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満月の夜話(11) - 満月を踏む -


「ええか?圭輔けいすけ、満月の日は下を向いて歩け」
「どうして?」
「万が一、満月を踏んだらとんでもねぇ事になるからや」

幼き日、初夏の満月の夜、縁側で祖父から確かにそう聞いた。
・・・・・・爺ちゃん、確かにとんでもねぇ事が起きたわ。



強い空気の流れで目が覚めた。
眠っている間もずっと背後からの風を受け続けていたはずだ。
なぜ同じ風で目が覚めるのだろう。

やはりまだ続いているのか・・・・・・? 夢ならばいい加減覚めて欲しいが、睡眠からは今目覚めたばかりだ。だからこれは夢ではないのだろう。
あれから一体どれくらいの時間が経ったのだろう・・・・・・?

7月21日は何でもない日曜日だったはずだった。特に何かフラグを立てたわけでもなければ、特別な晩餐をしたわけでもない。
そもそも私は最後の晩餐には、エビに関わる何かを食べようと小学4年生の頃から決めていたのに、その最後の晩餐を食べることすら叶わず・・・・・・
私は穴に落下した。

今思えば、それは夕立で湿った道だったからかもしれない。
それは街灯の切れ目で暗かったからかもしれない。
それはイッテQを見るために家路を急いだからかもしれない。
満月の夜だったからかもしれない。
そして、満月を踏んだから・・・・・・かもしれない。

とにかく、とにかく、私は突然落下した、穴に。
バス停と自宅との間に空いていたであろう穴に。

今の私には時間があると思われるので、とりあえず落下の瞬間を思い返してみる事にする。
まず、足元に段差のような違和感を感じた。例えば小学生の頃に、目を瞑って学校の階段を上るという遊びをした。最後の1段を上りきったにも関わらず、まだもう1段あると思い込み、更に上ろうと1歩を踏み出すが、実際には階段はなく踏み出した足がビンッとなる、あの違和感。
とにかく、そこに存在するはずのアスファルトが無かったので、小学生の頃のそれと同じように全身がビンッとなったのだ。

次に顔が急激に上を向いた。目の前の自動販売機で光る街の風景が消え、高速で視界が変わる中で、一瞬だけ満月が輝く夜空を見た、ような気がする。
そして水たまりに映った満月を踏んでしまった、ような気もする。

何が起きたか分からない感覚と、何かを失敗してしまった感覚。
大勢の前で大袈裟につまずいた時のような恥ずかしさから来るパニックに陥った。だが、次の瞬間にはそれは安堵に変わった。確かに躓いたは躓いたが、細い夜道には誰もいないから誰も見ていない。
つまり単純に自分1人が大袈裟に躓いただけ。その余裕からか次の瞬間にはナイキの靴が汚れていないかが気に掛かった。

しかし、違った・・・・・・。
落下する感覚はまるで終わらなかった、というかそれは今も続いている。
つまりよくよく、自分自身の起きた状況を考えてみても、いくら冷静にゆっくりと思い返してみても、やはり私は落ち続けている。
まだ落下し続けているのだ。そう、ずっとずーっと穴の中を下に下に。

落ち始めた頃はグルグル回ってパニックなりながら、もがき続け、相当ジタバタしたように思う。あくまで自分の体感ではあるが15分間ほど落ち続けた頃、私は一旦冷静になれた。
その時、私はようやく認めた。つまり私は今落ちているのだ、落下し続けているのだと。これが何の穴なのか分からないが、とにかく真っ暗な穴で、私は深い深い穴に落ち続けているのだ。

私は下に下に落ち進んでいる。つまり風が当たる方向が下となる訳なので、後頭部や背中に強い風が当たる今はたぶん上を向いている。
穴の外は夜なのだろうか、それとも深く遠いところまで落ちたせいで穴の入り口が見えなくなってしまったのか、それとも落ちた際の衝動でメガネを失くしたせいなのか、上を向いているはずの私の視線の先には何も見えず、黒色しか見えない。

だが、落下と黒色しかない世界の中でもたぶん私は生きている。
そして一旦睡眠を取った事も考えると、おそらく落ち始めてから半日以上は経っているだろう。お腹の減り具合で何となく分かる。空腹であるし、究極に喉が渇いた。
皮肉なことだ、この空腹や渇きこそが生きている事を実感できる唯一の感覚なのだから。よく知らないが、仮にパラシュート有りでもお腹が空くまで何時間も落下を続けた人間は、きっと世界中にいまい。
私は、人間が人生の中で落下に使う『生涯平均落下時間』を遥かに凌駕している事だろう。そんな統計があるかは知らないが。

