はこの件の実行犯を可能な限り無傷で捕らえることを期待している。腹立たしい事に、奴らはこの件の大元の存在にあらかじめ当たりがついていたのだろう。
 彼女達の母体となる組織との交渉で優位に立つ為には、実行犯は無傷の方が都合が良い。奴らがそうしろと言うならその通りにするのが、俺の仕事だ。
 だが、本当のことは、その瞬間が訪れるまでは誰にもわからない。それが可能な事なのかどうかは、最後の瞬間まで誰にもわからないのだ。
 俺は俺に課せられた勝利条件を変更した。
 無傷での確保は断念し……動けなくしてから身柄を拘束する。

「こいつッ!?」

 俺は『ウルヴヘジン』の両腕で顔面を庇いながら、蜜蜂の方に向かって突っ込んだ。
 腕に釘が刺さるが、無視だ。蜜蜂の釘はどうやら俺のスーツと同じ特別製だ。『ウルヴヘジン』の誇る防御性能はその絶対性を失う。だが、俺は腕に釘を刺されながらも、走る速度を緩めなかった。クソ、めちゃくちゃ痛い!

「お姉ちゃん!」
「があっ」

 距離を詰める俺と蜜蜂の間に、蠍が割り込んだ。
 庇うように妹を背にした蠍自身の背中で、蜜蜂の釘の射線が切れる。
 俺は腕に刺さった釘を抜いて蠍と対峙する。背後には蜜蜂の釘は刺さっていない。厄介な電撃は封じた。

「あああっ!」

 蠍が立ちはだかる。
 全身を擲つような蠍の一撃。
 あれを素面で対処するのは骨が折れる。
 勝利条件の変更──俺自身への負担の許容。
 もの凄く疲れるから使いたくなかったが、仕方がない。死ぬよりはマシだ。
 海馬が痒い。俺の脳内に埋め込まれた、拡張器官サイバネティクスが。

「焦んなよ」

 俺は口内に仕込んでおいた薬を──真っ赤な錠剤を奥歯で噛みしだいた。
 それ自体は、アカシアが転生者の治療用に開発した合法的な薬品でしかない。
 自分が人間ではなくなってしまうことに、そうなってしまったからには、もはや人間としてかつて自分がいた共同体には所属できないという事実──自我を変質させてしまった人々の心を蝕む、生きる限りには消えることなく、カビのように旺盛に繁殖する不安や悲しみといった、抑鬱的な感情。
 俺が飲んだのは、服用することによって脳内物質の分泌を促すための薬だ。
 一定量のアドレナリンの分泌が、トリガーになる。
 俺の脳に埋め込まれた拡張が──人ならざる者になる事を自ら選んだ俺の怪物フリークスとしての本性が顕になる。

「今相手してやるよ、お姉ちゃん」

 それは、『月覚器ルナ・オーガン』と呼ばれる拡張器官である。
 狼男は、月を見て自らの本来の姿に回帰する。
 月を見て分泌されたアドレナリンに反応して、まさに野を駆ける獣のようにハイになるための拡張器官サイバネティクス
 外見や人体の機能には変化を齎すものではないその感覚器官の増設は、ある種の人狼達の氏族にとっては同胞の証だった。
 この街で寄る辺など一つもない、ただの人間でしかない俺を最初に助けてくれたのは、そういうヤクザな連中だった。
 俺は彼らの仲間になる為に自分自身を怪物に近づけることを選んだ。
 人狼殺し──俺の最初の経歴。
 人狼達の氏族は、俺に裏切り者の粛清を押し付けた。俺の罪の経歴が俺の生き方を決定した。
 俺は氏族を裏切った人狼を殺し、氏族の掲げる種族主義的価値観に従わない人狼の罹患者を殺した。そして最終的に、自分の所属した人狼の氏族を丸ごと殺して無かったことにした。
 『エデン』の厄介になったのはその後だ。俺の仕事は同胞殺しから転生者殺しに変わり……遂には一つの転生者の種族そのものをこの世から消し去った。
 人狼殺しから絶滅者スローターへ。
 流された血が罪深い経歴を洗い流し、俺をどんどん救い難いものに変えていった。

「ああああっ!」

 全身を擲つような蠍の一撃。
 恐怖も怒りも忘れ去ってしまったかのような、怪物の暴力。
 不意の共感──割れた鏡を覗き見るような錯覚。
 俺と彼女の何が違う?
 自分の身体を自ら異形に近づけてまで、暴力を生業にすることを選んだ者。俺も彼女も、人間の社会にも、人間ではなくなってしまった者達の社会にも暴力と死を介してしか接続することのできない怪物だった。
 彼女がそうであるように、本来人間が用いるべきではない人体の拡張を施した俺自身の末路もまた、彼女と同じく正気を失っての狂死でしかないのだろう。
それが早いか、遅いか。今なのか、そうではないのか。それだけのことだ。彼女と俺はまさにこの世界に歓迎されざる黒い兄弟だった。
 うんざりするような自己嫌悪と自己憐憫。励起された『月覚器』の動作で過剰に分泌した脳内物質が、その一瞬を何万倍にも引き延ばした。
 今の俺には、蠍の拳もまるでスローモーションに見える。
 最低限の動作で回避。拳を掠らせた前髪の焦げる臭い。不快感。

「うううっ!」

 竜巻のように繰り出される左右の連撃コンビネーション。今の俺なら、全てを見た上で冷静に対処できる。殺人ミキサーも、刃が止まっていれば凶器の用をなさない。
 右──ダッキングで回避/懐に飛び込む。
 左──無防備な脇腹へ右/カウンター。
 右──体制を崩しながらの一撃に合わせて、再び肝臓レバーを抉るカウンター。

「ぐ、おおあっ!」

 左──打ち下ろし気味の一打に合わせてアッパーカット。ダメ押しのカウンターが顎にヒット。
 糸の切れた人形のように膝から崩れ落ちる蠍。

「お姉ちゃん!」

 高速の攻防の中で立ち位置を変えた蜜蜂が俺に銃口を向ける。
 俺は蠍の襟首を掴んで蠍を盾にするように掲げる。
 瞬間。死に体になっていた蠍が血走った目に明確な怒りを湛えて覚醒。掴みかかる。
 驚異的な強靭タフネス──雨合羽の下で、青白い燐光。

