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大学の授業は分かりにくいというけれど

 近年,youtubeなどによる解説動画の配信が盛んにおこなわれている.その解説動画の内容は本の解説、歴史の解説、高校数学の解説など多岐にわたる.ある大学で習う数学の解説動画では、「大学の授業は分かりにくい」という話と「授業は外部に委託するべき」という話があった.
 授業をすることを専門とした人間の授業に比べれば大学教授の授業は分かりにくいのは確かだろう.読みにくい字や聞き取りにくい話し方をする教授もいたし生徒の理解そっちのけで教科書と向き合っている教授もいたが、このようなことを抜きにしても教授の授業よりも分かりにくいと感じた.では教授の授業は解説動画などの授業よりも劣っているのだろうか?私はそうは思わない.なぜなら教授の授業は「より分かった」という状態にするために、優れているからだ.
 この「より分かった」という状態は「わかったつもり」という西林克彦さんが書いた本で詳しく解説されている.簡単に説明すると人は文章を読んで文脈が分かると「分かった」状態になる.多くの場合、この「分かった」という状態は「分かったつもり」の状態であり正しい理解や深い理解ができていない.「より分かった」という状態は多角的に文章を評価することで正しくより深い理解をした状態である.この状態へは意識的に「分かった」状態から「より分かった」状態になるための努力をしないとたどり着かない.
 いくつかの解説動画と教授の授業を比較すると解説動画が「分かった」状態を作りやすいことがわかる.解説動画はから得られる情報は何をするために、何を使って、どうするかにしぼられているため文脈が分かりやすい.つまり「分かった」状態になりやすくなっている.教授の授業は解説動画と同じ解にたどり着くまでに直接は関係ない話がいくつもでてくる.このため、結局何をどうすれば解にたどり着くのかという文脈が分かりにくい.つまり「分かった」状態になりにくい授業である.
 解説動画と教授の授業の違いから前者は情報が少なく単一の文脈を理解しやすいことと後者は情報量が多く文脈を理解しにくいことが分かった.ではなぜ私が教授の授業が「より分かった」状態にするために優れているかを説明していく.「わかったつもり」の内容をふまえて考えると解説動画について考えると解説動画は文脈を理解しやすく「分かった」状態になりやすい.しかし、この状態から「より分かった」状態になるためには違う文脈を見つけて多角的に内容を見る必要があるがそのための情報はほとんどない.つまり「分かったつもり」にはなれるが「より分かった」状態にはなりにくいのだ.これに対して教授の授業は「分かった」状態にはなりにくいが情報が多く複数の文脈を考えさせる授業形態のため「分かった」状態になれば簡単に「より分かった」状態になることができる.これが教授の授業が優れていると考える理由である.
 話は変わるが最初に記述した授業を外部に委託して分かりやすい授業を提供すべきという話題について,教授は「昔は一部の優秀な人間が理解できればよかったが大学が大衆化したことで大衆が理解できるレベルに下げる必要が出てきたという社会の流れがよく表れている」と言っていた.そして、「大多数の分かりやすさを求める人への授業を外部委託できれば楽になるので委託したい」とのこと.この話をして、「より分かった」状態になりたい人間は少数だから教授の授業は一部の人間には優れているけど教授も含めて大多数の人間には外部委託を進めた方がよいのだろうという結論になった.
 

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