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「私が好きな私」を取り戻している気がする

↑「本来の私」って打とうとしたのだけれど、どんな自分も「本来の私」だよなぁ〜って思ってやめた。

ヘッダーは、ホットケーキミックスで作った即席カップケーキです。

というか、過去の記事を少し振り返ってみてたけど、過去の私、めっちゃ良い気づきして、日記に残してるね笑。記憶力めちゃくちゃ良い方だけど、忘れるものだね。

これとか、誰からのいいね、もないけど、自分的にめちゃ良いこと書いてる。笑

やっぱり記録って大事だな。


人間関係依存症

脳科学者の中野信子先生(全然違うかも。適当にネットで読んだ記事です。ごめんなさい笑)が、セックス依存症と恋愛依存症の違いについて述べている記事があって、「恋愛依存症」についての内容で「分かりづらいから、話題にならないけれど、人間関係に依存している」みたいな内容があった気がする(ここに載せるにあたって再度調べる気はないという適当さ笑)。私はその文章をみたときに “私って完全に人間関係依存症だわ~" って思ったわけです。

まぁこれは「他人軸で生きている」「他者評価で生きている」「他人から評価されることが全て」みたいなところと完全に通ずる部分なんだろうけど。

「誰からも連絡がこない、遊びに誘われない」、これって必要とされてないんじゃないか?って不意に落ち込んだり。とか。

誰かから認められたり、褒められたりすることだけに全力投球したり(褒められたり、認められたりすること自体はとても喜ばしいことだと思うし、そこに向かって努力することも悪いことではないけれど、私の場合は、ほぼそこだけが人生の中の基準になってしまっていて、自分が”楽しい” とか”やりたい”って思っているかどうかが、全く自分で判断できない状態が続いていた。いた、というか、これを完全に過去形にできるかどうかはまだ不透明なところだけど…。)

高校時代のような、素晴らしい人生を今、送っている。と思う。

見出し長すぎる件。笑

まとめきれなかった。ここが「自分の好きな自分」「軽やかな自分」を取り戻している気がする、という話に繋がってくるのだけど。

高校生のとき、私は「勉強」「吹奏楽部(副部長、学生指揮)」「習い事(声楽、楽典)」「高大連携講座」など、とにかく多忙だった。そこに通うだけでも、まぁまぁ時間が割かれるわけだけど、音楽系の習い事は毎日練習が必要だし、勉強だって、宿題とは別に自主学習だって必須なわけだ。とにかく多忙。要所要所で病むことはあっても、強制的に学校が始まったり、実家だったので、病んでいる姿を親に見せるわけにはいかなくて、元気に振る舞って。部活があったり、レッスンがあったり。病んでいる時間をそんなに割けないし、なにより10代の若さというものもあって、自律神経も若かった、と思う。

過去記事にも書いているけれど「自分にしかできない仕事?」っていうことに疑問を持って過ごすことができていたし、この1年は高校時代を振り返って”どうやったらあんなメンタルで過ごすことができていたのかなぁ”もう分からないけど、戻りたい、と考えることが多かった。

それが、この1~2か月、”あぁ本来の私ってこんな感じだったな”、当時の私ってこんな感じで過ごしていたのだな、って思えることが途端に増えた。

有難いことに「ミーツ・ザ・福祉」では、色々活動することが出来ているし、タスクも増えているが、何とかこなすことができている。サマセミに顔を出したり、手話ボランティアの件で、有難いことにお声をかけていただいたり(結局都合もあって、何もできなかったのだけど)。

吹奏楽では、全然追いつけていないけれど、自分を表現する場ができて、組織の一員として、部活感を味わうことができている。
もっと練習したいし、頑張りたい、と思えることもできている。

充実感、というのだろうか。とにかく”あ~私、こんなんだったなぁ”
と思える回数が圧倒的に増えた。自分が一番好きだと思える自分、理想的であれる自分、でいられる時間が長いのだと思う。

「会社での評価」という側面だけに囚われていた自分

自分は、この数年間、↑の価値観に縛られ過ぎていたのだ、とこの1か月で、気づくことができた。

会社(公務員だから正確に言うと会社じゃないけどさ)の対人関係、会社がらみの人に評価されて、好かれたい、人望を得たい(正しい表現が分からない)、そこに過度に依存してきたのだな、と思った。

バリバリ働ける、どんな激務にも耐えて、しなやかに、疲れてそうに見えない、キャリアウーマンになれるものならなりたい。理想は、自分の仕事はそつなくこなして、全体のフォローができる、激務なはずなのに、疲れが全くみえない、常に情緒が安定していて、身だしなみも整っている、みたいな完璧人間が、私の理想ではあるのだけど。(そんな人間なんぞ一握りもいないのでは笑?)

