見出し画像

不寛容な多様性

「まあ、ひとそれぞれだよねえ」

こんな言葉を耳にしたこともあれば、口に出したこともあるでしょう。これは字義どおりに捉えるならば、多様性を受け入れる、というポジティブな響きが伴っています。

しかしこの言葉を聞いた時、私は内心複雑な気持ちになりました。良い言葉にのはずなのに、何か背後に黒々とした影を垣間見たような気がして、無性に心がざわざわとしました。そこでなぜ心がざわめいたのか探りたいと思う好奇心が溢れてきたので、その思考のプロセスを、備忘録としてこの場に記していきたいと思います。

ただしこの文章はまた長いので、先に重要な点だけ述べておきます。

・「人それぞれ」という言葉は多様性を受け入れているようで、他者との間に距離を置いているだけ→対話が行われない

・対話のない世界では、人は互いに理解しようとする努力を放棄する→有事の際に衝突が起こる(=不寛容)

・多様性を真に受容するなら、対話によって互いを尊重する姿勢が必要。

この結論をどう導き出したのか知りたいという物好きな方は、是非以下の文章も読んでいただけると嬉しいです。

まず、「人それぞれ」という言葉を考えます。これはそのまま捉えるならば「人は皆違っている」という、社会の多様性を示しています。特に現代では、この言葉は人の「個性」に対して用いられます。個性は皆違っていて、その違いを尊重しましょう、という意味に聞こえます。

個性の尊重。それは素晴らしいことです。周りに同調して本当の自分らしさを発揮できないのは、本当に辛いことです。抑圧された「個」は自分らしく輝けないまま、日々偽りの自分を演じなくてはいけません。毎日愛想笑いを浮かべ、本来の自分との乖離に苦しむことになります。

自分らしく生きる。その観点から見れば、個性尊重主義は崇高な理想を掲げているように感じられます。人は皆平等。人の違いは「個性」の差に過ぎず、そこに「正しい・間違っている」の概念は存在しない。ただ、他者を受容するのみである。そんな考え方だと解釈しています(主観です)。

これは個性を抑圧されてきた人々の反発、溜まりに溜まった自由への渇望が、この社会的ブームとも言うべき個性尊重主義を巻き起こしているようにも思います。そして近年の風潮として「皆違って皆いい」というスローガンが巷に溢れ、それは社会だけでなく学校教育まで浸透してきています。

私はこの考え方に賛同します。実際、この風潮によって自分は何者かを考えるきっかけになり、以前よりも自分らしく振舞えるようになったからです。

しかし、冒頭に述べた「まあ、ひとそれぞれだよねえ」という言葉には、どうも引っ掛かります。それは単に「皆違って皆いい」という言葉では収まり切れないような、ある種の諦念のような匂いが感じ取られたからです。

これは私が友人と会話している時に、彼がぽつりと呟いた一言です。彼はある社会問題について自分の意見を述べていましたが、私はその意見には賛成できませんでした。だから率直に自分の意見を言うと、彼はその反論に少し面喰い、どう返答してよいか決めあぐねているようでしたが、終いにその言葉を吐き出しました。

「まあ、ひとそれぞれだよねえ」

私は寂しくなりました。一人きりで真っ暗な部屋に取り残されたような気持でした。裏切られた時のような、虚しいほどの寂寥感が襲ってきました。

これはどういうことでしょうか?字面だけを見るならば、彼は私の意見を尊重しているようにも見えます。私の意見を否定せず、そのまま受け入れてくれたようにも見えます。しかしこの言葉の真意はもっと残酷で、もっと「ずるい」性質を持っているようにも感じました。

この「人それぞれ」という言葉は、多様性を受容するという表向きの意味だけでなく、他人との精神的距離を置こうとする意思が見えました。上の例でいうならば、私の友人がその言葉を口にした時、彼は私と距離を取ろうとしていたように感じました。自分の意見と食い違った時、議論を展開させて説得しようという気すら起こさず、「人それぞれ」という抽象的な言葉でバトルから逃げたような気がしたのです。あくまで自分は中立な存在であるということをアピールし、攻撃の対象から外れようとしたようです。

そんな言葉を言われたら、私だってぐうの音も出ません。だから「ずるい」のです。それはそれで合っているからです。しかし、私は抽象的な論議で終わらせたくなく、ただ具体的な話をしたいだけだったのです。その思惑が外れたからこそ、否定も肯定もせずただ高みの見物と決め込んだ友人の態度に、もやもやとした寂寥感を感じたのです。

