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「政」と「教」の関係を問い直す:「方法論としてのイスラーム」その3


「政教分離」は、それほど普遍的か?

唯一神教の純化の歴史として天啓宗教の3つを捉えてみた時、政教分離原則は、イエスを神とし、信仰の対象とするものの、イエスは地上のルール[1]に従って十字架にかけられた。創造主たる神であれば、神自身が地上のルールによって裁かれることはない。

イエス自らがこの世のルールとあの世のルールは別であることを体現した格好である。そのキリスト教がローマによって国教化されたとしても、権力の2重性は変わらない。信徒の共同体が教会として組織化されたところでの国教化なのだから、むしろ、この2重性は、たとえば叙任権闘争のような形で先鋭化していく。

現世では報われなくても来世では救われるというのが、標語的にまとめたときのキリスト教になる。それを、現世で儲けることが来世での幸せにつながるとしたのが、プロテスタントの基本姿勢である。

しかし、この世とあの世の理屈が統合されていないため、この世の富はこの世のためにだけ使われ、あの世のためには使われないという状況に陥る。

政教分離は、ヨ-ロッパ半島の固有な歴史的な事情の中で確立していった特殊な社会原則である。それは、イエスが地上の法に従ったことに端を発し、その後信仰と政治が別の原理で動くようになったことに起因する。

この世でもよくあの世でもよい

イエスのありよう自体が、すでに、この世とあの世とを分ける、喉に刺さった棘のようなキリスト教。この世のルールをあの世に寄せることはついぞ叶わない。イエスという歴史的に実在し、ユダヤの圧倒的現世主義に対抗する形で、人々に寄り添った偉大な存在を神としている以上、この世かあの世かからの2者択一から逃げることはできないのである。常に内的な分裂の契機を孕んでいる。ココロの理屈とおカネの理屈は、別のもので、交差させてはいけないというのが、政教分離原則であるとも言える。

信じるものの理屈と、生活のための理屈が別で、これを交わらせてはいけない。となれば、一方では信仰のカルト化が、他方では、生活の理屈の全面化と信仰の形骸化がこれを待ち受けることになる。

心の理屈とおカネの理屈、信仰の理屈と生活の理屈、あるいは、あの世の理屈とこの世の理屈。こういった一見、相容れない2つのものを一つにまとめる理屈があれば、心の理屈のためのおカネが、生活のためのおカネに流れることができ、この世のシアワセがあの世のシアワセに直結するそんな信仰と生活の形が見えてくる。

アッラーを立法者とする法の存在

イエスを神の位置に置かず、あくまでも至高なる絶対的創造主たる神から遣わされた預言者の一人と位置付けるイスラームにおいては、すでにその時点で、人間が作ったこの世のルールを、この世のルールとして神が受け入れるという事態は生じえない。つまり、人の教えと神の教えが、同列に配されるという、政教の対抗関係が生じることはない。

法を見ればそのことは明白だ。「イスラーム」とは、「帰依」を意味する。アッラーに対する帰依である。アッラーに対する帰依とは、具体的に、アッラーの法に従うことである。現に狭義の「イスラーム」は、信仰宣明、礼拝、喜捨、斎戒、巡礼の実行を指す[2]。

しかも、これらは、大天使ジブリールを通じて、預言者ムハンマドへ、アラビア語で下された、アッラーの御言葉たる《クルアーン》とムハンマドの言行たる「スンナ」を不易不動の法源とする、シャリーア・イスラーミーヤ(イスラーム法)によって正当性が確保されているのである。

シャリーアを「アッラーを立法者とする法」と説明することがあるが、理論上は、地上のいかなる権力であっても、すべてアッラーの創造によるものであり、ここに政教分離の問題は生じえない。政教は一致なのである。

例えば、世界の独裁者の一人のレッテルを貼られているシリアのアサド大統領のシリア国憲法においてさえ、シャリーアが、憲法の法源の一つにあげられている。サウジアラビヤやイランにおいては、もっと明確かつ直截的にイスラーム法が国の統治の根幹をなしている。 

自殺を禁じるイスラーム、その例外は?