「つか、まえたっ、ぞ……!」

 発電。
 大鬼オーガの肉体に備わるべくして作られた、類稀なる殺戮の機能──蠍の右腕が青白い燐光を帯びる。
 蠍はそれを用いるにあたって、蜜蜂の操る釘の仕掛けを補助にしていた。
 本来の精神の変質を患ったオーガならば、自らの肉体の"機能"を用いるにあたって補助は必要としない。或いは、そういった補助具の扱いすら肉体の延長として操る事ができる。
 だが、蠍は違う。
 彼女の肉体は異形だが、その認識は人間のそれだ。
 だから、付け入る隙がある。
 蠍に掴まれた腕から、電撃が流れ込む。
 激痛。

「くそったれめ」

 目の前が眩んで、身体の内側から細胞の一つ一つが細い針で突き刺されるような痛み。
 1秒ごとにどうしようもなく肉体が破壊されていくのがわかる。
 だが、耐えられる。『月覚器ルナ・オーガン』は一定量の脳内物質の分泌に反応して、さらにそれを促して使用者を狂戦士バーサーカーに変える拡張器官サイバネティクスだ。
 痛みも恐怖も、自分自身から切り離して対象化する事ができる。
 俺は、そうやって人を殺してきたのだ。
 俺は蠍の首に手をかけた。

「お前も食らえ」

 発電する際に発光しているのは、蠍の右腕だけだった。
 大鬼の生体拡張義肢を移植しているのは右腕、或いはその周辺のみだと推測できる。
 ならば、電撃を防ぐ絶縁体も、右腕周辺のみだと考えられる。
 俺の身体を通して、蠍自身に自らの電撃を返す。
 本来のオーガが相手ならば、こんな雑な攻略法は通じない。
 蠍が後天的にその機能を獲得した怪物のような人間に過ぎないからこそ通じる手段。
 転生者や、それに類する機能を肉体に備えた者を殺すというのは、こういうことだ。相手の人間の部分につけ込んで、殺す。

「あがっ、ぐ……っ」
「蠍お姉ちゃん! クソ……っ!」

 密着距離では誤射の危険性を考えて、蜜蜂は引き金を引けない。
 皮肉にも、この苦境が彼女達の姉妹の絆が本物である事を示していた。

「いい妹だな、おい」

 笑う。蠍は答えない。ただ、血走った目が睨み返して、渇いた殺意だけがそこに存在した。
 蠍は放電をやめない。蠍の改造された肉体と、俺の『ウルヴヘジン』の耐久力。どちらが強いか。我慢くらべだ。

 最悪な気分だった。
 意識が遠のいて、頭の中をどうだっていいことがぐるぐる回っていた。
 父親を殺した時のことを思い出した。あの時の、母親の血に塗れた父親の顔。母親の顔はもう少しも思い出せないのに、その時の父親の顔だけはいつまでも、どうやっても忘れられなかった。俺が初めて殺した人間の顔。
 それから、何人も、何人も殺した。一人一人の顔を覚えていた。"絶滅者"と嘲られるほど人を殺しても、忘れられなかった。今まさにこうして死にかけると、彼らの末期の表情が次々に蘇った。
 いつ終わってもいいと思っていた。いつか報いを受けるのだろうと。
 それが今だったとして、だからどうだって言うんだ?
 意識が遠のく。様々な顔が脳裏を過ぎる。無数にフラッシュバックする死に顔の中に、要が居た。
 どことも知れない虚空を見つめる、まどろむような目。いつか彼女の意識がこの世界に正しく接続される日は来るだろうか。その時が来たら、要はどんな顔で笑うのだろう──泡のように浮かぶ、解けないリドル。
 死んでしまう事は怖くなかった。ただ、解けないリドルが残る事だけが。それだけが──

「ぐっ、がっ──」

 不意に、身体が激痛から解放される。
 蠍は俺の足下に倒れていて、俺はまだ立っている。
 それだけのことだ。

「お姉ちゃんはもう動けないってよ。どうするね?」
「"絶滅者スローター"……!」

 蜜蜂は忌まわしげに呻いた。
 そうだ。俺の名前は、そうやって憎悪と軽蔑を込めて呼ばれるべき名前だ。
 くだらない冗談で呼ばれるのは、気に食わない。

「さあ、面倒だが手早く片付けるか」

 出来れば、ギギがカタを付ける前に。
 相棒にでかい顔をするのは、いつだって気分が良い。



 エンブリオ市第七地区。
 ECPD警部補、ロナルド・ワンは付近の住民の避難を誘導していた。

 「住民の避難を急がせろ!」

 先日、同地区内でバックス福祉局の保有する獣型二類完全義体『ギギイロイ・ウルムガバト』と、未登録の獣型二類完全義体の交戦が確認されてから、ECPDは現場付近の警戒を行っていた。
 未登録の獣型二類完全義体──すなわち、ドラゴン──の捜索を行っていた所で、拡張義体による突然のテロ行為が始まった。
 ロナルド・ワン警部補は、ドラゴンが出現してからすぐ、現場の警備からそのまま避難誘導に移った。

「なんだってんだ、こいつは……!」

 『黒い天蓋』──正にその名の通りに、ロゾロ・ラジーンは地上に大きな影を残す。
 翼を広げた竜の威容──絶望的なシルエット。
 それが、二つ。
 相対するのは事件屋。ギギイロイ・ウルムガバト。
 ワン自身、面識のある転生者である。

「くそったれめ……!」

 見上げる。
 翼の影が激突し、交錯する。
 一方が口を開くのがわかった。類稀なる殺戮の機構が露わになり──

「退避──」

 指示が間に合う筈もない。
 ドラゴンの義体に備わった破壊機構は、呼吸ブレスによってそれを為す。
 彼らにとって、地上を更地に変える大規模破壊は、文字通り息をするのと同じことでしかない。

 ──息を吸う。止めることは誰にも出来ない。
 ──息を吐く。避けることは誰にも出来ない。

 破滅。

「────ッ!」

 そのドラゴンのブレスは、超絶の破壊を齎す超振動兵器であった。
 地表に放たれれば有象無象の区別なくあらゆるものを微塵に帰す広域破壊兵器。
 それが、放たれる刹那。

『真なる竜の王たるこの私ヲ相手にして、無関係な者を襲うか。随分な余裕ト見える。或いは、単に耄碌しただけカ』

 ギギイロイ・ウルムガバト。
 通称、ギギ。
 ロナルド・ワン警部補はそのドラゴンを知っている。その凶暴にして傲慢な本性を知っている。
 それが、地表に向けてブレスを吐き出そうとする刹那、黒いドラゴンの眼前を飛翔し、照準を上空に逸らせたのだ。
 その破壊の余波に、周囲の建築物の窓や外壁の一部が砕ける。
 砕けた建物の残骸やガラス片が周囲に撒き散らされたが、少なくとも、誰も死んではいなかった。
 護ったからだ。あのドラゴンが。ギギイロイ・ウルムガバトが。