そんな経験から1つ誰かに伝えておきたい事がある。
落下中に眠るときはうつ伏せでは眠れない。理由は風が顔に強く当たり乾燥がヤバい。そして運良くウトウト出来ても風が口に入った瞬間、アバババッとなってしまうためだ。だから寝る時は仰向けがよろしい。
仰向けになると不思議なもので、自分の部屋の柔らかいベッドよりも、中学生の頃に浮かんだプールよりも心地良い。無重力感覚のため肢体のチカラが抜けリラックスできる。それは落ちている事を忘れるほどの心地良さだ。
むろん、実際に落ちている事は決して忘れる事は無いが。
なお、横向けで寝ようとすると、カラダがクルクルと回転するのも一応伝えておきたい。

落下の先にはきっと死がある。日常生活の中、わずか3秒間落下しただけで人間は死んでしまう。その間わずか3秒だ。
ところが今の自分はどうだ?半日だぞ。
そのうち、コレどうなるんだ?逆に助かるのでは?とすら思えてくる。

だが、一般常識から考えれば助かるはずはない。だから、私がこの落下中に考えた事は世界や社会には絶対に残らないのだ。私は落下中で助からない身ゆえ、誰にも伝える事が出来ないのだから。
世の中にはたくさんの人間がいる。善人も悪人もいるが、突発的な死を迎える善人よりも、死を迎える予定日が決まっている死刑囚の言葉の方が残りやすいのは、考えてみれば皮肉なものだ。

私は落前らくぜん(落ちる前の自分を指す言葉。類語:生前)、本を読む事が好きだった。寝る前や休日の読書は私の趣味、そして通勤や病院の待ち時間など、暇を見つけては沢山の本を読んだ。
本一冊を読み切り、本に書かれた世界を知ることで、賢くなったように感じた。そして何よりその感覚に満足していた。
その満足感という快楽世界にもっともっと深く浸かりたくて、次々と本を漁り、暇な時間は全て読書に費やした。

だが、落後らくご(落ちた後の自分を指す言葉。対義語:落前)の今は違う。
こんなに時間と暇を持て余しているにも関わらず、本を読みたいとは思わないし、思えない。私は今、読む事よりも誰かに何かを伝えたいのだ。
今の自分の感情や考えを文章として残したいと、素直にそう欲する。

落前の自分は読書という受信ばかりを行い、なぜ自分の感情や考えを発信しなかったのだろうか?
それは、今の自分が”落下”という"特別な経験"をしているためだろう。これは海外旅行に行った"特別な経験"をSNSで発信したいと考える感覚に近い。
芸能人であれ、時の人であれ、特別な経験を有した人間の言葉と発信は確かに絵になる。つまり、発信には特別な経験の所有が必要となるのだ。

だが待て、落前の自分は特別な経験を何一つしなかっただろうか?
何も無い人生だっただろうか?
否、きっと自分にしか感じ得ない特別な経験が沢山あったはずだ。
そしてそれは皆も同じではないか?
日常は日常に過ぎない。ゆえに特別な経験など日常には存在しない。
だがその日常の中で考えた事、閃いた事、感じた事を織り交ぜた一瞬は、世に発信できる "特別な経験" と言えるはずだ。
例えそれが小さな感情や些細な気付きであったとしても。

『オンリーワン』や『個性』を剣や盾のように振り回す雑音が多い社会の中で、本当に行き着くべき考えとは自己の中にあるはずだ。
自己に意識を向け、自分自身に降り注いだ経験と感情や閃きを特別な事象として逃がすことなく捕らえ、それを正しく表現し出力する事。
それこそを "創作" と呼ぶのではないか?

今なら一冊の本が書けるかもしれない、落下中ではあるが・・・・・・。
タイトルは『落下男』か?『満月を踏む』か? それとも『日曜日の夜道で穴に落ちてからすでに1日ほど経過している件』か?


・・・・・・。
・・・・・・あぁ、やっぱりダメ?
落下中にも関わらず、こんな風に真面目に考えて、”世の中の悟り”みたいな事を呟けば、『よくぞ、悟った圭輔よ』という風なヒゲが出てきて、『これからはその信念を忘れず生きるが良い』そして気付けば自分のベッドだった・・・
なんて事が起きないかと考えたが、起きなかった。
起きないのかぁ、コレじゃなかったかぁ。と少し凹んだら急に眠くなった。



目を開けても黒色なら目の役割はもう無い。色は夢の中だけの存在だ。
夢の中では確かに足が地面に付いていたのに、目が覚めたら空中。自分とは逆の生活をしている平凡な誰かを想像すると悲しくなり、自然と涙が出た。
涙が目尻を伝い、私の体から離れると上の方へと飛んでいく。
落下中の涙は上に落ちる・・・無理やり笑おうとすると更に涙が溢れた。

感情を水源とする涙には必ず意味がある。
涙とは感情表現だ。全ての "表現" には涙と同じように意味がある。他人の表現を"理解"する事は容易い。なぜならそれは経験や勉学の応用から答えを導き出し、日本語の意味を正しく "理解" する事に過ぎないからだ。
例えば、どれだけ難解な表現であったとしても、日本語として正しくさえあれば、国語の知識をもって意味を理解出来るはずなのだ。
だが、本当に重要な事は "理解の先" にある。

  なぜこの人は涙を流したのか?
  なぜこの人はこういう表現をしたのか?
  そして、なぜこの人はこういう文章を書いたのか?

