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「もっとも美しい姿に創造した」は本当か?:無花果とオリーブ(第3回/全8回)

アッラーは次のようのおっしゃった。

وَالتِّينِ وَالزَّيْتُونِ {1} وَطُورِ سِينِينَ {2} وَهَذَا الْبَلَدِ الْأَمِينِ {3}
 

سورة الزبتون 1,2،3

①無花果(ティーン)とオリーブ(ザイトゥーン)(に誓って)、②シナイ山(に誓って)③そしてこの平安なる町に(誓って)、④実にわれらは人間というものをもっとも美しい姿(アハサン・タクウィーム)で創造した。⑤それから、われらは彼をいちばん低いところへ(アスファラ・サーフィリーン)戻した。

神に誓って、神が誓って

この部分は、《聖典クルアーン》「無花果章」全8節のうちの冒頭から5節までである。イスラーム教徒たちがマッカからマディーナに移り、共同体を形成する以前に、マッカの時代に降されたものであるとされる。第3節までは、「カサム」すなわち、アッラーご自身が行う誓言についてその際の引き合いが示されている部分にあたる。あえてカタカナで書けば、ワッティーニ・ワッザイトゥーン・ワトゥーリ・シーニーン・ワハーザルバラディルアミーン」となるが、その際の「ワ」という言葉が目印になる。人間が誓いを立てる場合であれば、「アッラーにかけて」と言えば用が足りる。「神様に誓って」と言えば、アラビア語だけに限られた物言いでないことがわかるかもしれない。

文法的に少しだけ踏み込んでおけば、アッラーという言葉の前に、「ワ」を置く。この場合の「ワ」は前置詞。そして、その後ろの言葉の語尾が、所有格になる。なぜこのような、耳慣れない説明になってしまうのかというと、アラビア語という言語においては、名詞の語尾の発音の変化で、他の言葉との関係を示す。日本語であれば「助詞」を用いて表すような箇所が、「格変化」、より具体的には語尾の発音の変化によって示されるのである。「てにをは」を間違えると日本語では意味が通じなくなるのと同じように、アラビア語で語尾変化を間違えると話し手の意図は伝わらない。
「ワッティーヌ」と言ったのなら、語尾の母音が“u”になっているため「そしてアッラーは」となってしまう。「ワッティーニ」と語尾の母音が“i”になってはじめて、「カサム」となる。

「ワッラーヒ」の威力は大きい。ただ多用すれば信ぴょう性は薄れると思うので、私は、真実であることを強調する際、ここぞというところで使うことにしている。そんなカサムを使ってアッラーは、ムハンマドを通じて、アラビア語話者たちに語り掛けているのだ。しかもここでカサムに用いられている4つというのが、イチジクとオリーブとシナイ山とマッカの町である。滋養に溢れ、薬効も期待できるイチジク、それに加えて類まれなる灯かりの燃料としても重宝されたオリーブ、一神教の重要スポットとして外すことのできないシナイ山、さらに、イスラーム生誕の地、安全な都としてのマッカ。アラブ人たちには納得の4つのアイテムだったのであろう。この4つに誓ってとアッラーに言われてしまったら、どうしても受け入れる。それらは歴代のクルアーン注釈学者たちの想像力も大いに掻き立て、アーダム、イエス、モーゼ、ムハンマドと言った預言者たちのことであるともされた。

神が誓って宣言したのは?

これらを引き合いに降されているのが、まずは次の2節であった。

 لَقَدْ خَلَقْنَا الْإِنْسَانَ فِي أَحْسَنِ قْوِيمٍ {4} ثُمَّ رَدَدْنَاهُ أَسْفَلَ سَافِلِينَ {5}

سورة الزيتون 4,5

「実にわれらは人間というものをもっとも美しい姿(アハサン・タクウィーム)に創造した。それから、彼をいちばん低いところへ(アスファラ・サーフィリーン)戻した。」

アラビア語で降されていて、アラビア語以外に直された途端に、聖典であることをやめてしまうクルアーンではあるけれど、日本語訳があれば、どうしてもそれが目に入ってしまう。

手元の対訳を眺めてみる。私が長く使ってきた対訳では、《本当にわれは、人間を最も美しい姿に創った》とあり、また、最新のクルアーン注釈学の成果も踏まえて作られた対訳でも、《確かにわれらは人間を最も美しい姿に創った》となっている。