イスラームによる統治を行なうイスラーム国家、あるいは、ムスリムが大多数を占めるようなムスリム国家にせよ、あるいは、それら以外に住むイスラームの信徒たちにしても、法の実践は、とても法が予定している通りとは言えない。アフガニスタンを見ればわかるように、彼らのイスラーム法の運用は、アッラーの教えにも時代にも逆行しているが、止めることができない。

現実のイスラーム世界の停滞状況を打開するためにも、いま求められているのは、イスラームを政教・あるいは聖俗を分かたず、人々の統合の理屈を提示する、モデル、あるいは理念系として捉え、それと現実を照らし合わせるという作業である。政教分離原則に縛られていると、結局は政治家の欲しい儘の支配を許してしまう。

「この世でもよく、あの世でもよい」を目指すのがイスラームの教えであり、それはまた、「人間一人の命の重さは、人類全体の命の重さに等しい」という、人命第一の教えでもある。

もちろん、自殺も固く禁じられている[3]が、例外がある。それが「アッラーに道のために」差し出される場合である。聖典クルアーンに曰く。

《あなたがたは奮起して、軽くあるいは重く(備えて)出動しなさい。

そしてあなたがたの財産と声明を捧げて、アッラーの道のために奮闘努力しなさい。…》(悔悟章41)[4]

つまり、アッラーの道のためであれば、命を捧げることも、財産を差し出すことも、来世での報奨を約束される行為となる。

政治と信仰

「アッラーの道のため」のところには、様々な言葉が入りうる。たとえば、「天皇陛下のため」「国家のため」「民主主義を守るため」など、信じればこそ、あるいは信者であればこそ、命もお金も捧げられる。自分の暮らしはもちろん命を犠牲にしてでも、たとえば、国家のために戦う。

「国家の理屈」と「信仰の理屈」が異なる場合、国家のために命まで捧げることには躊躇があろう。その躊躇を取り払ってくれるのが、国家の理屈と個人の信仰の理屈との統合。政教一致であればこそ、命を捧げることを国民は厭わない。国民であると同時に信者だからである。政教が一致して初めて、共同体はその持てる力を存分に発揮するということなのだ。イスラームの政教一致モデルはそのことを示す。

しかし、である。統合の原理としては危険極まりない。なぜならば、この手の命懸けは、敵を滅ぼすまで、あるいは、自分たちが滅ぼされるまで戦い抜くことを意味するからだ。多くの犠牲は、必至である。揺りかごから墓場までは面倒を見ても、墓場の後のことに国家は無関心。その部分を救いは、人事ではない。神事だから。

それなら、政教は分離が望ましいのかと言えば、それも違う。政教の分離は、個人の中にこの世とあの世の軋轢を押し付けることになるからだ。枠組みが、人に幸せを招来しないのだ。

となると、この悲観的な不安感に付け込んで、カルトが流行る。カルトが流行るのも、キリストの亡霊だと言えないこともない。

宗教とは

いや、きっと精神医学の必要などと言うものも、キリストの亡霊だ。それはさておき、そのカルトに応援してもらって選挙に当選するという、倒錯した政教一致状態が、近時の旧統一教会と自民党議員を中心とした政治と宗教団体の問題だ。 

戦いに勝つために生命と財産を教祖なり教団なりに預けるというのは、教団側にとって信者の望ましい姿である。そして、それは選挙に勝つためには、どれだけ無償の犠牲を払ってくれる人を囲い込めるかに躍起になっているように見える政治家の姿と重なる。そこには、来世の幸福も、この世の幸福も、決して保証されないけれど、それでも、ある種のマインドコントロール下に置かれた信者たちは、教団からの命令で政治家の当選に向けて無償で加担する。まさに持ちつ持たれつの関係が、両者の間に成立する。 

理念形的なイスラームからみると、統一教会の考え方は、残念ながら宗教の名に値しない。

信者の経済的な困窮。イスラームにザカートという義務があるが、それは、富の還流によってできるだけ的確に困窮者を経済的に支援することをでもある。持つ者から持たざる者への融通なのであって、持たざる者から搾り取ることではない。イスラーム経済では、借金に対して利子をとることを禁じられるが、これも、借金するほど困っている人から利子をとったら、困窮は深まるばかりだからという格差拡大阻止への配慮が背景にはある。