『黙レ。貴様ハ、我ガコノ爪デ、千々ニ引キ裂キ、殺ス』
『やってみせロ』

 二柱のドラゴンが空中で短く交わした会話は、地上にある者達には聞こえはしない。
 ロナルド・ワン警部補は空中で交錯する二つの異形の影を見上げた。
 巌のように揺らぐことのない、苦渋の仮面。
 この都市に息づく悪徳と向き合うためには、その仮面が必要だった。感情は仮面にヒビを生じ、この世の凄惨や悪徳はどんな時もそのヒビから入り込み、その奥にあるものを侵した。

「事件屋め、ふざけやがって……」

 影を見上げるロナルド・ワン警部補の表情が歪んだ。
 仮面のヒビから漏れ出す感情は、もはや彼自身にさえ形容することのできないほど自らの心と切り離された何かだった。

「首を突っ込んだなら、終いまで何とかして見せやがれ」

 彼の言葉を聞く者は、今この場には誰も居ない。
 そこに込められた微かな感情の意味さえ、誰にも読み取ることはできない。
 ここにはただ二柱の破壊の申し子が激突し、そのどちらが強大であるかを証明するという極大の闘争だけが存在し、ただそれ以外は取るに足らない微塵に過ぎなかった。

 ギギにはそれが解っている。
 超高速の世界にあって、ギギはもはや眼下にある人間たちのことなど正しく個人として認識しては居ない。その生死すらどうでも良いと考えている。
 ただ、相棒の口にした言葉を思い出して、忌まわしい感情を覚えるのみだった。
 
 ──要を守れ。

 なんの意味がある、と考える。
 答えは出ない。それは、『エデン』に居たあの頃に、天使が口にした謎かけリドルだった。

 ──彼女が君にとって、守るべき確かな存在となるように。

 天使は言った。
 要という名は、彼女がつけた。
 ギギには、その意味はわからない。天使が自分に何を望んでいるのかも。
 ギギは、要という人間のことが嫌いだった。憎悪してすらいた。
 この世のどこでもない場所を見て、自分一人ではどこにも行けない、哀れな女。哀れな人間。
 どこまでも醜く、脆弱で、矮小な、そんな人間。

 なんの意味がある、と思考する。
 答えは出ない。
 ただ、彼の──カブトの事を考える。
 自分が要を死なせたら、あの男はどんな顔をするのだろう。
 あの女の居なくなった世界で、あの男はどんな顔をして生きていくのだろう。
 解けない謎かけリドル
 ギギにとっては、ただそれだけが──

『王ヲ騙ル、羽虫ニシテハ、長ク楽シマセタモノダ。誇リナガラ、死ネ』

 ロゾロ・ラジーン──あまねく地上の存在に絶望の影を落とす、黒い天蓋。
 彼が旧式の義体で自らと渡り合う事実に、ギギは何か仕掛けがあると考えた。
 だが、ここまでの攻防で、それは攻略不能な外的要因であることがわかった。
 ロゾロ・ラジーンは、数多の戦場を飛び渡って来た。そうして、そのすべてをことごとく鏖殺し、灰塵に帰してきた。
 彼の強さを裏付けるのは、ただそれだけだ。殺し、壊してきた数が違う。それを目的として生きてきた時間が違う。
 埋めがたい戦闘経験値の差──彼我に横たわる絶望的な差異。
 だが、しかし。

『私の、知った事デハ無い』

 そんなものは、知らない。
 ギギの世界では、そんなものは意味をなさない。戦いをやめる理由にも、敗北する理由にもならない。
 相棒の理論を借りるならば、こうだ。
 ──あいつが戦っているのに、自分だけ負けるのは気に食わない。
 ──ナメられてたまるか。
 相棒カブトの悪い癖が感染うつった。
 完全義体に、人間に近しい表情を浮かべる機能はない。
 ギギは、ただ自らの世界の中で、不敵に笑った。

『クダラヌ強ガリヲ抜カスナ。貴様ノ矮小ナ体躯ハ、スデニ不出来ナ張子ニ等シイゾ』
『そウ、思うのならば』

 超高速の飛翔を続けながら、ギギは思考する。
 高速の世界を生きる、ドラゴンの速度の思考。
 次が最後の攻防になる。
 失敗すれば、敗ける。
 だが少なくとも、ギギに躊躇はなかった。
 ドラゴンは恐怖しないからだ。

『試しテみるがいい』

 加速するロゾロに対して、ギギは正面から向かっていく。
 激突の軌道。
 正面からの玉砕──否。
 ロゾロは目を細める。

(奴の戦闘経験が、いかに優れていようと)

 高速の世界で、ギギは思考する。
 激突の刹那、ギギは旋回するように、ほとんど垂直の軌道を描いて上昇する。
 第三世代ドラゴン義体の面目躍如──曲芸じみた空中制動。
 ロゾロはその軌道を目で追う。
 その先には、中天の太陽。

(自分より素早いものと空中戦をした経験は、無い)

 白い光に重なって、ロゾロからはギギの姿は目視できない。
 しかし。

『馬鹿、ガ』

 たとえ目視できなくとも、既にそこに居ることはわかっている。
 その距離は既にロゾロのブレスの届く死圏である。

 ──息を吸う。止めることは誰にも出来ない。
 ──息を吐く。避けることは誰にも出来ない。

 ロゾロが口を開く。その内奥に秘められた殺戮の機構が露わになる。

『一つ、教えてやル』

 光の中で、ギギが言った。
 その言葉を、ロゾロが耳にするより、早く。

『竜の息吹は、そう易々と見せルものではない』

 ギギは、既にロゾロのブレスを三度目視している。
 その機構を、発射までの予備動作を、既に記憶し、学習している。
 ロゾロのブレスの死圏にあることは、ギギにとっても同様にロゾロを必殺の間合いに捉えたということに他ならない。

 ギギが口を開く。
 その内奥に秘められた殺戮の機構が露わになる。
 真なる竜の王の肉体に備わるべき、破壊の権能が。

『ガ────』

 それは、一条の光の矢だった。
 それは、月崩壊を機に泥のように地上に満ちた新粒子アーカーシャを義体内で帯電させ、光速で射出する機構である。
 真なる竜の王の認知上に存在する破壊の権能はこの世に存在するあらゆる既存兵器をもってしても再現することはできなかった。
 アカシアに実った、最も強大で歪な、禁忌の果実。
 それは、口を開いたロゾロの義体を、その内部に秘められたあらゆる禁忌の機構を溶解せしめながら貫通した。
 黒い天蓋はもはや天を遮ることなく失墜した。
 呪詛の声も、断末魔の絶叫さえもなかった。
 それを上げるための機構さえもが、ギギの一呼吸の刹那に破壊し尽くされている。
 