私自身も、この聖句は数えきれないほど、アラビア語で読みあげてはいる。「アハサン・タクウィーム」と口にすると、アハサンとタクウィームのそれぞれの語のイメージが頭に浮かぶ。アハサンは、「最良の」という感じ。「タクウィーム」は「何か形として出来がっているもの」のイメージである。ただ、訳語となると、「もっとも美しい姿に(創造した)」と機械的に置き換えていたように思う。

イメージの方の話を続けよう。私がこの「アハサン・タクウィーム」という言葉から想起する意味は、決して「もっとも美しい姿」ではない。「もっとも美しい」ならば、「アジュマル」という言葉の方が一般的であるし、「姿」は、「スーラ」である。このように、クルアーンの啓示の文言と、自分の中のアラビア語の語彙とそのイメージが一致しないのである。となれば、すっかり置き替える代替案が欲しいところだ。

イスラーム研究全般にあって、私の師の師に当たる世界的権威、井筒俊彦は、この箇所を「いともめでたき作りばえ」としていた。「いともめでたき作りばえ」からクルアーンの原文を再現することは、これもまた至難の業だ。出来上がった姿の称讃にはなっているけれど、もっともよいタクウィームの何たるかが皆目見当がつかない。

しかしながら、それこそ万人の目に触れることが前提となっているこれら聖典の出版物の対訳において、タクウィームを「姿」と訳すにはそれなりの根拠がある。手元の現代を代表する注釈書の一つ、サーブーニーの注釈書を開いてみる。すると、クルアーン注釈ではよく引かれるムハンマド逝去直後の世代の学者に「タクウィーム」とは「姿」とする見解を見出せる。

人間と他の動物を区別するのは

とはいえ、これで、「タクウィーム」についての違和感が消えるわけではない。「姿」でよいのなら、なぜ、「姿」の語で啓示を降さなかったのかという疑問が残る。「タクウィーム」という語は、「カウワマ」という動詞の名詞形である。アラビア語の動名詞については、動詞の意味からヒントをもらえることが少なくない。「カウワマ」とは基本的に「まっすぐにする、伸ばす」という意味。「カウワマ」が「カーマ」すなわち「立つ」「起きる」という言葉の他動詞の形であるとするならば、「まっすぐに立たせる」という意味も出てくる。名詞に戻せば、「直立」となりうるのだ。にもかかわらず、日本語の対訳がそうであったように、アラビア語による注釈書でも、「タクウィーム」を姿や形として解釈されることが多い。

そんなときこのごろの私は、イスラームの科学と文化、学問が花開いた中世期のイスラーム世界で活躍したムスリム大学者、アッラーズィーの注釈を参照することが増えている。そこには、先例に縛られず、自分たちにとっての自分たちの時代の意味を引き出そうとする旺盛な知的探究の息吹が感じられるのだ。

「タクウィーム」とはあるものをそれがそうであるべきつくりとバランスの上に固定化すること。人間がまっすぐに立ち上がる。人間は直立し、それを保つ。

彼は、「直立」に「人間の本質」を見出し、「至高なる御方は、ルーフの持ち主をすべてうつむかせたが、人間だけはそうしなかった。至高なる御方は、人間を長身に創造し、食べ物を手で食べるようにした」と指摘する。

「タクウィーム」の前の「アハサン」は、「ハサン」(良い、善い、好い)という言葉の最上級の形であるが、「直立」の最も良いものということなので、つまり、「最良の直立」となる。直立の中でも、最も良いもの、となれば、二足歩行で手が自由に使える「直立」ということになる。手が自由に使えれば道具の発達にもつながる。こう解してみると、「タクウィーム」と「アハサン」の結びつきもしっくりくる。

動物の中には、瞬間的になら直立ができたり、あたかも直立しているかのように見えたりするものもいるが、骨盤を挟んで大腿骨の上に脊椎が乗っているのは人間だけであるという。なるほどこれは全人類に共通しているし、具体的でわかりやすい。万有引力の圧倒的な支配を知ればこの特質の偉大さはさらに際立つ。「アハサン・タクウィーム」を「最も美しい姿」と解したときと比べてみて欲しい。「最良の直立(の状態)に創造した」。これで拙い私のアラビア語力の引っ掛かりも解消する。アルハムドゥリッラー。アッラーはすべてを御存知。


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