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「1」でも「0」でもある「1」の世界:量子ビットと唯一神教

量子ビット

聖典クルアーンでは、世界を2つに分けていた。見える世界と見えない世界。シャハーダとガイブだ。量子が見える世界に属するものなのか、見えない世界に属するものなのかは、少し議論の余地があるかもしれない。もちろん、イスラーム以前においても、たとえばギリシャにはアトム論があったし、インドにも、そしてイスラームにも、最小の単位で物質を捉えようとする考え方は存在した。ただ、電子、陽子、中性子などの名前は付けられてはおらず、その意味では、見えない世界に属するものと言ってよいかもしれないが、量子の存在が科学的に明らかになった現在、それもまた、見える世界に属するものに加えることもできそうだ。

量子の存在が科学的に明らかになったのが、19世紀の末。量子物理学の成立が1900年代初頭だ[1]というから、それから1世紀もたたないうちに、量子のレベルで自然界を見た場合、われわれに見えているのは、ほんのその一部、いわば壁に取り囲まれた世界に捕らえられているようなもので、その壁の向こう側には、これまでの科学では知ることのできなかった混とんとした世界が広がっているのではないかとの仮説さえ成立した。その壁の外側の世界が一体何なのか。量子の性質によって計算を行うコンピュータを作ることによって、その謎に迫ろうというのが量子コンピュータだ[2]。

つまり、これをイスラーム神学ではシャハーダとガイブの境界は、見える世界(現象界)と見えない世界(幽玄界)の間に引かれる。量子コンピュータによるこれまで見えなかった世界に対する探究は、見える世界の拡張を促すものであるが、それ自体の実用化にはまだ時間がかかりそうだ。それよりここで注目したいのは、量子コンピュータが利用しようとしている量子の性質、つまり「1」と「ゼロ」の重ね合わせ状態(量子ビット)である。それは、ニュートン力学と万有引力の法則では説明がつかず、また、あるい「1」と「ゼロ」その都度切り替える従来型コンピュータのビット方式とも異なる性質なのである。

唯一神信仰の「1」

イスラームは、ユダヤ教、キリスト教などとともに、一神教に分類される。とりわけ、先行する2宗教の完成的な形態に位置付けることが可能なイスラームは、超越的な唯一神信仰をその中核に据える。ユダヤ教は、基本的に人を選ぶ。つまり、民族宗教である。現世的な傾向が強い。キリスト教は、人を選ばないが、来世志向が強く、イエスを神として、あたかも3であるかのような論理も気にかかる。イスラームは、現世でも来世でも恵まれることを基本とし、人を選ぶこともしない。もちろん、神は存在し続ける「一なるもの」。すべての人々に開かれた教えである。

そこでは、アッラーを唯一絶対的な神とする。「1」に始まり、「1」に帰る教えと言える。アッラーの唯一性・帰一性である。ただし、この「1」を説明し、納得していただくのが実は難しい。最初からいて、最後までいて、外側にも内側にもいて、すべてを包み込む全知全能の神。それは宇宙も含めすべてを包み込む大きな「1」で、一つしかないため、存在しているにもかかわらず、その存在になかなか気づけないような存在というふうに説明をが付される。

また、アッラーの唯一性の神学的な説明では、物体は、動いていなければ止まっているし、止まっていなければ動いているのであって、動静のいずれかの状態に置かれるのであるから、動いているにせよ、止まっているにせよ、それらの動作は、それをそうさせる唯一の存在からの命令とそれが実現された唯一の軌跡からしか成り立ちえないため、動静が同居できないということはつまり、それを命じる神も存在もまた2つではなく、したがって、アッラーの唯一であることが証明されたという具合である。

アッラーの説明としては、そうなのかもしれないが、しかし、アッラーがすべての存在物の主であるにもかかわらず、不信心者をいわば目の敵にして、悪魔呼ばわりし、彼らとの戦いで命を落とせばそれは殉教であると言った考えが、今に至るまで保持されている点には、どうしても違和感がある。もちろん、彼らのジハード論にも平和主義的なものが存在するが、その際にもなお、包括的な「1」というよりむしろ、アッラーを唯一排他的に神として信じられなければ、不信心者であり布教の、あるいは攻撃の対象となるという考えに陥りがちだ。 

