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法にとっての「水源」とは:「寅子」に学ぶ法

「水源」は法律か?

寅子と桂場(東京地裁所長)のやり取りから見ておこう。

寅子:共亜事件の後、私、桂場さんに、「法とは何か」というお話をしたんです。
桂場:ああ、君は「法律はきれいな水」「水源みたいなもの」と言っていたな。
寅子:うれしい。覚えていて下さったんですね。
桂場:(唇を鼻の頭につけるようなしかめ面)
寅子:憲法が変わってもなお、社会のあちこちに残る不平等を前にして思ったんです。きれいなお水、水源は法律ではなくて人権や人の尊厳ではないかと。
桂場:民事第24部。君の配属先だ。早くいけ。(右手を挙げて追い払う仕草。さらに寅子の退室後、寅子の成長をかみしめるかの微かな含み笑い)

NHK連続テレビ小説「虎に翼」第20週97回

前回取り上げたときには、「法律が水源」としていたのであるから、法学的には、かなり大きな変化である。なぜならば、「法律」は仮にも明文化されたものを指すが、「人権」や「人の尊厳」は、明文を伴わないからである。
寅子は、新潟での裁判官としての基礎固めをへて、法律の文言自体が存在するだけでは、「水源」とは言えず、「水源」というからには、法の文言の背後にあって、法を動かす究極的な価値を湛え、その実現への道筋が辿れてはじめてその名前に値するという理解に変化したのだと理解した。

無差別攻撃は国際法違反

日本国憲法がその名宛人としているのは、「すべての国民」であるのだが、まさに社会は不公平に満ち溢れていた。その現実を変えるためには、法律だけがあって、不十分。いきわたらせるべきは、法律そのものではなく、法によって実現される、人としての権利であり人の尊厳。それを女性初の裁判官として実現しようというのが、寅子の現実であり、「原爆裁判」を担当することになった寅子の苦悩であろう。

人間一人一人の人権が守られるべきだというのであれば、たとえ敗戦国で無条件降伏をしたとしても、無差別攻撃とその脅威にさらされたことは事実であり、戦勝国であったとしても一般市民を無差別攻撃にさらした責任が免除されるのは、ひとり一人を守る人権の考え方からは離れている。

一時休戦さえできない現実

世界人権宣言」が国連で採択され、「国際人権規約」「国際刑事裁判所規程」「ジェノサイド条約」「難民の地位に関する条約」「拷問等禁止条約」など、国際的な法的な枠組みは存在する。
日本政府が1990年代に提唱した「人間の安全保障」においても、恐怖からの自由、欠乏からの自由、尊厳をもって生きる自由」の実現が謳われており、シリア、南スーダン、ガーナ、アフガニスタン、コロンビアなどで様々な活動が展開されている。

1950年代の原爆裁判は、その後、国際司法裁判所(ICJ)の「核兵器の合法性に関する諮問意見」(1996年)を経て、核兵器の使用が国際人道法の原則に反するものであることは認められつつも、全面的な禁止には至っていない。

ウクライナ戦争にしても、イスラエル政府によるガザ地区にたいする虐殺行為、あるいはパレスチナ人居住地に対する攻撃にしても、一時停戦でさえ実現できず、多くの子供たちを含む犠牲者を増やし続けているのが現状だ[1]

学ばない人類

国家主権を絶対化することによって引き起こされたのが、2度の世界大戦であり、いまだに一部で根強く正当化されるヒロシマ・ナガサキへの原爆投下である。そして国家主権の絶対化の反射的効果で踏みにじられるのが人権であり、人間の尊厳である。
国家主権と領土保全の、人権と人間の尊厳に対する優越性は、その後も変わってはいない。ハマスを殺害するのは、イスラエル国家の主権と領土を守るためであり、それに一般人の犠牲が伴うのは、やむを得ないということだ。
歴史的にはそこに住む人々がそれぞれの信仰を守りつつ、共存が実現していた土地だ。なぜ共存が破られたのか、それは、イスラエルという国民国家の樹立に尽きる。つまり、国家主権とその領土の保全の絶対化が元凶とさえ言いうる。

人間が造ったものを絶対視するなど、どうかしている。世界史を見るがいい。国家、王朝の類は、幾多の変遷を繰りえしている。絶対視するのであれば、むしろそれらをそうさせているものの方であろう。それらは、見ることができないため、様々に、それぞれにそれを表す言葉が用いられている。

神の支配か人の支配か

人権も、人間の尊厳も、絶対視しうるものではないが、それらを国家が与えてくるのかというと、現状、それもまた十分な回答とは言えない。一つ確かなことは、国家は、国民に対して財産なり生命なりの拠出を合法的に求めうるのに対し、人権も人間の尊厳も、命を差し出せとは命じないというということだ。水源としてたどるべきはどちらなのかもはっきりするというものだ。

ただ、これらの概念は、いかようにも意味を盛り込めるという側面も持つ。解釈者、運用者の恣意性の餌食にもなりうるのだ。法の支配は、しばしば、支配者にとって都合の良い法の支配であって、ひとり一人を守るための法の支配になっていない。桂場判事が人権だの人間の尊厳だのという寅子を相手にしなかったのが、人権や人間の尊厳自体が持つ曖昧さへの警鐘ではあっても、退室後の一瞬の微笑に、彼の共感を見た。

「人権」や「人の尊厳」は、日本国憲法下で実現されるべきものであると同時に日本国の領土を超えて、全世界において、「すべての人」が享受すべき根源的な権利であり、「すべての人」がこの世に生きることの存在証明でもある。「この世に生を授けられたこと自体」を全面的に肯定してくれる存在を想いつつ。アッラーフ・アアラム。

脚注

[1] 「パレスチナ自治区ガザの保健当局は8月15日、昨年10月の戦闘開始以来の域内死者数が4万人を超えたと発表した。停戦を巡る協議は同日にカタールの首都ドーハで始まり、16日も継続する。カタールと米国の当局者が明らかにした。」8月16日14:37 発信(Reuter)


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Special thanks to まれ(ほまれせん)kippis_s


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