したがって、信者の家庭が困窮している時点で、宗教とは言えないのである。

さらに、日本はエバ国家、韓国はアダム国家などとして人種に優劣どころか支配従属関係まで規定しているところからも、同団体が宗教とは無縁であることは明白。人種・民族・出自等によって差別を行なわないのが宗教だからである。

統一教会自身が、政党を作って、国政に参加したらどうだろうか。宗教団体が、政治活動を行なうこと自体は、禁じられたものではない。それをやらずに、当選の見返りに、政治家からの協力を取り付け、それを自らの団体の正当性の確保と宣伝に利用していく。集客・集金の道具に政治家が利用されている。そして、その協力で政治家は当選する。民主主義には、資本主義同様、奴隷的な人々のタダ働き、いや、献身的な尽力があってはじめて成り立つものであり、それらに対して依存すれば、結局すべての人々が隷属させられるだけだという認識を持つべきだ。

結局、カルトもカルトの犠牲も、政教分離に、その端緒を見出すことができる。したがって、政教分離を徹底すればそれだけ、同種の問題が起こり続けることになるのだ。

政教一致モデルの限界

かといって、イスラームなのかと言えば、それも違う。たとえ理念形としてのそれであったとしても、現行のイスラームモデルでは、つまり、政教一致を是としたところで、事態は一向に改善しないのである。

不信心者を教化し、信者に導き、それに抵抗し、拒否する者(凝血章で言えば、アブー・ジャハル)を絶対的悪とみなして、それを排除することを正義であり善であるとする。

預言者ムハンマドの生きた時代の、生身のアブー・ジャハルとの対応はそれがベストだったのであろうが、それがそのまま普遍性をもつと考えるのは、いかがなものであろうか。

イスラーム法的には、クルアーンにもスンナにも確認される根拠である以上、判断はそうならざるを得ないが、あの時代の、あのアブー・ジャハルのケースなのである。

今や、ミニイスラーム国家的な専制国家が、地球環境問題など意に介さず、隣国、あるいは隣接地域へ、領土を広げようと、実際に攻撃に踏み切り、あるいは、虎視眈々とチャンスをうかがっている。

人新世に突入した地球に、その余裕はない、温暖化がこのまま進んで、地球の温度が2度上昇してしまえば、億単位の人々の居住地が水没する。今世紀末には、たとえばバングラデシュの国土がすべて水没するという予測もある。

つまり、人間同士が敵味方に分かれて戦うモデルで人類を遊ばせておく余裕をもはや地球は持ち合わせていないのだ。イスラームモデル自体の進化、つまりクルアーンとスンナに場を提供していたOS自体を顕在化させ、この世もあの世もすべてを包み込む「1」を成り立たせる存在からサインを「ゼロ・ポイント」で直接受け取り、現実世界に実行していくような、一神教の更なるバージョンアップを構想し続けたい。

 

[1] ローマの死刑執行法「カイザルへの反逆の罪と,自らを神の子と唱える冒瀆の罪を犯したという,不信者たちの偽証によるのため」であった。https://www.churchofjesuschrist.org/study/scriptures/gs/crucifixion?lang=jpn

[2] 世俗法においてなお公法的なものに位置付けられるこの5つ。

[3]《信仰する者よ、あなたがたの財産を、不正にあなたがたの間で浪費してはならない。だがお互いの善意(同意)による、商売上の場合は別である。またあなたがた自身を、殺し(たり害し)てはならない。誠にアッラーはあなたがたに慈悲深くあられる。》(婦人章29)。少なくともムアーマラートレベルで、自らの命を落とすことは禁じられている。ジハードの場合と、どちらがより優先されるのかについては、検討の余地がある。

[4] この聖句はジハードの正当化の聖句として解釈される。戦闘的ジハードではなく、教育こそがこの時代に相応しいジハードだという読み方もあるが、一般化されているとはいいがたい。

「方法論としてのイスラーム」
その1:奥田敦「イスラームにおける宗教的義務の「法」的性質」『KEIO SFC JOURNAL』第1巻1号、8-32頁、2002年)
その2:奥田敦「「方法論としてのイスラーム」のための序説」『KEIO SFC JOURNAL』第14巻1号、134-156頁、2014年)

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