日本的多神信仰とは:アラブ人日本語学習者へ
一神教と多神教
宗教を分類するとき、しばしば登場するこの分類。イスラームは「一神教」だけれど、日本人の信仰は「多神教」だという具合に使われる。しかし、この2項対立は、しばしば水と油のように考えられています。
現に、クルアーンによれば、多神教は、イスラームの敵。悪魔の所業でもあります。したがって、現世では教化あるいは布教の、来世では、地獄行きの対象になっています。日本人の多くは、そもそもこういう過激な物言いは好みません。さらに、毎日の礼拝に、年に一度の断食、一生に一度の巡礼などの信仰上の務め。これらも、多くの日本人たちの宗教との向き合い方とはあまりにも違います。
となれば、どうしても距離を置きます。日本人にしてイスラーム教徒の私からすると、それは、お互いのために不幸なのかなと思えます。一神教と多神教の相互理解こそが、現在だけではなく将来にわたって人類社会全体の幸福に寄与しうると考えられるからです。
「一」なのか、「多」なのかの議論の前に
一神教と多神教の話を扱おうとすると、大抵、神は一つなのか、多数なのかという議論になります。イスラーム神学では、神の唯一性が神の重要な属性の一つです。そこでは、二つではない、三つではない、ましてや多数でもない。何故なら世界は一つなのだからという議論が行われます。
まず数の話をする前に、気を付けるべきことがあります。それは、「神」という概念自体の違いでです。神道の神々は、アッラーの有する絶対性とはまったく無縁。むしろ、アッラーの天使や、アッラーの美名、あるいはカサムの対象に当たるようなものに近い。それが神とされている。イスラーム神学の学者たちも、天使や美名が一つではなく、多数存在することを否定しないはずです。それらが一つであるとしてしまえば、それこそ、シルクに当たります。
つまりイスラーム神学の言う神は、神道で神と呼んでいるものではないのです。神道の側からすれば、神道にも、そして仏教にも「アッラー」に当たるような神という概念は存在しないのです。
八百万の神々
神道には、八百万の神という言葉があります。もちろん800万個の神様がいるという意味ではありません。この場合「八百」は、数が極めて多いことを意味します。「万」は、種類が極めて多いことを意味します。今はほとんど使われませんが、「万屋」と言えば、何でも売っているお店や、何でも一通りできる人のことを指します。したがって、「八百万の神」とは、数も種類も極めて多い神々という意味なのです。
日本では本当に何でも神様になります。最初は自然信仰、アミニズム。自然を畏れ、岩や大木に神が宿っていると信じました。例えば、海に並んで頭を出している2つの岩があれば、夫婦岩と呼ばれ大抵、信仰の対象になっています。写真は、三重県伊勢市の二見浦の夫婦岩です。鳥居と注連縄が見えますね。信仰の対象になっていることが分かります。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Meotoiwa.jpg#/media/ファイル:Meotoiwa.jpg
信仰の対象はこうした自然物だけでなくではありません。神話上の神々や、天皇、歴史上の偉人、ものにも神が宿ると考えました。平安時代以降は、それに、仏様や菩薩も加わります。それらが神の姿になって人々を救い、信仰に導くという考え方が広まりました。神社に仏様も祀られるということにもなったのです。
「神無月」と出雲大社
もちろん、神と言っても、イスラームが神として想定している神ではありません。数限りない天使のことです。日本の古い暦では、10月を「神無月」と言います。旧暦の10月を神無月と言います。「神の無い月」という意味です。日本最古の神社の一つである出雲大社(島根県)という神社に神様たちが集まります。神さまがみな出雲に来てしまうため、ほかの場所には神さまはいなくなります。そこで、その月を神無月と呼んだのです。
神様たちは出雲大社に寝泊まりして、「人の縁にかかわる万事諸事について神議」を行ないます。神々が皆いるのですから、出雲地方だけは同じ月を「神在月」と呼びます。
ところで、出雲大社自体は、特に縁結びの神社として有名です。その神様が縁結びの神様になったのは神様の力ではないのです。そこには出雲大社の信仰を日本全国に広めていた御師と呼ばれる人たちがいました。彼らは何世紀にもわたって良縁をつないできたのです。つまり人々の地道な努力の賜物でもあるのです。いずれにしても、神道の今に続く信仰文化です。
今もなお神さまともに生きる日本人たち
いまも、出雲大社では、神無月になると神様たちを迎える行事が行われます。その晩、全国から多くの信者たちが集まります。彼らは神々が到着されるとされる海岸で神職たちが行なう儀式を見守ります。そして出雲大社まで3キロメートル弱の道を一緒に歩きます。
ところで特別な信仰は持っていなくても、日本の若者たちは、「神〇〇」とか「〇〇は神」という言葉を日常会話でよく使います。野球やサッカー、テニスには選手にも、試合にも、競技場にも神がいます。小中学校のクラスには黒板消しの上手な生徒がいませんか。友達から「黒板の神」と尊敬を集めているという話をよく聞きます。
神が取りついたかのような技芸を「神技」と言います。関心があったら、授業後に検索をかけてみてください。たくさんの神業動画を見つけることができます。
