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4次元ロッカー


久しぶりに残業してしまってくやしいなと思いつつ、ロッカールームに向かう金曜日の夜。

新しいロッカーと入れ替えるので、中を空にしておいてくださいという小さなメモが貼ってある。そうだ、人事部から通達が来ていた。
もともと仕事用のスーツを置いておくだけのものなので、入っているのはハンガーと紙袋2枚のみ。と思っていたが、上の小さな棚に手を伸ばしたら、なにかある。本だ。

日伊英伊日英辞典。
ああ。むかしイタリアの会社と直接取引をすることがあって、かけらでもイタリア語を知りたいと思って買ったんだった。三省堂のデイリーであるが、3ヶ月ほどで間に代理店を挟んでしまったので、熱心に使った形跡はなし。それ以来ロッカーに入れたままにしていたんだな。

それでも、カスターニャ(栗)マルメッラータ(ジャム)プレスィデンテ(社長)コントラット(契約)など線が引いてある箇所もあって、おおそうか、たしかになんとなく覚えているなと思う。


1ページめには、アモーレ。
愛。愛すること。
えんぴつで囲んである。



そのころの思い詰めた気持ちがぎゅううとよみがえる。
愛したこと。裏切り。愛とはなにかを考えた日々。待っている時間の長さ。
黄緑色のソファーカバー。
流しには2人分の食器。小さなスプーン。
可愛い寝顔。伸ばした髪に月明かりが黒く映る。毎日毎日手をつないで抱きしめて、その温かさに震えながらひとりで泣いた日。
自分の中のアモーレが少しずつ、冷え冷えとした重石に変わっていくのがわかった。

涙の跡はすっかり消えて、重石も無くなったような気がしていたのに、まだ思い出せるくらいにわたしの中に残っていて驚く。


辞書をバッグにつっこんでロッカーを閉じる。


春の風が吹く街を、自分の足音を聞きながら歩きだす。
アモーレの次に調べたのは、アリヴェルチ、ボンジョルノ(さようなら)だったことを思い出しながら。


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