量子コンピュータの「1」

「1」が排他的になってしまうのにも事情がある。人間はどうしても、アッラーの唯一性を代数的な「1」を使って理解し、表そうとするからだ。

その存在や属性が1であることを数式で示せば

1×1×1×1×1…・×1=1 (1のn乗は「1」)

となる。もちろん、専門家は、この「1」が「演算的単一性ではなく、存在論的単一性であると注釈をつける[3]。

 アッラーの創造の豊かさを同様に式で表せば、

1+1+1+1+1+…=∞

 となるかもしれない。これで「一即是多、他即是一」の世界観は説明ができそうだ。

 これに対して、超越的な絶対的唯一神を持ち出さず、「無」をその場所に据えるような教えでは、

a+b+c+d+…×0=0 (様々な神的な存在があってそれらを足したり、場合によっては掛けたりしても、結局最終的には0をかけて全否定するので、そこには「無」だけが残る。)

 そしてその教えが禁欲的であろうとするならば、

(a-a)+ (b-b)+ (c-c)+ (d-d)+ (e-e)+ (f-f)+…≈0 (様々な煩悩に対してそれら一つ一つに打ち克ち、乗り越えていければ、全体として「0」すなわち「無」の境地に近いところへ到達できるのではないか)

 

こうしてみてみると、宗教は、「1」型と「0」型に分けることができ、たとえば、イスラームは、1型の宗教の代表であり、仏教は、ゼロ型の宗教の代表だと言いうるかもしれない。神秘主義などは、神に近づこうとする傾向が強ければ、「1」型への指向性を有すると言えるし、世俗から徹底的に離れようとする傾向が強ければ、「0」型の指向性を持っているとも言えそうだ。「1」と「0」。特定のイデオロギーやナショナリズムに対する命をかけての信奉は、疑似的な「1」を造り出すことによって、そのために命を捧げることが正義とされ、それに対して「0」を提示できなかったり、できれば非国民として排除されたりと、人類はこの一ゼロの争いに命を捧げることを正義としてきたとさえ言いうるのではないか。

しかしこれは代数的な「1」の話。存在論的単一性を指摘する方法はあるし、自分自身もその手法に長く頼ってきたが、結局は、解釈の問題。「1」は「1」であるし、「0」は「0」である。存在論的「1」の理解が広がらない原因の一つともいえる。

ところが量子ビットの「1/0」はかなり事情が異なる。「1と0」が重ね合わせられているというのだ。つねに両義的。つまり、「1」でもあるし「0」でもある。一つ一つ粒子であるが、一つのものが同時に複数の場所に存在し、スピンしつつ絡み合いもつれ合って波としての性質も持つ。「1」と言えば「1」だし「0」と言えば「0」と言うところがあり、曖昧でしかも移ろいやすくもあるようだ。むしろ人間の心のありように思い当たる。

誤解を恐れずに言えば、この量子の動きを「1」としてみれば、一神教を信じることになり、「0」をしてみれば「無」によりどころを求めるようになるのかもしれないが、いずれにしても、物体を肉眼では見えない部分で構成している量子の世界では、「1」であり「0」であるのだ。したがって、「1」か「0」かのいずれかに究極的な正義を見出し、身体のレベルで戦い、殺しあうことは、量子ビットの世界では、全く意味をなさない、必要のない命の無駄遣いだということになる。 

「存在が花する」

いわば抱き合わせになっている量子ビットの「1」と「0」。そのことに気づけば、「1」からにせよ「0」からにせよ真理を見極めようとする精神が生まれることは理解できる。

