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Dark night, Moon light


第1話 妻の怒り

 またケンカをしてしまった。
 言いたいことをうまく伝えるって、どうしたらできるんだろう。

 結婚してそろそろ1年。なにもかもが新鮮でなにもかもが嬉しくてなにもかもが楽しかった頃は、もう過ぎてしまった。
 それでも、同じ家に帰ることが当たり前になったこの生活が愛おしい。大事にしたい。

朝の出勤前はケンカをしてはいけません。
どんなことがあっても、笑って『行ってらっしゃい』と送り出してあげましょう。

 "結婚生活がうまくいくためのハウツー本"には、だいたいそんなことが書いてある。
 わかってるわ、そんなこと。わかってるけど、今日もできなかった。苦手だった数学よりもはるかに難しい。

 だいたい、今日が会社の健康診断だってわかってるのに、後輩と飲んできたってどういうこと?夜9時以降は飲食してはいけませんって書いてあったのに、帰宅したときは日付けが変わってたよね?

「そんなことも守れないなんて、社会人失格じゃん」
 ボサボサの頭で出勤しようとする彼に、思わずそう言ってしまった。
 彼は顔をゆがませ、なにも言わずに玄関の向こうに消えた。

 私と彼は同じ会社に勤めている。私は彼の4年後輩で、今は部署が違うから会社で顔を合わせることはまずない。

 後輩思いで若手社員のリーダー格だった彼はつき合っていた頃はまぶしかったけれど、中身は意外と幼くて見栄っ張りだった。だから今日みたいなことを何度も繰り返すのだ。
 もう知らない。今夜は私も遅く帰ってやる。仕事をしながらも私の怒りはおさまらなかった。

 夕方、同期の友人に今夜空いていないかLINEをしようとしてスマホを手に取ったら、彼からメッセージが届いていた。

 どきん。
 仕事中にLINEがくることは珍しい。

 やっぱり言いすぎた?まだ怒ってる?なにか決定的なメッセージとか?ほんの1秒くらいの間にそんなことを考え、息を止めてタップした。

「健康診断は来週になった
 怒られた
 今夜は早く帰る」

 あははぁ。だから言ったでしょ。健康診断を受けさせるのは会社の義務で、うちは特にそんなことに厳しいって。
 まったくどうしようもないなぁ。こらえても笑みがこぼれてくる。

 私はお気に入りのキャラクターが「OK!」と言って笑っているスタンプを送り返し、仕事に戻った。

第2話 夫の反省

 おれのヨメは怖い。
 ヨメなんて呼称を人前で言ってしまったら多分しばらく口もきいてくれないくらい、怖くてめんどくさい。

 後輩が仕事やプライベートのことで悩んでいたら、先輩としてほっておけないじゃないか。健康診断なんかあとまわしだ。
 それを朝っぱらから「社会人失格だ」だのなんだの、ぐちぐちとうるさいことこの上ない。二日酔いの頭がますます痛くなった。反論する気力もなく、おれは家を出た。

 彼女はおれの4年後輩として入社してきた。
それほど目立たないが、明るくて素直そうなところが好ましかった。交際を始めて数年後に結婚した。

 素直だと思った彼女は、実はとんでもなく強情で生真面目だった。数学が苦手と言うわりには曖昧なものを許さない。
 プロポーズしたとき、おれが「ずっと一緒にいよう」と言った言葉に「ずっとっていつまで?何年後まで?」と食いついてきた。
「ご、50年くらい…?」と苦しまぎれに言うと「たった50年でいいのね。わかった」と言われ、おれたちは結婚した。

 ああ頭が痛い。吐き気がする。こんなことで50年ももつのだろうか。

 50年か。
 おれは80歳を超えるけど、彼女はまだ70歳代だ。最近の70代女性は、まだまだ若い。彼女が未亡人になったら、まわりのジジイがほっとかないかもしれないな。

 二日酔いとは違う冷や汗が出てきた。想像しただけで吐きそうだ。彼女より先には死ねない。絶対に。
 今日からは飲み会も控えて、来週に延期してもらった健康診断に備えよう。