 空には、ただ一翼の影だけが残った。

『フン』

 ロゾロの墜落した地点は、既に住民の避難が完了した一角であった。
 高速の戦闘の最中、ギギの目には住民の避難を行う者の姿が見えていた。
 ギギは戦闘を続けながらロゾロをその地点まで誘導し、その上で破壊した。
 被害を最小限に留めること──ひどく人間的な、唾棄すべき価値観。

『私の知ったことではなイぞ、カブト』

 だが、ギギはそうした。
 そんなものは無視して、ただ自らの衝動のままに破壊の権能を行使し、ドラゴンの本能のままに全てを滅ぼしつくすことで勝利することもできた。
 だが、そうはしなかった。
 それが、ギギがここにいる理由だった。

***
 

「終ったみたいだな」

 蠍と蜜蜂の姉妹をそれぞれ拘束し終えて、俺は言った。
 直に企業複合体の回収業者が来るだろう。そうして実行犯であるロゾロと、裏で糸を引いていた『勇者同盟ブレイブ・リーグ』の二人を引き渡せば、これで今回の俺の仕事はようやく終了ということになる。

「……嘘だろ、ロゾロが敗けたのかよ?」
「そうだ」

 俺たちはそのことを、この場で眠るロゾロ・ラジーンの本体=人間、ミハエル・岩動・オーランドのバイタルサインによって知った。

「俺の相棒がやったんだよ」

 俺は、この後ギギがどんな憎まれ口を叩くのかを想像して、少し憂鬱になった。
 よくも面倒を押し付けてくれたなだとか、お前が弱いせいで自分がしりぬぐいをする羽目になったのだだとか、きっとそういう類の事を言うのだろう。俺はため息をついた。
 この数日で、もううんざりするほどの面倒を味わった。しばらくは、静かな南の島でバカンスでもしたいものだ。

「……相棒だって?」

 そう言った蜜蜂の笑みはひきつっていた。

「ロゾロは怪物だ。あいつ一体で、この街をまるごと更地に変えることだってできたんだ。それを、倒したんだぞ」

 耳まで裂けた獣の笑みを歪めているのは、明らかな恐怖だった。
 何に怯えているのか。
 俺はこの時初めて、彼女の感情に共感を覚えた気がした。

「そんなことをやってのける怪物がいて、そいつは自分のことを人間だなんてこれっぽっちも思っていないんだ。あのドラゴンが癇癪を起こせば、こんな街何もかも一瞬で全部御破算になるんだぞ!」

 蜜蜂の言うことはもっともだった。
 大量破壊をなし得る兵器の引き金を、人間の社会に帰属意識を持たない存在が握って、その上で社会生活を送っている。
 爆弾と寝食を共にするようなものだ。ギギの義体の機能は『エデン』が制限を設けてはいるが、それも絶対ではない。そもそも、『エデン』やそれを擁する企業複合体自体がギギがその義体の性能を発揮する事を望んでいるフシがある。

「言えてるよ」

 蜜蜂の言葉には、本当の切迫感があった。
 あるいは彼女は、本当にそんな危機感のために反企業複合体組織に属しているのかもしれなかった。ある意味で、彼女は俺以上にこの世界の危機というものと真面目に向き合っているのかもしれない。

「けど、そうならなかったんだよ。少なくとも、今回は」

 ギギには、それができる。
 この街を更地にして、何もかもを破壊して、気に食わない奴を全部ぶち壊して終わりにできる。でも、そうはしなかった。
 俺には、その理由がわかる。

「あいつはこの街で生きてて、仕事してて、友達が居るんだ。だから、何もかもをめちゃくちゃになんかしないんだよ」
「そんな……そんなのは気まぐれだ! 化け物の気分次第だろうが!」

 そうだ。
 だから、俺なのだ。
 俺の仕事は介護士だ。事務所で活動する転生者が義体を使って生活し、仕事をこなすのをバックアップする。
 『事件屋』なんて呼び方をする奴も居る。企業複合体の認可を受けた福祉局は『エデン』の作った最新鋭の義体技術の使用と、転生者の生命保護のための活動が認められるからだ。
 それが建前。
 俺に期待される仕事は、もっと血なまぐさい別のことだ。

「いつか、いつか何もかも壊れることになるぞ。そうなったら、お前たちのせいだ」
「そうはならねえよ」
「なぜそう言える?」

 怯えと、嫌悪と怒りに満ちた声。そうでありながら、俺がその確かな答えを口にすることへの期待を孕んでもいた。
 怯える子供のようだな、と思った。
 きっと、誰もがそうなのだろう。未曽有の脅威を前にしたとき、人間の抱く反応はどうしようもなく等しくなる。
 誰かがその不安を解消する言葉を口にする事を期待している。
 なぞなぞリドルの答え合わせを待つ子供のように。
 だから、俺は答えた。
 彼女の求める答えを。

「俺は、絶滅者スローターだからだ」

 それが答えだった。
 そして、俺に期待されていることの全てだった。
 父を殺し、人狼の氏族で裏切者を手にかけ、この都市から一つの種族そのものを消し去った。
 暴力が俺の経歴を歪め、その行く末を決定した。
 俺は、いつか来るかもしれないその時に、『竜殺し』になることを期待されてここにいる。

「はは、ははは……!」

 蜜蜂が笑った。
 獣のような笑いはどうしようもなく乾いた嘲笑だった。

「同じだ、やっぱ同じじゃんか! あんたもそうだったんだ!」

 俺と彼女の何が同じなのかは、俺にはわからない。
 わかりたくもなかった。

「あんたとはまた会うことになりそうだ」
「どうかな。俺はそうは思わない。お前がこの後『エデン』にどんな扱いをされるかなんて、悪いが想像したくもないしな」
「会えるよ」

 俺の目をまっすぐに見返して、蜜蜂は言った。まっすぐな目だった。彼女が姉を見る時と同じように。

「その時には、アタシがあんたを殺す。そうして、終わりにしてやる。あんたを棺桶に詰め込んで、錆釘打ち込んで蓋をしてやる」

 俺は意識を失ったままの蠍を見た。
 二人は姉妹なのだという。異形になることを選んだ姉と、それについていくことを決めた妹。

「そうか。頑張れよ」

 なぜだか彼女の口にしたことが本当になるような気がして、俺はそれ以上何も言わずに彼女たちに背を向けた。

 踵を返した先には、無数の計器にまるで虜囚のように繋がれた男が居る。
 その身は病に侵されていて、年齢以上に衰えて見える。
 呪詛を込めたその目だけが、今にも飛び出しそうに見開かれていた。