生きているけれど仏様
私は現在90歳の母と一緒に暮らしています。彼女が生まれてからこれまで住んできた田舎の地域です。数十人いた小学校の同級生は、今や3人しか残っていません。それでも、近所の方々との関係は良好です。季節に自分で育てた野菜など、いろいろなものを届けてくれます。
そんな彼らについて、彼女は言います「うちにはたくさんの神様がいると」。神様が沢山いるという言葉を聞くたびに私は、少し苛立ったものでした。神は一つアッラーのみだと思ったのです。しかし、それは天使的な行為だと知れば、これほど有難いことはありません。
母親は生きているけれど仏様、近所の人々は神様だ。決して争うことをしない神様仏様。宗教の名前の戦争はここにはありません。何と平和な多神教の世界でしょうか。
神道における神とは
すでにお気づきのように、日本人の神々は、アッラーとは全く違うものです。
ギリシャ神話の神に近いかもしれません。日本で神様と呼ばれている存在は、多種多様で絶対的な神さまはいません。神ですらなく、霊的な何か、あるいは天使的な何かと考えられます。
絶対的でないのですから、分からないことが出てきます。かつて国作りに失敗した神からどうしたらよいかと相談を受けた天つ神が、占いをし直してみろと言ったという話が残っています。そこには、天地を造る神さえもが伺いを立てる「不定なるもの」が存在していたと想定せざるを得ないのです。(日本の宗教・倫理学者:和辻哲郎(1960年歿の指摘)
つまり、一神教に言う神に当たるものに名前が付けられていないのです。もしも神道の信仰でアッラーに近いものを探すとすれば、神の名が与えられていないこの存在だということになります。
それでも人々は祈る
八百万の神の存在は、人々に実にいろいろな願いがあるということを示してもいます。むしろ人々の願いをかなえてくれるのが神だとすれば、願いの数だけ神様がいると言ってもいいかもしれません。日本語には「困った時の神頼み」という言葉があります。「人事を尽くして天命を待つ」という言葉もあります。努力もするけれど、よく祈る人々です。
ところで、クルアーンによれば、危難に際しての神頼みはアッラーに届きます。
八百万の神々の世界からでも祈りは届きうるということです。
グラデーションの世界、コントラストの世界
その人々の使っている日本語は、アラビヤ語に比べるととにかく曖昧です。周りの顔色を見ながら結論を変えることができるからです。「アッラー以外に神はないかもしれない…」これを言うことができてしまいます。アラビア語ではこうはいきませんよね。
「ラー・イラーハ」で完全否定。「イッラー」で切り返して、「アッラー」が燦然と現れる。何というコントラストでしょう。
日本語は、曖昧模糊。アラビア語は、くっきりとした対照性。二つの言語の特徴です。日本語では、人々の微妙な心のグラデーションを探ることができます。アラビア語では、心に明確な像を投げることができます。クルアーンがアラビヤ語で下された理由もわかります。「明確なアラブの言葉」でなければならなかったのです。つまり、クルアーン的な一神教の世界がコントラストの世界だとすると、日本的多神教の世界はグラデーションの世界ということもできるでしょう。
上の写真は、出雲大社からさらに西に位置する温泉津という温泉地の焼き物工房の屋根瓦です。
これ、色がきれいに出なかったために商品にならなかった瓦だそうです。不完全な瓦たちだからこそ見せることができる美しいグラデーションの世界です。
人間は不完全なのに
一神教の世界に暮らす人々は、天国か地獄かというコントラストの中に生きているように思えます。イスラーム王朝の歴代の支配者たちは、この世に天国を創ってきました。天国の描写をモチーフにした庭園の建設です。しかしこの世に楽園を作ることができれば、地獄もできるってことです。
信仰の如何に関わらず、この世に天国を作ろうとする支配者は、往々にして人々を恐怖にさらし、地獄を押し付けますよね。
人間はみな不完全。楽園や地獄は来世に任せておけばよいのです。人間が不完全を認めない世界は、結局争いが絶えないのです。
敵と味方に分かれてすぐ戦い合う人間たち
世界はすぐ敵と味方に分かれて戦いだします。自分たちの神にとっての不信心者を見つけてはつぶしに行きます。
そんなことではないですよね。不完全ながらも生かされているのが人間たち。
二つに分かれて戦っている一神教的な世界に必要なのは、このグラデーションを認めることです。
完全な白も完全な黒もこの世にありません。実に様々な色があるのです。
そして、ラッビルアーラミーン(万有の主)としてのアッラーは、そのすべてを慈悲慈愛でもって包んでくださっているということです。
結び
日本語の勉強は、このグラデーションの存在を教えてくれるものだと思っています。
コントラストの世界とグラデーションの世界が調和できた時、きっと世界はもう少し平和になるはずだと確信しています。
それができるのが、ムビーンなアラビヤ語を母国語としながら、グラデーションの日本語を勉強されている方々。それは、まさに今このレクチャーを聴いて下さっている皆様。あなたがたなのです。
初出:
アラブ首長国連邦の2つの大学にてアラビア語で行ったオンライン講演の内容。(2022年5月)
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