 まだ怒ってるかな、と思いながら彼女にLINEした。しばらくして返ってきたスタンプを見て、おれは心の底からほっとした。


第3話 後輩の鼻息

「おう!あれからどうだ?」

やべ。見つかっちった。
「あっ先輩。この前はご馳走さまっした。あれからってなんすか?」
「マッチングアプリで会ったとかいう彼女だよ」
「彼女じゃないっすよ。あれからLINEこないし。先輩こそ大丈夫でした?健康診断とか奥さんとか」
「ああ、会社にもヨメさんにも怒られたよ」
「まじっすか。あっぼくこれから外回りなんで、これで」
「おう。またなんかあれば相談しろよ」

 やれやれ、また飲みに誘われるかと思った。この前は退勤後に会社を出たところで一緒になって、共通のネタがないからつい悩みがあるふりをしたら、そのまま居酒屋に拉致されてしまった。

 後輩思いのパイセンっつーのも大変だな。後輩におごるくらいなら、ぼくなら米国株にぶっこむけど。あんな昭和のサラリーマンぽいのがまだ生き残ってたのか。

 社内の人付き合いも酒も車も遊びも、みんな時間と金の無駄だ。ぼくはさっさと資産形成してFIREだ。こんな商社とは名ばかりのザ・日本企業に人生を預けるつもりはさらさらない。

 そんなことを考えながら得意先への道を歩いていたら、どこかの病院の建物が目に入った。
 そういえばあのマッチングアプリの彼女、看護師とか言ってたな。年はいっこ上。看護師なら養う必要もないし理想的だ。……ちょっとかわいかったし。もう一度LINEしてみようか。

 いやいや。この前の株価暴落のショックでつい婚活アプリに手を出してしまったけど、結婚こそ人生の大きな無駄だ。最大の投資とは結婚をしないことだ。

 ぼくはこれでいいんだ。
 そう自分に言い聞かせ、ひとつ大きな息を吐き、日の暮れかかった道を急いだ。


第4話 わたしの青い空

 回診カートを押してナースステーションに戻ろうとしたとき、師長に話しかけられた。
「最近楽しそうね。いいことでもあった?」

「えっ? いえいえ、なにもないですよ!」
 わたしはあわてて否定した。あわてすぎたかしら。
「さえちゃんの調子がいいから嬉しくて」これは本当。

「そうね。もう少し落ち着いたら一時帰宅ができそうなんですってね」
 師長もにこやかにそう話す。

 この師長はアラフィフだけどすごく綺麗なひと。独身なんて信じられない。いつも冷静で穏やかで憧れちゃう。ま、わたしは早めに結婚したいけどね。

 さえちゃんはわたしが担当している小学5年生のかわいい女の子。やっかいな病気のため、もう何ヶ月も闘病している。
 大人でも耐えがたいような治療を乗り越え、ようやく退院が視野に入るまでになってきたところ。

 さえちゃんが治療の前にバッサリ髪を切ってきたときは本当にびっくりした。「どうせ抜けちゃうから」って。わたしも他のナースも涙をこらえるのに苦労したわ。いまは少し髪の毛が生えてきて、それもかわいいったらないの。

 さえちゃんが退院となったら、どう声をかけてあげようかな。
 がんばったね!かな?
 また会おうね!……はまずいか。
 あれこれ妄想しては涙ぐんでしまう。その日が楽しみだなぁ。

 楽しみなことはまだあって。最近は婚活も調子がよくて、明日は初アポが1件。なかなかの好物件の予感。
 この前マッチングアプリで会った中堅商社の彼はどうしようかな。悪くはないんだけど、意識高い系でちょっと苦手かも。ケチみたいだし。あれからLINEしてないけど、まぁペンディングにしとこうかな。

 ああ、いろいろ忙しいなぁ。公私ともに充実してるってこういうことかしら。今日も空が青いわ。
 さえちゃん、一緒にがんばろうね!