「よお、目が覚めたかい、ロゾロ・ラジーン」
「貴様……貴様らは……」

 呼吸さえもがその身を苛むように、苦しみ喘ぎながら男は言った。
 苦痛の大きさが、彼の身にある呪詛を更に巨大なものに変えるようだった。

「あんたはこれから『エデン』の奴らに回収される。多分、治療くらいはしてもらえると思う」

 それで、あとどれだけ生きられるかはわからないけれど。
 そう口にすることもできたが、そうはしなかった。恐らくは、本人にもそれがわかっていたからだ。

「し、死にたくない……嫌だ……我は……竜だ……我は……」

 きっと、それだけだったのだろう。
 人魚をさらって食ったのも、要をさらってみせたのも、結局は、ただそれだけのことなのだ。
 誰もが考えることだ。恐らくは生きているものの全てが。
 極めて人間的な感情だった。

「あんたに食われた人魚だって、みんなそうだったさ。誰も、死にたくなんかなかった」

 俺はポケットの中をまさぐった。
 蠍の電撃を受けても、まだ無事だった安物のチョコ菓子が一つだけ残っていた。
 ひどく疲れていた。俺は、それを目の前の男に差し出した。

「食うか? 不死身になんてなれやしないが、気分が良くなるぜ」

 誰もが、生きる為に感覚を鈍麻させる事を選ぶ。
 だが、どれだけ感覚を意識から遠ざけても、それでも人は痛みや苦しみから逃れられないし、背後に張り付いた死の恐怖から解放されることもない。
 狼男も、ゴブリンもオークもドラゴンも、皆同じだ。何故ならこの街に居る誰もが、ただ自らをそう思い込んだだけの、ただの人間に過ぎないからだ。
 だから、人間には甘いお菓子が必要なのだ。
 どうしたって不死身になんてなれないが、生きる為には、少なくともそれが必要なのだ。

 遠くに大勢の人の足音が聞こえた。
 『エデン』の手配した人員が、彼らを回収しに来たのだろう。
 事件解決だ。
 俺は長く息を吐いた。



 どうやら、事件は解決したようだった。
 外の物音が止んで、『エデン』の職員が大勢やってきた。
 彼らはひどく衰弱した老爺と、拘束された二人の女性を連行していった。
 きっと、この事件の首謀者たちなのだろう。
 ノエル・"ノイズィ"・トランペットは、ただその光景をぼんやりと眺めることしかできなかった。

 後からカブトが現れて、面倒を見ておくようにと預けられていた要を回収していった。
 カブトはただ「疲れた」とだけ言い残して、いつも通り不機嫌そうな様子で帰って行った。

 ノエル自身も『エデン』職員が連れ帰る筈だったが、ロゾロ・ラジーンのドラゴン義体の処理が難航していて、今少しその場で待機を余儀なくされていた。

 かつて棺屋のセーフハウスだったこの場所は、安全が確保された今なお、虚無の匂いに満ちていた。
 人魚の連続失踪という事件を知った時、ノエルはただ恐ろしいと感じた。
 誰が、どんな目的でそんなことをするのだろうと。そして、そう思うだけで、実のところは他人事のように感じてもいた。『エデン』の施設で半ば保護されて生活している自分には関係のない事だろうと。
 だから、その中の一人に自分の知り合いが混じっている事を知った時にも、特段危機感を覚えたわけでもなかった。
 以前に参加した同じ転生を患った者同士のカウンセリングで知り合った、人魚の女性。生体拡張義肢を使用してすっかり人魚の体になった彼女は、第四地区のバーで踊っているのだと言っていた。店に備え付けの大きな水槽の中で、その美しいひれを舞わせて、踊っているのだと。
 いつか、結婚するのだと言っていた。相手は人間の男だという。種族の異なる者との結婚への不安を口にしていた。それは、この都市に生きる多くの転生者の抱える、恐らくは決して消える事のない悩みだった。だが、同時に未来への期待に満ちてもいた。転生によってかつての生活や家族までも失ってしまった者が、新たに幸せを掴む事ができるのだという、驚きに満ちた、幸福への期待。
 それが、失われた。
 恐らくはこの事件で死亡した多くの者が彼女と同様の苦悩の中で、それでも未来の幸福を夢見ていたはずだった。それらは全て死を恐れる男の、狂った妄念のために無為に消費され、何の価値もなく無機質な血肉に変わった。

 どうして、自分がなんとかしなくてはならないなんて思ったのだろう。
 どうして、自分が彼女たちを助けなければならないと思ったのだろう。
 どうして、自分にそれができるなどと、思ってしまったのだろう。

 そんなものは、言うまでもなくただの勘違いだ。この街で自分を人間ではない何かだと思い込んでしまった者達と同様の、あるいはそれ以上に救いのない思い込み。
 施設を抜け出して都市に出て、自分は人魚だと吹聴した。生体拡張義肢は用いていなかったが、『エデン』の発行した手帳を使えば、それを証明することは容易かった。
 そうすれば、いつか向こうから接触して来るだろうと考えた。
 その考えは正しかったが、間違っていた。相手は、ノエルの想像よりも遥かに巨大な存在だった。そうして犯人に接触しても、ノエルには彼らを捕まえる力も権限も無かったし、機転を利かせてどうにか助けを呼ぶのが精一杯だった。
 カブトとギギが間に合ったのは、ただの偶然だった。何かが少しでも違っていれば、ノエルも食われていたのだろう。
 彼女たちと同じく、どんな期待も苦悩も関係なく、なんの価値もなく食われ、死んだのだろう。

 ひどい勘違いだった。自分に、誰かを助けることができるなどと。
 けれど、そうせずにはいられなかったのだ。
 そうしてくれた人が居たから。自分が悪運と悲劇の中で無為に死にゆくだけだったその時に、助けてくれた人が居たから。
 だから、そうしたのだ。
 彼女のようになりたかったから。

「しかし、ひどい場所だね」

 声がして、ノエルははっと顔を上げた。
 気づけばあたりはすっかり暗くなって、明かりの消えた部屋の中ではそこに立つ人物の表情さえ容易にはうかがい知れなかったが、それでもノエルにはそこに居るのが誰かがわかった。
 けれど、信じられなかった。ここに居るはずのない、居るべきではない人物だった。

「羽がすすけてしまいそうだよ。外というのは、存外落ち着かないものだね」
「アンジュ……」

 薄暗がりの中でも、ノエルには彼女の表情がわかった。
 いたずらを思いついた子供のような、どこか幼くて可憐な笑み。

「どうして……」

 彼女がこんなところに居るはずがなかった。
 天使の転生は『エデン』でもほとんど前例を確認できていない非常に稀な症例で、故に彼女は『エデン』から厳重にその存在を秘匿され、保護されている。
 ノエルとは扱いが違う。間違っても、脱走なんてできるはずがない。

