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結果を追い求め過ぎない人生を(幸福論)

興味深く面白い記事を見ました。

「高学歴は使えない」は本当だった? 学校が率先して“マニュアル人間”を育てる異常な理由

ライターの方の細かな経歴等は存じ上げませんが、現場経験もある方のようで、非常にリアルで的確な指摘かと感じます。この記事を読んで、改めて「結果至上主義」の弊害を感じざるを得ませんでした。

日本に蔓延る「結果至上主義」

私もこの方と同世代ですので、ほぼ同じような育て方をされたと思います。つまり、我々が産まれた時代は高度成長の真っただ中、バブルに突入するような時代で、右肩上がりの成長が継続的になされていた時期でした。Japan as Number Oneなどともてはやされていた時代。我々が小さい頃は親は兎に角勉強して偏差値の高い高校、大学へ進学し、官公庁や大企業に就職することを期待しました。そうすることで、その後は年功序列・終身雇用の波に乗り、安定した人生が約束される。事業は自然に拡大しますので、部署が増え、部課長のポストも増えていきます。そういう波に乗ることこそ正解と考えていた時代でした。

今までのエントリーを読んでいただければ少しはご理解いただけるかもしれませんが、私自身は天邪鬼ですし、そういう人生を歩んでいる父親をかっこいいとは一切思わなかったですし、正直嫌だなと思っていました。ただ、これといったやりたい夢がある訳でもなく(プロ野球選手やミュージシャンになれればなりたいみたいな思いもありましたが、その程度で覚悟など無く)、中学くらいまでなら授業で習えば一通り頭に入っていたのでとりあえず親の期待に沿って生きていました。

そうして、高校、大学と進学し、大企業へ就職。勿論、親は喜んでくれましたし、その事自体は嬉しかったですが、やはり入ってみると違和感の連続。結果、そこを飛び出し地方起業をするも挫折、今は地方で暮らす1サラリーマンとして生活しています。

この人生を振り返ってみて、やはり自分自身も結果を強く求めていたし、周りの人たちも同様でした。大学受験で言えば、僕は1浪です。現役時代に落ちたときは親も落ち込んでいましたし、浪人後に受かると本当に喜びました。就職も同じく。僕も何となく、やっぱり結果を出すことに執着していました。結果を出せば褒められるし、出せなければ失望されたり、怒られたりする。これ、普通じゃんって思う方も結構いらっしゃるかもしれません。だけど、この評価基準、本当に正しいのでしょうか?

実際、右肩上がりの社会において、基本的にはやれば結果がついてきます。しっかり頑張れば結果が出る。そういう社会において、結果が出ない≒努力が足りない、これは概ね正しかったかもしれません。こうして、日本は戦後復興から高度成長にかけて、兎に角結果を追い求める社会になりました。人々はそれが当然だと考えていました。

結果はあくまで運

繰り返しますが、果たしてこれは本当に正しいのでしょうか?結論としては正しくありません。その理由は小タイトルの通り。結果はあくまで運だからです。優秀だから成功するわけでも、凡人だから失敗するわけでもありません。勿論、中にはそうと言えるケースもあるでしょう。しかし、殆どの場合、結果は運に左右されるのです。自分一人で出来ることなど限定的で周りの環境に大きく依存するのです。

リンク先の記事に書かれている事例で説明します。学校の先生は「優等生を輩出する」という結果を求められています。具体的には偏差値の高い学校へ進学することでしょう。そのために、彼らを落ちぶれさせないよう特別扱いをすると書かれています。確かに、やんちゃな生徒はすぐ先生の監視下に置かれますし、成績の良い生徒は比較的放任されます。先生も怖いからか、ヤンキーは結構放任されたりしていて、その矛盾を感じることもありましたが。

また、トラブル回避至上主義についても言及があります。変なトラブルを避けるため、良かれと思って別クラスの生徒を指導するようなことは避けろという空気です。

これらは全て「結果至上主義」からくる施策です。教員は結果で評価されるので、結果を出すために、優等生には優しく円満に進学してもらおうとするし、別クラスの生徒は自分の管轄外と考える。事なかれ主義の蔓延も結果を求められすぎるから来る弊害です。自分の成果に直結しないことはしません。

では、優秀な生徒=偏差値の高い学校へ進学する生徒、と定義付けるとして、優秀な生徒は果たしてその先生の手腕にどれほどかかってくるのでしょうか?僕自身、学生時代を振り返ると教え方の上手な先生、下手な先生、色々居ました。覚えてる限り、中学の数学の先生は面白かった。高校の歴史の先生も楽しかった。他方、中学の英語の先生は全然ダメでした。今思い出しても日本人英語丸出しの発音でした。高校の国語の先生も酷かった。だけれども、僕は受験で武器になっていたのは英語です。数学は足を引っ張った。別に先生のお陰で上達したわけではないのです。