井筒俊彦は言う。「そして意識の深化がもう一歩進みますと、それらすべてのものが錯綜しまじりあってできた全体が、ついにまったく内的に何もない完全な一になってしまう。もうそこではかつてものであったものの痕跡すらありませんので、その意味で無であります。そこではもはや見る者も見られるものもありません。主体も客体もなく、意識も世界も完全に消えて無を無として意識する意識もありません。このことはスーフィズムではファナー・アル・ファナー、消滅の消滅」つまり自我消滅の自我消滅、純粋な無、絶対的な無であります」「この意識のゼロポイントに忽然と現れてくる実在のゼロポイント、これを絶対無とみることは、存在論的に申しますと、それを実在の絶対無分節の状態、内的に、まったく分節されていない、区別されていない、まったく限定されていない状態としてみることであります」(『イスラーム哲学の原像』111頁以下)。まさに「1=0の重なり合い」の世界である。

井筒は続けて「実在のゼロポイントを東洋では伝統的にいろいろな名で呼んでまいりました。たとえば老荘の「道」、易の「太極」とか、大乗仏教の「真如」とか「空」とか、禅の「無」とか。」[4]。東洋思想においては明確な「1」が存在しないため、明示的に「1-0の重なり合い」は現れないが、むしろ、「0」から「1」への方向性が見て取れないだろうか。

イスラームにおける神秘主義において、その実在のゼロポイントは「ハック」ので呼ばれ、「真実在、絶対的真実、絶対者」ということであり、術語的にスフラワルディーはこれを「光(ヌール)」、イブン・アラビーは、「存在(ウジュード)」と呼んだ[5]。まさしく「0」は「1」である。

そしてその「存在はそのゼロポイントにおいてのみ、真相を開示する、それだけが本当の意味でのリアリティーである」とされる。これが絶対的な「0」と「1」の重ねあわせであり、目の前のバラは、存在の自己顕現としてのバラ。そこでは、「バラが存在する」のではなく、「存在がバラする」。つまり、存在が「花という形に仮に結晶して自己を表している」に過ぎない。こうしてゼロポイントにおいて存在が実在としてのリアリティーを湛えつつ、様々に自己顕現を行なって「現象界」が成立するのである。 

神はサイコロを振るのか

量子ビットの世界は、「見ることができたから信じることができる」というより、「有ると信じることができるから、少しだけ見ることができる」といった種類の世界ではなかろうか。それはアッラーに対する認識に似る。アッラーは確かに存在するがそれを見ることはできない。ただそれを信じることによって彼の創造の軌跡(量子ビットで言えば「波」)が見えてくる。実在のゼロポイントでは、表向きは「無」だが、そこには、いわば可能態として存在のリアリティが圧縮されていて、「有れ」の一声で、姿かたちが現れる。絶対的な無と圧倒的な有、まさに、ゼロと一の重ね合わせがあればこそだ。

量子の動リアリティー的にしかとらえられないことが、大きな論争の末、確定してしまったという。曰く「神はサイコロを振るのだ」と。アインシュタインをも困惑させたこの問題だが、引き下がらざるを得なかった。神道の神々はサイコロを振る(和辻哲郎)が、イスラーム神学から言えば、それでもアッラーはサイコロを振らない。量子ビットも神の創造の産物であり、彼がすべてを御存知であることには影響しない。天使の創造も行っている神である。となれば、ミクロ世界の創造もアッラーの中では、十分に射程範囲に収まる。ただ、人間にとっての見え方からが、確率的でしかないだけのこと。見ることによって現れる量子ビットだが、神にはすべてが見えている。むしろ、見ることをベースにした「確率」という把握の仕方が、量子ビットにあっていないということなのであろう。

見えないものを見る方法の一つが言語であろう。たとえば、空海の唯識論は、混沌を余すところなく言語化して見せた。真言とは、真言密教の大日如来の言葉であり、井筒によれば、それは神のコトバにあたる。「深秘の世界としての存在世界は、神のコトバの世界、神の根源的創造力である神的言語の自己展開に他ならない。…コトバこそ、神をして創造主たらしめる秘密の存在エネルギーである」(『意識と本質』235頁)。

