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『楽園』の祭りのシーン-主役3人以外の「楽園」について-

 映画館で『楽園』を見ながら、何度か半券を見てタイトルを確かめようとした。地獄の間違いだろ。
 どこまでも広がる青田の真ん中を、くたびれた農道がひらすらまっすぐに貫いている。遠くに見える街並みは山々をいただき、そのすべてが抜けるような青空に抱かれているようだ。その大きな風景の中に、黄色い帽子をかぶり赤いランドセルを背負った小さなちいさな少女ふたりが道脇の草むらに半ば埋もれながら、シロツメクサの花冠をつくっている。そんなオープニングだったと思う。本編を見終わって、もはや記憶に定かではない。
 エンディングも同じだ。同じだと言えるということは、これと似たカットのオープニングのことを覚えているということである。ただ、ぼくには同じものには見えなかったというだけで。
 本作は吉田修一の『犯罪小説集』を原作にとり、原作もまた実在の連続殺人事件や幼女誘拐事件に題材をとっている。ただし、本編に直接的な暴力のシーンはあまりにも少ない。血しぶきなんて皆無である。それでも断言できるが、これは惨劇だ。排他的でプライベートのない人間関係や集団心理の最悪の発露、断れない人間をつかまえて悪意なく犠牲を強いる無遠慮さなどが生々しく、劇的に描写されていく。それらが人間を追い詰め壊していく過程が地獄でなくて何なのか。
 そんな長い二時間を過ごした観客の心情などおかまいなしに、エンディングの風景はオープニングのそれと何ひとつ変わらないように見える。そして画面に浮かび上がる「楽園」の墨文字。まるで「この映画のタイトルは『楽園』だったのだ」と、こちらが快く思っていない年配の方から念を押されるような居心地の悪さを感じた。
 本編を通して、結局のところ楽園などどこにも見出せなかったかもしれない、あったのかもしれない。少なくとも、神が造りたまいしすべての存在を満たす完全な楽園はどこにもない。もしかすると、あの緑豊かななかにも人の息遣いが聞こえるのどかで豊かな田舎の風景を遠くから眺める分には、そのように見えただろうか。しかしひとたび地に足の着いた人間たちの視点に分け入れば、そんな幻想は消えてなくなる。もし楽園を見出しうるとすれば、必要なのは「誰の、どんな楽園か」という問いだ。誰もがそれぞれのいまだ/いまや手の届かない楽園のためにもがいたり、折り合いをつけようとしたりしている。後者を選ぶ人たちの大多数は、共同体の平穏な暮らしや社会の円滑ななりゆきにそれを託すのだろう。ただし閉じられた社会において「みんなの平和」を求めることは、よそ者や爪弾き者へ不寛容で攻撃的な態度をとることと表裏一体だ。
 本編では二度、印象的な町の祭りのシーンが出てくる。祭りとは何のために行うのだろうかと考えたときに、土地の縁起や先祖代々に思いをはせて共同体の結束を強めると同時に、今年もなんとかやってこられたという確認のための儀式なのだとぼくは思う。その祭りの裏で少女が消え、男が燃える。少女が姿を消したのは、ちょうど十二年前に同じく少女が行方不明になった事件の現場付近と考えられる。十二年間、癒えることのない傷を抱えながらもなんとかやってきたはずの住民たちは、重篤なアレルギー症状を引き起こすようにして一気に異常な興奮状態に陥り、現場付近の捜索に人を残すこともせずに疑われた男の家を目指す。追い詰められた男が焼身自殺を遂げてしまったことで真実は謎のままに、少女が無事に発見される。祭りのクライマックスで、大きなかがり火を持って踊り手が舞う様がオーバーラップする。生贄が捧げられ、日常が戻った。人が一人凄惨な死に方をしたが、どうせ爪弾き者だったのだ。大丈夫、俺たちの町はこれからもやっていける。一度目の祭りは、そんな象徴的かつ劇的なシーンだった。

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