勉強のできる子はほっといても勉強ができます。それほど努力しなくてもできます。だけど苦手な子は相応の努力をしないとなかなか身に付きません。後者のような生徒を手取り足取り指導して勉強ができるようになり、良い学校に進学したとしたら、これは先生の成果と言えるかもしれません。ですが、前者の生徒が良い学校に進学しても、それはたまたま良い生徒を預かっただけであり、運や縁の話なのです。それをもって評価はできないのです。後者の例もたまたまその生徒と先生の相性が良かったのが理由かもしれません。

これ以外にも、世の中のほぼすべての事象は、前提として結果は運に委ねられます。上述の通り、そうじゃない例外も勿論あります。また、運だからと努力を怠っていい訳ではありません。それは鼻から土俵に上がれないことを意味します。土俵に上がった後は、最終結果は運に委ねられる、ということです。結果に至るまでの過程としての努力はやはり必要ですし、その事こそ、結果とは別に人生の糧になるのです。

結果を神様に委ねたら、人生楽しくなる

結果を神様に委ねたら、人生は楽しくなります。いや、別に神じゃなくても良いです。運でも良いし、仏様でも良い。なんでも良いですが、兎に角自分の守備範囲の外側にあると考えるということです。運を呼び込むために高価な壺を買う必要もありません。この発想自体が、結果をコントロールできる(しかも金で)と考えている証左です。

例えば、僕は大企業を辞めた時に、地方起業を決意しました。その時、数年後には年収1千万オーバーで取材や講演なんかで注目され、海外を行き来しながら楽しい人生をすごすように、きっとなる(なりたい)と妄想していました。現時点までの結果は以下の通りです。

起業成功→挫折(再びサラリーマンへ)
年収1千万オーバー→失敗(前職退職時より少ないくらい)
取材や講演でちやほや→依頼無(ちなみに起業して数年は結構そういう機会がありました)
海外を行き来→コロナ禍が来る前からほぼゼロ

ですが、思いもよらない結果が待っていました。

一生独身でええかな~→子供2人に恵まれる
持ち家とか要らんやろ→購入(勿論ローンで)

で、今自分はどういう心境かというと、めちゃくちゃ幸せです。本当に結婚とか子供とか20代の頃は興味なかったですが、30に入って急にこのままで良いのか?という思いに駆られました。非常に幸運にも、今の奥さんと出会い、結婚し子供にも恵まれる。家もどうでも良いと思っていましたし、海外志向も強かったのでノマドでいいと考えていましたが、子供が居ると家がある安心感に気づきます。元々、自分が描いていた人生設計が殆ど上手く行かず、全く入っていなかった項目が入ってきましたが、結果的にはめちゃくちゃ幸せな日々を過ごしています。こういう自分の経験を踏まえて結果は運でしかないと思うし、望む結果が出ることが幸福に繋がる訳でもないと感じるのです。

プロセスを大事に

ですので、結果が出るかどうかはさておき、「こうなりたいからこうする」の、「こうする」の部分をより大事にしてはいかがでしょうか?上述の通り、「こうなりたい」が必ずしも正解ではないかもしれません。ですが、「こうする」というプロセスの部分は必ず何かしらに生きてきます。起業には失敗しましたが、その過程で学んだことはこの先きっと生きてくるように思います。それはもしかしたら直接的ではなく間接的に効いてくるかもしれません。

今の50代以上の世代の方々は結果至上主義の世界を生きてきた人たちですので、こういう新しい価値観は受け入れがたいかもしれません。そういう甘いことを言ってるからダメなんだ、最近の若いもんは、、、というお決まりの型にはめてくるかもしれません。でも若い皆さんはここはもっと狡猾に生きましょう。そういう価値観で成功したという事実を認めた上で、聞いて聞かないふりをしましょう。これだけ社会が発展し、成熟した中で、これからの世代はそれぞれの本当の幸せを追求すべきだと思っています。沢山の仕事はAIやロボットが代行してくれます。その空いた余力を活かして人はもっと解放されるべきじゃないかな、そう思っています。少なくとも、結果という非常に微妙なバランスの上にあり、自分ではコントロール不能なものに拘泥せず、それまでのプロセスを大事にすることで、人生はもっと豊かになると考えています。


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