今なら分かる。表現を自分にとって分かり易い日本語に当てはめ、理解する事が完了ではない・・・・・・。その理解の先にある表現の根拠を探し出し、考える行為こそ "読む" という事なのだ。
例えば『男は涙を流した』という文章の意味を"理解"する事は容易い。
だが、涙を流した原因は何か?  更にその先、創作者はなぜ男に涙を流させたのか?という根拠を考える事こそが "読む" なのだ。

だから、創作者は他人に対して "読ませる" 表現を創作する事が求められる。
創作者は物語の一節を単純な文章で表現する事も可能であるし、分かり易い比喩で表現する事も、そして難解な表現を選択する事も可能である。
だが、それが表現である以上、"創作する" よりも "読ませる"を優先する事が重要ではないのだろうか?

落下中の私にはそれを検証する術が無い。だがもし私が落前の自分に戻れるならば、私は他人の言葉をよく聞き、そして仕草や表情に目を配り、理解の先、表現の先を『読む』ことに尽力するだろう。
そして、他人に『読ませる』ことを優先した表現に徹した出力を行う事で、落前の自分とは異なる人間になる事を目指してみたい。

そして、落下し続ける男の状況と心情をどのような文章で表現すれば、他人が "私を読んでくれる" のか?創作に悩み続ける日常を送ってみたい。

だから、もう一度他人の表現に触れたい。もう一度誰かと話がしたい。
もう一度世界に生きてみたい。


・・・・・・。
・・・・・・これでもダメ? やっぱり?
やはり『よくぞ、悟った圭輔よ』的なヒゲは出てこない。
喉カラカラ、涙が飲みてぇ!と、舌を伸ばして変顔をしたのが悪かった?
ヒゲが出てこないから状況は変わらない。
もおぉぉ〜!!どこまで続くのだ、この落下と暗闇は・・・・・・


食べなくても1週間くらいは生きられる、昔、電波少年で知った。
だが、喉の乾きはもう限界だ。そろそろキツいかもしれない。
考えや意識が途切れる頻度が高くなってきたようだ。
意識が途切れ続けた先に待っている死が怖い。

霞む意識の中、落下中の特別な経験を綴った私の本が出版される夢を見た。
若くて可愛らしい担当編集者が私に檄を飛ばす下らない夢だった。

『先生、物語の完結部が書かれていません、頑張って書いて下さい!』
『完結部?君、完結部ってのはオチの事だろ?落ち・・なら・・・・・・』
と、私はニヤリ笑う。
『うまい事を言うコーナーではありません!完結部を書いて下さい!』
再び飛んだ檄に、妄想の中の私は微笑みながら優しく悩むふりをしていた。



今の私自身がそうであるように、人は死ぬ前に何かに感謝するか、または何かを憎んだりするのだろう。私には憎むべき対象がいるだろうか?
その対象とは、死の元凶となったモノとするのが分かり易い。
人が憎い、病気が憎い、年齢が憎い、社会が憎い・・・・・・
やはり私には憎むべき対象はいない。憎むとしたら、それは満月だろうか。
それとも満月を踏んでしまった落前の自分の行為だろうか。

人間は生まれるとすぐに死に向かいひたすら進み続ける、そしてそれを止める事は出来ない。僧侶や神父がよく使う言葉だ。
死に向かう、止められない。それは穴に落下し続ける事も同じだ。
生きる事と落下する事が同じであるならば・・・・・・
落下は一体いつから始まっていたのだろうか?



人間が生を受ける事を『生まれ落ちる』と表現する。
意識の最後の寸前、私はその"表現"が腑に落ちた。




#創作大賞2024 #オールカテゴリ部門


長い内容をお読み頂きありがとうございました。
次回の満月は8月20日(火)らしいです。来月も頑張ります。
前回作の「満月カレー」は私の記事としては沢山のスキを頂きました。満月話の中でも最高記録のスキでした、ありがとうございました!
暑さが本格化して参りましたので、皆様お気を付けてお過ごし下さい。


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