見出し画像

大人と子ども

8月2日夜、ついに初めて血痰が出た。 もう死を受け入れようとしていた私だけど、やっぱりちょっとショックだった。

8月4日、朝から飼っているインコの鳥カゴを掃除したら、それだけでめっちゃ疲れた。 しばらく寝てた。 てか、寝ることしかできなくなる。

最近は、料理もやめた、庭の水遣りもやめた、子どもと近くの公園に行くこともやめた、家事も朝ザッと片付けることしかほぼしない。 子どものゴハンを作ることはたまにある。 でも本音を言えば、出来合いのものですませたい。

やめた、と言っているがほぼ出来なくなったのだ。

でも絵は描いているし、こうしてブログも再開した。 これはいろんな人が支えとなる声かけをしてくれたおかげだと思ってる。 言われて本当に嬉しかった言葉もある。

コロナ、というご時世もあるが、近くの公園にも行かなくなったのは少し寂しい思いもある。 私は長い闘病の間、よく公園で息子の同級生や近所の子どもたちと遊んだものだった。 家の中や家の前でもよく遊んだ。 その息子ももう中学生だから、もうそんなに公園で遊ぶことに魅力は感じなくなっているだろうが、私が遊んであげているようで、実は私が遊んでもらっていたんだなぁ、と思う。 私にとっては、無尽蔵に湧き出る泉のように、元気を与えてくれるものだった。 子どもたちは本当に一人一人、魅力に溢れている。 みんな感情に素直でまた、大人のようにアレはダメ、コレはイイと判断することが少ない。 要するに自分のあり方をそのまま出せる、ということだ。 変なバイアス(偏った見方)がない。 そういう人と一緒にいると、楽しいし夢中になるよね。 やるぞ!、という気持ちになる。 知識は本来人生を豊かにするものであったはずなのに、今は誰かが都合よくなるように作られた知識がほとんどだよね。 それは知識じゃなくて、脳に溜まるゴミみたいなものだね。 それも気づきにくくなってる。 そして今は残念ながら、大人になる=自分を殺していく、ようになってしまっている。 もちろんその中でみんな、自分がイキイキできる場所を探し、探し出せなかった人は人生に落胆するんだと思う。 でももともとが違うと思う。 みんなアレコレ言われ過ぎ、プレッシャーを与えられ過ぎて育ってきたけれども、自分を殺すことなんかない、ずっと自分のやりたいことだけをやって、やりたくないことはやらなくていい。 文字通りそれは、自分を殺すことになる。 何かを信じて一生懸命生きてきたのに、気づいたら生きづらくなっている自分を発見することになる。 この生命・魂は我慢するために存在しているのではない。 でもどうして世の中にはこんなに辛いことが多いの?、と思うかもしれない。 でも辛い、という感情は、辛い経験を通してしか真に理解はできない。 そしてその辛さを体験して、その辛さから、その辛さをバネにして、自分を解き放つためだ。 白い色の良さをより理解するためには、黒い点が必要なのだ。 物事は反対を経験することによって、より正確に理解できる。 どうしようもなく辛い体験をしている事も、逆を返せばそこまで辛い体験ができるのは、良い体験ができるのと同じように、貴重な体験なのだ。 いや、学べる量で言えば辛い体験の方が遥かに優れている。

どんなに辛い時も、自分自身の価値は決して下がらない。 そしてその中でも、その後でも、あの頃の笑顔を忘れないでいよう、思い出そう。 人間いろんな状況の人がいる。 囲まれている環境は人の数だけ違う。 でも "生きる" ということがどういう事かは、みんな同じ。 輝いている自分を取り戻そう、お金や時間なんかのしもべになるのはもうやめよう。 何にでも判断してしまうのはやめよう。 イイ、ワルイの判断は永遠に終わらない。 どんな時だって、あなたの内には、子どものように輝くあなたがいる。 存在しているだけで、既にあなたは最高なのだ。

p.s.  一緒に遊んだ子どもたち、ありがとう!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?