そして、私の思うこの言葉の最大の問題点は、人々から対話の機会を奪いかねないということです。二人の人間が違う意見を持っていたとしても、「人それぞれだからねえ」の一言でその場は収まり、少し歩けばそんな議題は忘れ去られるでしょう。しかしそこに進歩は生まれません。人間の成長の一つは、柔軟な思考を手に入れることです。確証バイアスによって凝り固まった自分の脳みそを柔らかくし、多様なものの見方を得ていくことです。「自分は間違っているかもしれない」という内省的な思考に、他者の考えを混ぜ込んでいくことで、より多面的なものの見方を得られ、ある時はそれが問題の解決に導いてくれるからです。したがって例の言葉は、他者との対話を避けさせるだけでなく、その人間的成長の機会すら奪ってしまうという恐ろしい言葉とも言えるのです。

そしてこの言葉のもっと「ずるい」点は、寛容なようで不寛容であるということです。例の「人それぞれ」の言葉は、一見すると寛容です。相手の意見を「尊重」し、干渉を避けようとしているからです。しかし、ここで対話を避けると、どうなるでしょうか?一言で言って、相手を理解できなくなります。もっと正確に言うならば、相手を理解する努力を放棄してしまうのです。自分は自分、相手は相手、ということです。両者は互いに干渉し合いませんが、間には大きな溝があります。そこには争いは起こりませんが、冷たい関係が底に潜んでいます。ではその関係が続けば、何が起こるのでしょうか?

まず、実際の問題を何も解決できなくなります。例えばコロナの問題で言うならば、緊急事態宣言を出す・出さないの話であったり、米軍基地の移設問題であったり。それまででろくに対話をせず、急にこれらの社会問題に直面すればどうなるでしょうか?皆さんの想像通り、「人それぞれ」という言葉では何も解決されません。何も決まらず、ただ時間ばかりが過ぎていきます。そこで必要なのは対話です。対話によって合意を形成し、よりベターな解決策を提示する必要があります。

しかし、「人それぞれ」という言葉で対話の機会を避けてきた人々、柔軟なものの見方が失われている人々にとって、この対話という行為は何ともまどろっこしく、極めて面倒くさいプロセスに感じられるでしょう。彼らにとって、突如現れた反対意見は脅威に映り、到底「許されない」事案として対処されます。人々の日頃の無関心、仮初めの中立が、ぼろを出す瞬間です。普段は「寛容」そうなお面を被っていますが、有事の際には堂々と「不寛容」な本性を曝け出すのです。人々は互いに罵り合い、時には暴力にまで発展するでしょう。他者を理解しようとしない傲慢な態度が、争いを生み出してしまうのです。

「人それぞれ」とは無関心の裏返しです。人を理解せず、理解しようともしない人々の怠惰が、その言葉を生み出しています。自分の意見を大事に抱え、他者の意見を取り入れない個人主義の成れの果てとも言えます。勿論、その言葉自体に罪はありません。しかし、大事なことはそれが使われる文脈、どのような意図をもって発せられたことばであるか、ということです。人々が暴力に訴えることなく穏便に問題を対処したいならば、対話は不可欠です。

ここまでの議論は最終的に、本当に他者を尊重しているかという点に収束すると思います。「人それぞれ」の言葉の表面的な意味は、人の多様性を受け入れるということ、換言すれば、人の違いを尊重するということになるから(そうなるはず)です。この文章の結論は、「人それぞれ」の言葉は他者との対話の機会を奪い、結果的に人々の間に不寛容を招いてしまうため、本当の意味で他者を尊重することにはならない、ということになります。

この言葉を批判したからと言って、私は別に、多様性を排除したい訳ではありません。むしろ多様性を尊重したいと考えています。しかし、真の意味での「尊重」とは、ただ相手に関わらずに無関心を決め込むことではありません。自分とは異なる意見に耳を傾け、理解し合うという努力が大切なのです。完璧な理解など存在しないからといって、理解する努力を怠って良いということにはなりません。本当の意味で「寛容」になりたければ、他者との対話をするのです。自分だけの殻に籠らず様々な意見に自分を晒すことで、有事の際には時代に即した尤もらしい解決策を世に示すことが出来ます。それが結果的に、多くの意志をくみ取った意見、人々が納得しやすいアイデアになるでしょう。それが他者を尊重する本来の態度だと、私は考えています。

ここまで長文を読んでいただき、ありがとうございました。

失礼します。

あすぱら

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?