第5話 闇夜

 さえちゃんが亡くなった。急変してからあっという間だった。

 さえちゃんの担当だった若い看護師の憔悴は見ていられないほどだった。
 泣き叫ぶご両親の後ろで、目に涙をいっぱい溜めて黙礼をしていた。マスクの下ではきっと血がにじむほど唇を噛みしめていたに違いない。

 お見送りが終わったあと、その看護師に声をかけた。彼女は焦点の定まらない目でこう言った。
「師長。わたしのせいなんです。わたしがもっと気をつけていれば。もっと早く気がついていれば……」
 最後は言葉になっていなかった。

 その翌日、彼女は体調不良を理由に休んだ。

「わたしのせいなんです」
 その言葉が気になって、さえちゃんのカルテを隅々まで見てみた。が、看護師のヒヤリハットやインシデントは確認できない。ご両親の慟哭が自分を責めるものだと受けとめてしまったのだろうか。

 マンションに帰ったのはもう深夜だった。こんな夜は、誰もいない部屋の中が暗黒の闇のように見える。灯りをつけ、ふとカレンダーを見て今日が給料日だったことに気がついた。
 鉛のように重い手でパソコンを立ち上げ、いつものサイトから『寄付をします』のボタンをクリックする。給料日のルーティンだ。

 額に入れて壁にかけてある葉書に目をやった。
 アフリカや中東の紛争地帯で医療支援活動をしているNGOからの、寄付御礼の葉書。その代表者の名前の下に走り書きされた、
『いつもありがとう。体に気をつけて』の懐かしい文字。

 数年前、そのNGOと代表者の名前をネットで見つけ、それ以来毎月給料日に寄付をしてきた。懐かしさと自己満足と、ほんの少しのアピールを込めて。
 そのアピールに気がついたらしい彼から、ときどき葉書が届く。

 若かったあの日、彼からの「一緒にやらないか」の言葉にうなずいていたら、私は今どこで何をしているのだろうか。
 看護師長として若い看護師のサポートすらできない私を彼が見たら、叱ってくれるだろうか。短すぎる人生を閉じてしまった少女のために、一緒に泣いてくれるだろうか。

 パソコンを閉じ、私はクレンジングシートで化粧と涙をぬぐった。
 明日あの看護師は出勤するだろうかと考えながら。出勤してこなかったら電話をしてみようか…と、考えながら。


最終話 月あかり

 ボランティアで事務を手伝っている女子大学生が、ディスプレイ上のExcelを見ながら須田に声をかけた。
「須田先生、この人…」
 須田は読んでいた資料から目をはなし、彼女に近づいてExcelを覗きこむ。

「この、毎月寄付してくれる女の人、今月はいつもより多いですね。いいことでもあったんですかね?」
 須田は寄付者リストの中のその名前をちらりと見て、言った。
「いや、その反対じゃないかな…」

「え?」女子大学生が顔を上げて須田を見る。「お知り合いなんですか?」
「昔、ちょっとね」

 このNGOの代表理事である須田は、内科医でもある。1年のうちの何ヶ月かをフリーランスの医師として働き、資金が貯まったら紛争地での医療支援を行う。今日の理事会が終わったら、明日からまた中央アフリカへ向かう予定だ。

 会議室とは名ばかりの古いビルの一室で理事会が始まった。理事や監事といった役員に、ボランティアの若い面々が揃う。

 活動報告や会計報告が終わり、須田が前に出た。
「皆さん、いつもご協力ありがとうございます」
 壁に貼ってある世界地図を背にして話す。

「我々のような小さな組織は単独では何もできません。これからも国連や大規模NGOと協力しながらの後方活動になると思います。この地域も…」と言って世界地図のアフリカ中央部を指でトンと突く。

「以前にくらべれば政情も落ち着いてきましたが、まだまだ予断は許しません。
何度も言いますが、現地に行く皆さんは決して死なないでください。
我々は紛争地で命の危険にさらされている人たちを救うために活動をしていますが、そのために我々が死んでは絶対にいけません。
身の危険を感じたら、すべてを捨てて逃げてください」

 須田は静かに話を続ける。

「生きて帰ることが、この理不尽な状況を強いている大きな何ものかに対する圧力となります。生きてこの活動を続けていれば、暗闇の中で苦しんでいる人々の足元を照らす光にきっとなれるはずです。
だから皆さんは、日本で待つ人のためにも必ず生きて帰ってください」

そこにいる全員が須田の顔を見つめている。後ろの席に座っている女子大学生がハンカチで目元をおさえている。

須田はひとりひとりの顔をゆっくり見回しながら、もう何年も会っていない懐かしい女性ひとの顔を思い浮かべながら、小さくうなずいた。



(了)

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