実際は当然ながら、そんな理想の姿とは程遠いし、なんなら並みの人間がこなせる、耐えられる職場環境、労働量でも、私には厳しい。(ここで普通とは何か、という終わりのない問いは一旦おいておいて、一般の人が概ね想像する、普通に仕事ができる人間、くらいに考えておいてほしい)

そんな自分と上手く付き合っていく術を身に着けるのは得意で、周囲に弱みを見せるのも、状況によっては、あまり抵抗がなくて、だからこそ、妊娠するまでは休職することなく、ここまで働いてこれたわけだけど。

でもやっぱり”自分は普通の人間と同じように働けない”とか”心が弱い人間だ”とか”自分のなりたい自分にはなれない”

みたいな、ネガティブな気持ち、劣等感ずーっと付きまとってはいて。

それはあくまで「会社の中での私の評価」なのだけど、仕事が人生の大半を担っていた中では、その評価こそが「私自身としての評価」、という風にどうしても、考えてしまう。

私の存在は無駄ではない、役に立てることはあるのだ

という感覚を取り戻すことができるようになってきた。

唯一無二のことを出来るようにはならないかもしれない。
私以外にも、私以上に上手に手話を教えられる人はこの世に何万人といるだろうし、私よりもトロンボーンが上手な人間だって沢山いるし、私が日本で、一番になれることなんて、きっとないのだろう。

だけど、それでも良いじゃないかと。私の存在や知識や技術で、少しでも、良い時間が過ごせる人がいたり、生活の質が少し上がったり。拙くても、手話通訳を3分して、その3分で助かる人が居ればそれで良いし。落ち込んでいた人が、多少私と(私じゃない誰でも良かったとしても)話すことによって、気分が上がったり。そんな些細なことでも「私」という人間が、誰かの役に立てるのであれば、唯一無二じゃなくても良いじゃないか。と本来考えていた感情が戻ってきたなぁと思った。

この数年「私は何の役にも立たない、何もできない無価値な人間だ」「生きている意味も価値もない」と思ってきたのだけど。


※決して、役に立たない人間は生きる価値がない、ということが言いたいわけではないし「人権」というか「人としての尊厳」は、どんな状態であっても、本来は保持されるべきなんだけど、そういうことは一旦置いといて、私の今の思考をただつらつらと述べさせてください。


今、私に関わってくださっている家族や地域の皆様方や楽団や友人たちの支えによって、「私」という存在が「役に立つ」ことって、沢山あるのだなぁと、思えるようになってきたのだ。

まぁ、これも結局、水島広子先生で言うと「DOの自信」なのであって、「BEの自信」ではないのだろうけど。まぁいいや。

ゲッターズ飯田さんや有川真由美さんがよく言っている?、いや、小林弘幸先生か?が言っている、人間が一番幸せなのは「求められる場所で活躍している人」とか「需要があるところで働く必要がある」とか、いうところと、通ずるのだろうけど。自分が好きなことで、人に役に立つことができて(他者から必要とされていて、求められていて)、それで他者を幸せにできて、楽しませることができて、自分も幸せで、っていうのが、一番だよな、って心の底から思う。

でも「公務員」として、社会の場に戻る必要性や需要も感じる

せっかく、今、息のしやすい環境で居られ始めたのに、ここですぐに育休復帰してしまうと、前の感覚にサッと戻って、おしまい、ってなってしまうのだろうな、それは嫌だな、避けたいな、という思いがある。

一方で、地域での活動を続けたり、色々なフィールドに顔を出す中で感じることの1つとして「公務員」としての顔を持つ私、というところに1つ大きな需要があるのだ、と強く感じる。

一般社会の中に適応しづらい人間が、リアルタイムで社会で働きつつ、ソーシャルグッドな社会を作るための活動をSWとして、一個人として、行う、というところに大きな意味があるよな、と思ったりもする。

新しく何かを始めよう、という心意気

9月初旬の引っ越しを控え、初めて自分単体での企画をした。

そこで少しずつ、自分への自信をつけてみたり、とりあえず、はったりでも名乗って活動していくのが、大切ってこういうことか?とか学んでみたり。

今まで以上、今までの活動の点と点が線になっていくのを実感したり。
やっぱり無駄な活動なんてないんだなって思ったり。(でも休むこともとても大切でそことのバランス調整はやはりこれからも重大な課題の1つである。)

これからも、無理のない範囲で、色んな場所に顔を出して、適度に活動して、色んな人や場所と適度な距離感を保って。自分とも適度な距離感を保って。関わる人に「自分の夢」を適度に話していきたいな。(タイピングの長文で何度も自分の夢を人に語るのが大事と力説される笑)

今、自分が何をやりたいのか、明確には全然分かっていないし、そこについては、苦しくても、考え続けていくことが大切だけど(ネガティブケイパビリティ)、考えるだけじゃなくて、考えが少しずつ進化していけるように、活動もしながら、その中で新しい何かを少しずつ形作れたらいいな、と思っています。





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