「もちろん、許可を得て出てきたんだよ。君のように無断で外出するというのも冒険心をくすぐられて素敵だが、このほうが幾分優雅だろう?」

 微笑みながら、アンジュが歩み寄ってきた。
 自分がひどく薄汚れているような気がして、ノエルは目を逸らした。

「けがは無いかい? ノエル」

 アンジュはノエルの前に座り込んで、俯いた彼女の表情を覗き込んだ。
 この世のどんなエメラルドよりも深い色をした、大きな碧色の瞳。
 その目には初めて会ったその日から変わらず、慈しみが込められていた。
 どうして自分のことをそんな風に見ていられるのか、不思議に思うほどに。

「なんで……なんで来たんだよ、アンジュ」
「心配だったんだ。君のことが」
「くそっ……」

 ノエルは何かを言おうとした。
 だが、言葉は出なかった。自分の惨めさを怒りに変えて彼女にぶつけようとした。その目で見た悪徳を伝えようとした。自分の無力さを伝えようとした。その屈辱と、後悔を言葉にしようとした。
 だがそれらは言葉にならずに、ただ涙になって流れた。
 アンジュの白い無垢な翼が、流れ落ちた涙を拭った。
 ノエルは、アンジュの目を見た。天使は囁くように言った。

「わかったんだ、ノエル。私にも、私のなぞなぞリドルの答えが」

 "出題者クエスチョナー"自らによる、自身の抱えた謎の答え合わせ。
 ノエルは、その声に耳を澄ませた。

「事件屋になろう、ノエル。私と一緒に」

 ノエルは驚愕に目を見開いた。彼女の言葉の意味を、理解しようとした。

「君は外に出るべきだ。君の声は、君自身の失くしてしまったものよりも沢山の人を救えるはずなんだ」

 ノエルが『エデン』を抜け出す前にも、彼女はそう言った。
 ノエルは外に出るべきで、自分とは離れるべきだと。
 ふざけるな、と思った。
 一緒に居られるはずだ。きっと、ずっと。
 自分にはその力があるはずだと信じたかった。残酷と汚濁に満ちた外の世界で、アンジュを守る力が自分にあるのだと証明したかった。
 結果はこの通りだ。ひどく惨めな気分だった。
 また、涙が溢れた。

「君は外に居るべきで、そのための助けをするのが、私にできる事だったんだ……けど……」

 アンジュが言い淀んだ。
 珍しい事だった。アンジュはどんな時も自分の口にすべき答えを知っているように話す。ノエルも、無意識のうちにそう信じていた。彼女は全知全能の存在なのだと、どこかで錯覚していた。
 まるで人間のように言葉を詰まらせるアンジュから、目が離せなくなる。

「一緒に居たいんだ。君と」

 陳腐な言葉だった。
 普段の彼女なら、決して口にはしないだろうと思えるほど。
 だから、聞かずにはいられなかった。

「どうして……?」

 幼稚ななぞなぞリドル
 相手が自分の望む答えを口にすることを期待して。
 それでも、ノエルにはその答えが必要だった。夜に怯える幼子のように震える声で問いを口にして、ノエルは天使の答えを待った。

「……人間と人間の間に生じる問題は、なぞなぞリドルのようなものだ」

 "出題者"からの回答──言葉を選ぶように、慎重に。

「解いても解いても次から次へ新たに湧き出す悪問の連続。答えは問いを口にした者の気まぐれで容易く変わるが……どんな時も決まって、答えは笑えるほど幼稚だ」

 ──人生は絶え間ない悪問のリドルである。
 天使の語る人生観。彼女の瞳に映る世界。その悪徳さえもを、彼女は愛していた。
 唯一解を持たない悪問のなぞなぞリドルの大原則──答え合わせができるのは、それを口にした"出題者"ただ一人であるということ。
 アンジュが答えを口にする。

「……君が大切だからだ、ノエル。この世界の何よりも」

 答え合わせが出来るのは、問いを口にした者だけだった。

「私は……」

 ノエルもまた、それに応えようとした。そのための言葉が自分の中に残っているのかはわからなかったが、少なくともそうするための声は、天使がくれたものだった。

「もっと、やれると思ったんだ。居なくなった人魚を見つけて、助けてさ。犯人を捕まえて……そうできると思ったんだ。そうしたら、きっと……一緒に居られるって……思ったから……」

 だが、現実は違った。
 実際にはノエルは誰も助けられず、それどころか助けられ、この都市の最も焦げついた悪徳の片鱗を見た。そのせいで、何が正しいのかもわからなくなった。
 企業複合体アカシアは最悪だ。それに連なる『エデン』も、等しく人でなしだ。彼らはこの都市を支配して転生者を治療するが、その命を守ることには頓着しない。
 『勇者同盟ブレイブリーグ』は最低だ。彼らはそんな企業複合体を憎んでいるが、アカシアの下に憩う獣達のことも等しく厭悪している。この都市に生きる誰が、いつどうやって死んでも構わないと考えている。
 企業複合体は紛れもなく邪悪だが、転生者を保護し、治療を施しているのは事実だ。
 企業複合体の打倒はある意味では正当だが、多くの民間人を巻き込むテロ行為によってそれを成し遂げるのは決して容認されるべき行いではない。
 混じり合って何色かもわからなくなった善悪のまだらマーブル模様。
 答えなき混沌が、ノエルの足を……異形の認知を持ちながら、天使と共に歩くために痛みを選んだ足を、絡め取っていた。

「わからなくなったんだ。何が正しくて、間違ってるのか……自分が、何をするべきなのか」

 企業複合体は転生者を実験動物のように扱う。『勇者同盟』はそれを正そうとするが、そのために無関係な人間がいくら血を流そうが気に留めない。そして企業複合体は、曲がりなりにも転生者を治療している。
 ノエルにはこの世の全てが悪に見えていたが、同時に他ならぬ自分自身がその悪徳の恩恵を享受していることにも気づいていた。
 だから、わからなくなった。自分が何をするべきなのか、何をしなくてはならないのか。
 答えを教えて欲しい、と思った。それを知っている人が、自分の目の前に居たから。

「なぞなぞの禁忌タブーがなんだか知ってるかい?」

 諭すような問いかけ──"出題者"の口ぶり。
 どこまでも残酷で悪意に満ちて複雑に絡まった世界では、きっと誰もが彼女の口にする答えを知りたがるだろう。
 ノエルは、アンジュの唇から答えが溢れるのを待った。