イスラームでは、預言者ムハンマドを通じてくだされた神のコトバが、『聖典クルアーン』として書になっている。量子ビットという「種子」に、果たしてどのような神の自己展開が待っているのであろうか。そのエネルギーで解釈の硬直化の弊害も打破したいところだ。なお、見えないものを見る、もう一つの方法として数学が考えられる。代数学・幾何学・解析学のトライアングルの外側の想起から始めてみたいが、これについては今後の課題とし、専門家に教えを乞うてからにしたい。 

有でも無でもある「1」

量子ビットの世界とのかかわりは、イスラーム文明にとっても、本来の融和性を取り戻し、さらに発展させる契機になりうると考えられる。かつてイスラーム世界が世界の科学文明の発展をリードしていた時代、すべての知と行為の源泉であり正邪の基準である聖典クルアーンの解釈には、当時の最先端の科学的知見や、社会的な了解事項も踏まえられていた。そうした進取の精神性は植民地支配の浸透とともに忘れ去られてしまった。それどころか、今やあまりに小さな民族的な正義を神の名のもとに正当化する頑なな解釈で殺戮をほしいままにするという状況だ。量子ビットとの連携はこの文明のそうした宿痾を取り除くための根本的な打開につながるはずだ。

個人のレベルで言えば、量子ビットの世界は、人間のそして、一人一人の存在の根拠が実は極めてあいまいであり、場合によってはプラトンの洞窟に映った似姿のような影に過ぎないのではないかというレベルで人間の存立の基礎を揺さぶってくる。危機的な地球環境や国際関係だけでは済まないのだ。すでに見てきたように、量子ビットは、イスラームの存在論とも、神秘主義とも親和性が高かった。もちろん、そうした考察が可能になったのは、東洋の神秘主義思想にかんする井筒の共時的範型論の成果に負うところが大きい。が、そうした叡智に、この時代の最新の科学的知見、さらには社会的な変化、あるいは人々の知恵の実践、有徳な行動などにかんする物語やデータをさらに重ねることによって、危機的な地球環境は国際関係にさらされながらも、人が人として、自分が自分として生きていく光にもなりうるはずだ。

何しろ、従来の常識ではとても捉えられない世界だ。量子ビット文明の黎明期にあって、その知見を教えに取り込み、白か黒かの原理主義ではなく、白も黒もの包括性と柔軟性を併せ持った「1」/「0」統合型の信仰を体現し、また、万有の創造主の叡智を世界に共有し、協働していく。そこにこそ、慈悲深き、慈愛あまねく、万有の主の意図を見出せるとは言えないだろか。「存在が人間している」ことへの気づき。アッラーフ・アアラム(アッラーはすべてを御存知)。


[1]「「量子力学」(ドイツ語:Quantenmechanik)という単語は、1920年代初頭のゲッティンゲン大学で、マックス・ボルンヴェルナー・ハイゼンベルクヴォルフガング・パウリらの物理学者のグループによって作られたもので、ボルンの1924年の論文 "Zur Quantenmechanik[1]" が初出である。その後数年間、この理論的基礎は化学構造反応性および化学結合に徐々に適用され始めた。」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8F%E5%AD%90%E5%8A%9B%E5%AD%A6%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2

[2]『漫画家イエナガの複雑社会を超定義』「量子コンピューター!人知を超えたワンダーワールドへようこそ」NHK総合:初回放送日: 2023年11月17日)の説明は門外漢にはありがたい簡潔簡便な解説であり、本稿執筆際に際し参考にしている。壁に囲まれた世界だけが世界だと信じて疑わないさまは「進撃の巨人」に喩えた。

[3] アンリ・コルバン「一神教のパラドクス」エラノス会議編『一なるものと多なるもの』(日本語版監修、井筒俊彦、上田閑照、河合隼雄)平凡社、1991年、128頁以下。

[4] 井筒俊彦『イスラーム哲学の原像』112頁。

[5] 井筒俊彦『イスラーム哲学の原像』112頁以下。

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