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これって意味あるの?

こんにちは。あすぱらです。

先に申し上げておきますと、この記事は長いです。嫌になるほど長いです。五千字近くもあるからです。また、この記事から何か有益な情報が得られることを、私は保証しません。

それでも勇気を持って、前に進もうとしてくれたそこのあなた、盛大な拍手を持ってお迎えしたいと思います。「そんなに読む時間ねえよ」とスクロールしようとしたそこのあなたも、まずは結論の前後だけでも読んでくださると、私はガッツポーズをして喜びます。というか、全員まず記事の最後の結論を読んで下さい。時短に生きましょう。

「これって意味あるの?」

誰しもそんなことを考え、そして言われたことは、長い人生の中で一度くらいはあるでしょう。中には、なんと生意気な質問か、と内心憤慨した方もおられるでしょう。

先日、学校の教師をしている友人が、「この勉強をして意味あるの?」と生徒から聞かれたという内容を、ツイッターで呟いていました。彼は何とか生徒を説得したらしいですが、私はふと、何か引っかかるような気がしました。それが何なのか考えたいと思い、この記事を書きます。

直感的に、勉強には「意味がある」と分かります。ほとんどの人はそう考えているでしょう。そして、先生が熱意をもって説得すれば、生徒は応えてくれるでしょう。しかしその「意味がある」状態とは、具体的に何なのか、私はよく分からなくなりました。

「意味」に関しても、思い浮かぶイメージは人それぞれです(これは後でも説明しますが)。だからその教師の情熱とやらで生徒を説得できても、その答えは先生の主観に依存する他なく、説得の根拠が驚くほど薄いのです。これは、本当の意味で生徒の疑問に答えたということではないような気がしました。(答えの内容にかかわらず生徒が納得すれば良い話ですので、それは別に問題がないとは思います)

だから、今回は「説得にはハートが大事なのである!」というライフハックを紹介するわけではありません。そんな実用的なものではございません。

私はただ、胸に渦巻く疑問と向き合いたいだけであります。「意味がある」とは何なのか?なぜ人は「意味」を求めるのか?その疑問に対する答えを、私の頭の中で探してみます。「意味」というものに、論理という武器をもって、真正面から立ち向かってみた結果を記すのみです。長い旅路となりますが、暫しお付き合いくださると幸いです。(因みに、ここでの生徒の発言は純粋な哲学的疑問を投げかけていると仮定します。つまり、勉強をさぼりたいから、教師をからかっているから、という状況は想定しておりません)

まずこのテーマを考える上で、「意味」の定義をしたいと思います。Wikipedia先生の解説の一つには、「ある物(物体やシステムなど)が存在する必要性や理由のこと」らしいです。

なるほど。学校の例を挙げると、つまり生徒は、勉強の必要性や理由を聞いているのです。しかしここで疑問なのは、なぜ生徒がこのような質問をするかということです。なぜ人は、行動する前に意味を求めるのか、ということです。

考えられる理由は、その行為によって、どれほどの費用対効果があるのか分からないということです。つまり、そのコストをかけた果てに生まれる「役に立つ」現象とは何なのか、それはどういう状態を指すのか、具体的なイメージが浮かんでいないことが原因であろうと思われます。その行為に投資する時間と体力というコストに見合うだけの対価が得られるかどうか、不安であるということです。必死に毎日の遊び時間を削って勉強しても、もし役に立たないのであれば、努力は水泡に帰します。コストに見合うだけの報酬を受け取ることが出来ません。全体の幸福量を考えれば、勉強するより遊ぶ方がメリットがあるように見えます。これはごくごく自然なことのように思われます。

よってここでは、「意味がある」とは「コストに見合うだけのリターンが期待できる」ということであると定義します。(他にも、全てには意味があるという考え方もあります。リターンがほとんど得られなくても、必ず微量なメリットは享受出来るでしょうし、そもそも「意味がない」ことを理解したということに意味を見出す人もいるでしょう。しかしここでは学生からの質問という状況を想定しますので、その微量なリターンや「無意味の理解」というところに、勉強という莫大なコストを支払う価値を感じるとは考えづらいです。その回答には納得しないと思われるので、その可能性を排除します)