「それはね、悩むことだよ。人間はあらゆる難問に対して苦悩するが、苦悩は問題の本質を歪めてしまう。無意識のうちに、そのなぞなぞリドルの答えが自らの苦悩に等しいものであることを期待するようになる。実際は違う。どんな答えも、その苦悩を慰めるに値する価値を持たない」

 天使はタバコを咥えて火をつけた。
 口の中にためた煙を、冗談めかして輪のように吐き出す。有害物質を孕んだ吐息はまるで天使の輪ヘイローのように宙を彷徨った。
 ノエルはその煙の行方を目で追った。それが、彼女の言葉が形になったもののような気がして。

「どうしたら良いのか、なにをするべきなのか、という苦悩は、やがて自らの外に客観的な答えをくだしてくれる存在を期待するようになる。私は君に何をするべきなのかをもっともらしく語って聞かせられるだろう。それは君の苦悩を終わらせる福音のように聞こえるだろうが、実際には違う。自分自身に向けて問われたなぞなぞリドルの答えは、最初からもう自分の中にあるんだよ。例えそれがどれだけばかばかしくて非合理的に見えても、君がしたいと思う事以上に正しい答えは、この世界のどこにも無い」

 どこか突き放すような調子で、天使は言った。
 孤独と、自由を孕んだ言葉だった。楽園に繋がれた彼女が決して逃れられないものと、手に入れられないもの。
 彼女にも、眠れない夜があるのだろうか、と思った。

「……怖くない?」
「怖いよ」

 天使は、まっすぐにノエルの目を見た。
 どこまでも透き通った、遠い国の海のような瞳。

「……自分が間違ってるかもしれないって思うことはあるか?」
「思うよ」
「自分のしたいと思ったことがもしかしたらとんでもなく愚かなことで、失敗するしかないことかもしれないって?」
「うん」

 どうしてそんな風に頷けるのだろう、と思った。
 ノエルは、毒を呷る天使の姿を想像した。苦悩の毒に蝕まれる、天使の姿を。
 彼女にも苦悩があったのだろうか。彼女も同じだったのだろうか。自分と同じ、どうしようもない感情に、振り回されていたのだろうか。

「私は──」

 なぞなぞリドルの答えは、問われる前に決まっていた。自分が何をしたいのかは、いつも自分自身が知っていた。
 ノエルは、アンジュの手を取った。

「私も、事件屋になる……なりたいんだ。この世は最悪でクソでどうしようもないけど──負けたくない」

 心には炎があった。アンジュが拾い上げてくれた器に、怒りが火をつけた。
 この都市を支配するものに負けたくなかった。罪なき者の死を願うものに負けたくなかった。どうしようもなく歪んでしまった悲しい命に負けたくなかった。歩くことを選んだその日から、この身を苛み続ける痛みに負けたくなかった。
 悲しみが怒りを生み、怒りが炎を生んだ。そうすることが痛み続ける足を動かす原動力になることを、教えてくれた人が居た。
 だから、答えを出すことができた。

「私も、一緒に居たい。それが私の答えだから」

 そう思った。そうしたいと願った。
 ──恋をしていたからだ。人魚姫の童話のように。

「なら、一緒に居よう」

 そう言って、アンジュは笑った。
 幸福の定義さえも覆してしまうような、天使の微笑。

「……うまく行くかな」
「大丈夫さ」

 彼女が苦悩する人間だと知っているのに、彼女が全知の存在などではないと、わかっているのに。
 それでも、どうしようもなく彼女の言葉を信じてしまう。彼女が口にしたことを、どうしようもなく答えだと思ってしまう。
 どうしようもなく、その声に、言葉に、惹きつけられてしまう。

「私には翼があるんだ」

 アンジュは言った。
 白い翼が、ノエルを抱きしめるように包んだ。

「私には翼があって、君には歩くための足がある。きっとこの世のどんな残酷も、私たちに追いつけやしないさ」

 自らを天使だと思い込んだ者の、飛べない翼で。
 自らを人間だと信じたい者の、走れない足で。
 それでも、そうできると信じていた。
 この都市には無数の種族が居る。
 オークやゴブリンが。動く死体やハーピィや、ドラゴンが。
 人魚が。天使が。
 どれもが異形の生命を宿していて、そしてそのどれもが、自らをただそうと思い込んだだけの人間に過ぎない。
 それでも、まだ。

「そっか、なら──」

 残酷と悪徳に要請されて、絶え間なく問われ続ける悪問のなぞなぞリドル
 誰かが、それを彼女たちに問うた。
 人生は絶え間なきなぞなぞリドルであって、自らが解き明かされる瞬間を待っている。
 その答えが、どれだけ残酷に思えるほどに幼稚で歪んでいようとも。彼女たちはまだ、その答えを知らない。

「ずっと一緒に居よう」

 今はまだ、この世界の誰も。

 
 ***

 エンブリオ第三地区。
 愛おしき我らがバックス福祉局を目指して、おれはボロボロになった事務所所有のピックアップトレーラーを走らせていた。

「しかし、ひでぇ目にあった」

 助手席には要が座っていて、変わらずにここではないどこかを見つめている。自分の身に起きた危機や変化になど、初めから気づきもしなかったかのように。

「毎度毎度こんなのばかりじゃねえか。俺は決めたぞ、ギギ」
『何をダ』

 荷台でうずくまったギギがけだるそうに聞き返した。無機質な合成音声は、どういうわけかいつも不機嫌そうに聞こえる。

「俺は長期休暇を申請する。南の島へ行って、バカンスだ。そうでもなきゃやってられん」
『クダらん』

 ギギは俺のナイスアイディアを、もはや笑い飛ばす気にもならないようだった。
 事実義体を用いた全力の戦闘は、ギギに多大な負担を及ぼす。ロゾロとの戦闘で負った損傷も相当なものだ。今こうして平気で話しているのは、ギギなりのドラゴンとしてのプライドなのだろう。

『お前が居ない間、その女ノ世話は誰がする。私はごめんダ』
「要も一緒に来るにきまってるだろ。お前も特別に連れて行ってやろうか、ギギ?」
『……フン』

 ギギは眠たそうに遠くを見ている。要と同じように。
 後方へ走り抜ける、隔離都市エンブリオの夜景。神様がノーと呟くたびに癒えない傷を負うように深い断絶に切り刻まれ、隔離されてきた異形の都市。そのうちに異形を抱え、異形を養成し、ついには何か恐ろしいものを産み落とそうとする、腐った卵。
 それでも都市には人が生きている。もはや自分を人間だとは思えなくなっても、それでも彼らはそこに居て、時に悪徳に身を浸しながらも、それでも生きている。それが正しい事か、否か。少なくとも、俺にはわかりようのないことだった。
 ギギのドラゴンの目には世界はどんなふうに見えているのだろう、と思った。
 ただ愚かなだけの、醜い人間たちの都市であるように見えているだろうか。
 それとも、もっと別の──少なくとも、壊さないだけの価値を持ったものに、見えているのだろうか。

