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どこまでも堕ちる:無花果とオリーブ(第5回/全8回)

直立二足歩行

前回、人間は、まっすぐ立てる、すなわち直立するものとして創造されたと《聖典クルアーン》無花果章第4節を解釈してみた。そしてその人間は、恒常的に二足歩行を行う。そのこともまた、聖典の中に示されている。

《またアッラーは、ありとあらゆる動物を水から創られた。そのあるものは、腹で這い、またあるものは2本足で歩き、あるものは4つ足で歩く。アッラーは御望みのものを創られる。本当にアッラーは何事につけ全能であられる》

《聖典クルアーン》御光章第45節

人間はこれらのうち2本足で歩く者にあたる。二足歩行の出来る直立。もしも、人間が霊だけの存在であれば、直立の必要も、二足歩行の必要もない。

無花果章に戻ろう。直立二足歩行の被造物としての人間の創造をうけて、「そのあとで、戻した」とアッラーは仰る(無花果章第5節)。「戻した」という以上、元があるはずだ。もとは、いったい何なのだろうか。

上の聖句の「水から創られた」から、元は「水の中」たとえば「海の中」と読むこともできそうではあるが、種としての人間を「戻す」先が水の中や、海の中というのは、どうも違う。それならば「アスファラ・サーフィリーン」と降す必要がない。

奇跡と科学の関係

人間の創造を『地球生物全史』[1]的な視点から言えば、場所としては、来たのも地球で戻るのも地球となるが、そもそも、「アスファラ・サーフィリーン」自体は、場所でも、人でもモノでも構わない。
『地球生物全史』によれば、46億年までの地球に生まれた水中の微細な生物から人間は生まれたということになる。たしかに「もっとも低いもの」である。想像を絶する時間の長さである。そして、約8億年後、人間はいや、生物は再びこの「もっとも低いもの」にも及ばない最低状態の姿になって、海中深くに居場所を求めるもやがて餓死により地球上から姿を消すという。生命の消滅。このように現代の科学的な知見は、そのことも、そしてかなり具体的な姿でそのことを予見しているのだ。
となると、「アスファラ・サーフィリーン」とは奈落の底ですらない。「底がある」ということは、底より下があるに違いないからだ。生命体としての消滅直前の状態。結局はそれに戻すという、それこそ畏怖すべき創造主のメッセージをそこに読み取ることができるのだ。
その最後の瞬間、その生き物にクルアーンを解する言語能力はない。創造主のメッセージを受け取れないとは言わないが、おそらくもっと直截的にメッセージを受け取っていることであろう。クルアーンの文言を今まさに私がやっているような、不自由としか言いようのない形で読んでいるとは思えない。そう考えると、聖典クルアーンという書物は、言葉の理解、つまり人間が意識の持ち主である限りにおいてのみの書なのである。神の存在もまたしかり。よって、気が遠くなるような時間を背景にもつが故に了解不可能な事柄は「奇跡」とする。46億年の生命の神秘を、創造主の名を使って圧縮するなら、「奇跡」と呼ぶほかはない。なるほど「アッラーフアクバル(アッラーは至大なり)」に相違ない。

不安定なプラズマ

上の『地球生命全史』的知見に則して言えば、生命体は絶滅してもあり続けるものが「地球」だという。つまり、大地。人間は土からできている。そう、土くれの存在だというのは、私がクルアーンから教わった最初でもあった。死者の埋葬の方法として、この頃は海に撒く、空に撒くなどもあるけれど、それは葬儀のやり方であって、遺された者たちのやること。それとは別のレベルで人は皆「土に還る」。棺に固められたり、あるいは、火葬によるセラミック化のケースを除き、やがてプラズマとなり宇宙に還るとも言えるが、物質としての安定性を欠くプラズマ状態を「もっとも下位」のとか「もっとも低位」のとかとして「アスファラ・サーフィリーン」に含まれるとすれば、これもまた可能である。

しかし、プラズマ状態は、同胞を葬る人間がいればこそ生じるのであって、その段階を過ぎれば、結局はもう後戻りのできない絶滅直前の微小な生物の状態に戻され絶滅を待つ。天国だとか地獄だとかと意識することなど到底かなわぬ状態が待ち受けるのだ。

「ヘーケッドゥンヤー」

しかしながら、「もっとも低いもの」を地球上の生物の絶滅寸前の微小な生き物だとしてしまうと、前述のとおり、書についても、主についても、あるいは人間自身についても、人間としての認識は持てなくなる。となると、もう少し別のレベルの「もっとも低いもの」を見出す必要が出てくる。微小生物といわなくても、人間として生まれたてのよちよち歩きの段階から、老齢、老衰状態を「もっとも低いもの」と解すると、人間の認識の範囲内で、元の状態と、のちに戻っていく状態とがあることに気づく。アッラーズィーのこの注釈はかなり現実的だ。

それに従えば、土に還れているうちであれば、人間は、生き残れるということになる。聖典上の「人間」に定冠詞がついていて種としての人間の総称になっている。とはいえ、地球環境の加速度的な劣化などどこ吹く風で、戦争で殺しあい、金もうけのために人を食い物にし、多様性をうたいながら、小さな正義に固執し差別し排除し殲滅す。
頼みの自分は、双極的な気まぐれすぎる浮き沈みの中で、あてにはならぬ。「清濁併せのむのが人間」「人間には完全な天使もいなければ完全な悪魔もいない」という言葉に縋ってみる。

私がもしそんな話をすれば、クルアーンの読みを一節一節まさに口伝えに教えてくれた世界最古の都市のひとつ、アレッポの高貴なるスーク商人なら、きっと言うだろう。「ヘーケッドゥニヤー(世の中そんなものだ)」と。あれやこれやのな人間たちが生きる場所、それが「アッドゥンヤー(現世、この世、世の中)」である。因みに「ヘーケ」はその土地の方言で、正則アラビア語では、「ハーカザ(このような)」に当たる。

浮かび上がるのは

この「アッドゥンヤー」は、現世、俗世などを意味するが、言葉自体は、「アスファラ」同様に最上級(アラビア語文法では、「卓越詞」とされる)の形である。つまり、もっとも低い、より低い、あるいは、もっとも卑しい、より卑しいという意味である。「アスファラ・サーフィリーン」に置き換えることも可能である。それは、まだ取り返しのつく「もっとも低いもの」。この「ドゥンヤー」の中に、直立二足歩行ができる形で創造された人間が、そして生れ出たときには立ち上がることはもちろん這い出すこともできない人間が、とりあえず降り立つことになるなる場所としての「ドゥンヤー」。
万有引力が働くこの地上で、吹き込まれた良心を胸に、まさにいろいろな人がいる俗世を、直立二足歩行で道具を使いながら生きていく。そんな人間たちの姿が浮かび上がってこないか。

さらに言えば、こうして、この2つの節には、まだ、男もなければ、女もない、アラブ人もなければペルシャ人もない、そもそも信者もなければ、不信心者もない、したがって天国もなければ地獄もない。生まれたときから奈落の底が私の出自だなんて考えることもない。戻らされるのは奈落の底ではなく、絶滅必至の微生物状態の生命体なのだから。人間がそんな状態になったとしてもなお、それさえも絶対的に自らの創造だとして引き受けてくれる存在は有り続けてける。アッラーはすべてを御存知。

[1] ヘンリー・ジー『超圧縮 地球生物全史』(竹内薫訳)、ダイヤモンド社、2022年。

全面改訂


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