したがって、この生徒を説得するためには、具体的にどのような形で役に立つのか、その事例を示すことが賢明であろうと思われます。投資するコストに見合うだけのリターンがあることを示せば良いのです。しかし、ここで大きな壁が生じます。それは、

意味の決定は、結果に頼らざるをえないということです

皆さんは、「意味がある/ない」ということを、事前にはっきりと断言することは出来るでしょうか?出来ません。なぜなら、意味の決定は結果的に行われるものであるからです。「意味がある」と予測して行動しても「意味がない」かもしれないですし、「意味がない」と予測して行動しても「意味がある」結果が生まれるかもしれません。未来は分かりません。だから、「その行為には意味があるだろう」と予測することは可能ですが、「意味がある」と断言することは不可能であります。

したがって、学生の「勉強に意味はあるの?」という質問に対しては、私達は明確な答えを提示することが出来ません。そこで諦めて「分かりません」とだけ答えることは簡単ですが、学生の真摯な姿勢に対して失礼であります。よってこれからは、「意味の有無に関する事前の断定は不可能である」という前提に立って、もっと深く掘り下げます。

では、どうすれば良いのでしょうか?方法は一つです。データを集めるのです。統計的なデータを集めることで、未来を予測することが出来ます。つまり、「意味の有無に関する事前の断定は不可能」ではありますが、「意味がある」と予測することは可能であるということです。データを使い確率論に依拠することによって、尤もらしい可能性を提示することが出来るのです。

データの集め方は色々あるでしょうが、今回は分かりやすくアンケートという手法を用いたいと思います。だから今回は、成人している方に対して「子どもの頃の勉強は意味があったと思うか」という質問項目のアンケートを行ったと仮定します。

しかしそのアンケートを行うにしろ、また大きな問題が浮上します。それは、

意味の決定とは、極めて恣意的なものであることです。

つまり、意味の有無は客観的指標によって測られるものではなく、主観が大きく関係しているということです。本人がリターンに満足したらそれは「意味がある」ということになりますが、不満足であればそれは「意味がない」ということになります。つまり、個人差があります。同じコストをはらって同じだけの報酬を得たとしても、それに満足するかどうかは、人によって異なります。満足の基準値が高ければ簡単に満足は出来ないでしょうし、基準値が低ければあっさりと満足してしまうでしょう。全く同じだけの勉強量をして、テストの成績で70点を取った二人の生徒がいるとします。一人はその結果に満足しますが、もう一人は不満足なようです。期待するリターンが大きさは、人によって異なります。前者の生徒にとっては勉強に「意味があった」としても、後者の生徒にとって勉強に「意味がなかった」と感じるかもしれません(極論ですが)。

それに、何に価値を見出すのか、人のよって異なります。それは脳の構造や後天的な環境によって左右されます。ある人は仕事での成功に重きを置いているかもしれないですし、ある人はプライベートの充実に重きを置いているかもしれません。勉強することで仕事での成功を収めたとしても、そこに満足感を感じなければ、それは努力に見合うだけの報酬を受け取っていないということになります。それはその人にとって、「意味がない」ということにってしまいます(また極論かもしれませんが)。

つまり反応は、三者三様となってしまいます。客観的な指標によって、物事の意味の有無を判断することは出来ないのです(これは心理学の長年の課題でもあります)。これはアンケートの効果に対する疑問を提示することが出来、その信頼性を大きく揺らがせることになります。例えば多くの大人が勉強に「意味があった」と回答したとしましょう。しかしその「意味がある」状態が、子どもたちの想像する「意味がある」状態(求めるリターンが得られる状態)と異なっていたらどうでしょう。その認識の相違がある中、子どもたちが大人を信じて必死に勉強して、大人の考える「意味がある」状態になったとしても、子どもが思い描いていた「意味がある」状態とは異なっているのですから、それは子どもたちにとって「意味がない」状態となってしまいます。そうなった場合、アンケートの基本となるべき土台が、完全に崩れ去っていしまいます。