『私の知ったことではデハない』

 それきりギギは何も言わなかった。
 俺も黙って車を走らせた。助手席の要が、車体の揺れに合わせて肩を揺らしていた。
 沈黙が夜を深くした。都市は嘘のように静かだった。

「ついたぞ、要」

 俺は事務所のガレージにトレーラーを停めて、助手席から要を担いで下ろした。
 ギギはこのままここで眠る。本人は常々不服を述べていたが、ギギの大きな義体を寝かして置ける場所は、目下のところこのガレージの中にしかない。
 ここでぐちぐちと嫌味を口にして車庫での寝起きを断固拒否するのが常の事だったが、さすがに今日は疲労が勝ったのか、ギギは何も言わずに自分の寝床に移った。

「じゃあな、ギギ。ゆっくり休めよ」

 尻尾を振るだけのおざなりな返事を返して、ギギは目を閉じた。
 俺はそのまま要を抱えて、ガレージから繋がっている事務所に移動する。

『……カブト』

 ドアノブに手をかけた俺を、ギギが呼び止めた。
 俺は振り返ってギギを見た。

「なんだ?」
『……』

 低く唸るような吐息だけを残して、ギギはそれ以上何も言わなかった。
 俺は少しの間だけそのあとに続くかもしれない言葉を待って、結局は黙ってドアを開いて事務所に入った。

「あら、おかえりなさい。遅かったのね~」
「ただいま、ヘルガさん」

 事務所で俺を出迎えたのは、柔和な笑みを浮かべた女性だった。体形はふくよかな丸みを帯びていたが、耳は長くとがっている──エルフの転生者の顕著な特徴。
 エルフの転生者は比較的に人間だったころからの認識の乖離が少ない。ただ、自分を植物のように長い時間を生きる長命種だと思っているのはギギ達ドラゴンと同じで、ひどく浮世離れした者が多い。ヘルガさんもその例に漏れず非常におっとりしているが、それでもこうしてキッチリ仕事はこなす。エルフにしては珍しい人物といえるだろう。
 人類愛の模範のような人懐っこい笑みを浮かべた彼女はこのバックス福祉局に雇われた企業複合体の認定介護士の一人で、俺と一緒に要やギギの身の回りの世話をしている。

「要、お願いします」
「は~い。私がお風呂に入れておくから、カブトくんはもう上がっていいですよ~。寝室に連れて行ってあげてくださいね~」

 俺や要は事務所に併設された宿舎で寝起きしている。仕事と私生活がちっとも切り離せないせいでまともなオフも得られない最悪の環境だが、それでも屋根がついて寝起きできるだけ上等な生活ではある。
 俺は要を彼女の部屋に担いで行った。
 若い女性の部屋というには、あまりに飾り気のない、殺風景な部屋。当然だ。要にとっては、自分が人間の肉体で生活をしているという現実のほうが夢の中の事のように思えているのだろうから。
 俺は要をベッドの上に座らせて、彼女の頭部にインプラントされた拡張器官サイバネティクスの機能を切ってやった。外付けの大型義体を操作するための、『ピグマリオン』と呼ばれる機器の最新型だった。昼間ロゾロが身に着けていたものより、遥かに小型化されている。
 『ピグマリオン』の接続が切れると、彼女の目が、ここではないどこかではなく現実に焦点を結ぶのがわかった。

「今日は疲れたろ、要」
「…………」

 俺はいつものように、要に話しかけた。いつものように、要は応えない。
 意味ならある、と俺は思う。すぐに結果は現れないのかもしれないが、少なくともそう試みることに、意味があると。
 
「じゃあな、ゆっくり休めよ」
「カブト」

 背を向けようとした俺を、要が呼び止めた。
 要の声を聞くのは久しぶりだったが、どういうわけか不機嫌そうなのは変わらなかった。

「どうした?」

 散々な目にあって、愚痴の一つでも言いたくなったのだろうか、と思った。要は、じっと睨むように俺を見ている。

「どこか具合悪いところはないか? 身体が痛いとか」

 ロゾロ・ラジーンはギギを攫った。
 それは何故か──アンジュが答えを口にした、一つのなぞなぞリドル
 ロゾロ・ラジーンは、人魚の肉を食って不老不死になろうとした。だが、当然のように思ったような効果は得られなかった。
 ──だから、必要だった。不死になるための、別の霊薬が。

「……私の知った事ではない」

 ジークフリートの神話。
 竜を殺した英雄は、その血を浴びて不滅の肉体を獲得した。
 ドラゴンの義体には血は流れない。
 だから、それを操作する人間の身体を──御堂要という人間を攫った。

「……」

 ギギは要を自分自身だとうまく認識できていない。
 というよりは、自分の精神を守るために積極的に自分と要を切り分けている。
 だから俺もそうやって接する。
 けれど、ギギにとって要は誰よりも守らなければならない相手なのだ。
 彼女にもそれをわかってほしいと思う。ギギにとってはどんなに忌まわしい存在であっても、どうしたって切り離せやしないのだ。
 それは虚しい願いだろうか。俺が何を思ってどうしようと、結局のところギギはいつかこの世界のどうしようもない悪徳やクソみたいななぞなぞリドルに嫌気がさして、いつかはこの世の何もかもを破壊する邪竜になり果てて、今度は俺も『竜殺し』なんて馬鹿みたいなあだ名で呼ばれる羽目になるのだろうか?
 錆釘蜜蜂が口にした問いリドル。奴はいずれそうなると言った。今回はそうはならなかった。だが次は? 次そうならなかったならその次は、次の次は?──絶え間なく連続する、悪問のなぞなぞリドル

 要の目が、俺をジッと見ていた。
 どこまでも黒い、澄んだ瞳。
 固く引き結んだ唇が小さく開く。

「……礼を言う」

 ほとんど聞き取れないような声で、要は言った。
 きっと、ギギの体では恥ずかしくて言えなかったのだろう。ギギにとって要の体は借り物のようなもので、要の体で見る世界はきっとまどろむように曖昧だ。
 俺は照れくさくなって、応える代わりに要の前に拳を突き出した。

「お手柄だったぜ、相棒」

 要はぎこちなく体を動かして、俺の拳に自分の拳を重ねた。
 なぞなぞリドルの答えには、今はそれで十分だ。


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