(因みに、アンケートのもう一つの課題として、時の流れがあります。アンケートした当時は「意味がない」と思っていても、後で何らかの経験をして「意味がある」と考え直すかもしれません。確率は小さいですが、逆もあり得ます。しかし、そのことを考えるとキリがないですし、死ぬ間際のご老人に「子どもの頃の勉強は意味がありましたか?」なんて聞くのは非現実的なような気がしたので、今回は取り上げませんでした)

これらの議論から言えることは、全ては可能性の世界で完結してしまうということです。世の中に「絶対」など存在しえないということです(当たり前かもしれませんが)

ここまでで生じてきた問題を整理します。

①意味の有無は、事前に判断しえない(ただしデータにより予測することは可能)
②意味の決定は恣意的であり(個人差があるということ)、データの客観性を担保できないということ。

次に、それぞれの問題を解決する、またはそのデメリットを限りなくゼロにする方法を考えます。①に関しては、データを多く取ることで補完できると考えます。サンプル数が多いほど、データの正確性は上がります。②に関しては、なるべく価値観の擦り合わせを行います。勉強の例でいうならば、事前に子どもたちの求めるリターンを聞いておき、それをアンケートに盛り込みます。アンケートに答える側は、子どもたちの求めるリターンそれぞれを、「勉強の意味」と結びつけます。それぞれの項目の結果はどうなのか、それに自分は満足しているか、それは勉強によるものなのか、ということを調査します。結果と満足度と勉強の正の相関が強い項目は、「勉強の意味」が、普遍的に大きいことが予想されます。

結論

・「意味がある」=「支払うコストに対するリターンが相応のものであること」

・意味の有無を事前に判断することは出来ないため、データに頼らざるを得ないということ。

・データの客観性は完璧に担保されず、全ては可能性の話である。その正確性を少しでも向上させるため、サンプル数を増やし、人々の価値観を擦り合わせる必要がある。

とまあ、こういうことなります。しかし先にも申し上げておりましたが、これを実際の教育現場で実践しようものなら、「データを取ってくるね」と自分のデスクからグラフを取り出し(データはあるという前提です)、生徒に見せ、データのソースと見方を丁寧に教えなければなりませんので、甚だまどろっこしいことであります。長々と説明しているうちに生徒は聞く気力すら失せて、「もう良いです」と呆れかえってどこかへ去ってしまうでしょう。残された先生の気持ちを察すると、何ともやりきれない思いになります。(だから再三申し上げました通り、生徒に「勉強の意味」を聞かれて愚直に「意味」について滔々と語ろうことは、実際的ではありません)

ここまで書いてきて、何とも当たり前の話をこうも長々と書けたもんだなあ、と我ながら感心しています。ただ、いつも直感的に考える処理を論理的に考えることが出来たので、私にとっては意義があったと考えています(私が満足したのでこれは素晴らしいリターンであります)。

ここまで長文を読んでくださってありがとうございました。四千字を越えてしまった辺りからさすがに「ヤバイ」と思いましたが、惰性でノコノコと書き続けてしまいましたことをお許しください。

この結論はきちんとした推論に基づいておりませんゆえ、ここから何か学ぼうなどとはゆめゆめ思わないでください。むしろ私は、クリティカルな意見を求めております。テーゼとアンチテーゼがぶつかった時、より高次のジンテーゼが生まれうることを、私は信じております。

幾分知識不足な脳味噌から、必死に絞り出して書いてみたしたので、分かりにくいところ、間違っているところ、論理が破綻しているところなどあるかと思われます。その場合、お手数ですが、コメントなどでお知らせいただけますと幸いです。(ちゃんと参考文献を探せばよかった!と今反省しております。)

改めまして、ここまで読んでいただき誠にありがとうございました。今後とも、よろしくお願い致します。

あすぱら

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