小説「トンネル」
眠気を誘うような5月の温かい空気の中、営業先のお宅まで車を走らせている。山間の小さな集落までの道のりは、日ごろ溜まったストレスを解消するのに丁度良いドライブだ。視界いっぱいに広がる田園風景、窓を開けると鼻腔に入るこむ新鮮な空気がとても心地よい。だから俺は、誰も担当したがらない田舎の営業地域を好んで会社に希望しているのだ。
走っていると、目の前にいつも見慣れた小さなトンネル。ここを抜ければ目的地でもある田崎村になる。またいつものように出迎えてくれる鳥越さんのおばあちゃんや島村さんのおじいちゃんを思い浮かべながら、俺はトンネルに車を滑り込ます。
その瞬間、強烈な眩暈に襲われた。
健康だけが取り柄の自分にはこんなことを初めてのこと。とっさに急ブレーキを踏む。幸いにも深呼吸をして気持ちを整えたら運転できる程度には体調は戻ったようだ。トンネル内で車を停車していたら大事故になる。気を付けながらまたゆっくりとアクセルを踏みこんだ。
しかしまた別の違和感を覚えるのに時間はかからなかった。
いつももならトンネルを抜けるのに10秒とかからない長さなのだが、いっこうに出口が見えない。30秒、1分、2分と走り続けても出口は見えることはなかった。
「やばいな」
そう感じながらも、この状況を打開するには走り続けることしかできない。トンネル内で止まったり、車を降りたりしたら一生ここから出られなくなる気がする。子供の頃からオカルトや都市伝説の類には興味があった。その手の本やテレビ番組はくさるほど見てきた。その経験から、今、自分はいつもの世界から離れて異次元の世界に紛れ込んでしまっていると理解できる。
しかし今はそんなことより、営業マンの悲しい性か、オカルト的な恐怖よりもお客様との約束に遅れていしまうという責任感の法が強かった。
走り続けながら、やけに空間が静かなことに気が付く。もともと人の少ない地域だが、それにしてもそれだけじゃない、風や空気の動きさえ止まったように静かなのだ。走りががら前方や左右を確認したが、トンネルの壁以外は誰も何も見ることはなかった。
ふいにルームミラーが視界に入る。
「うっ」
と思わず声を上げてしまった。ミラー越しに人間と目が合った。慌てて後ろを振り向く。後部座席には20代前半の見知らぬ男が座っていたのだ。
「前を向かないと危ないですよ」
男はニヤッと呟く。
「誰だ、お前!」
そう叫ばずにはいられなかった。
「お前が原因か?早くここから出してくれ!」
続けて俺は叫んだ。男は動じることもなく微笑んだまま。
「そう慌てずに。とりあえず、前を向いて運転してください。僕とドライブしながらお話でもしましょうよ」
ミラー越しの男は含みある表情を崩さなかった。ただ意外にもそれほど怖いという感覚はなかった。早くここから抜け出したいという気持ちと、この非日常的な出来事は後々面白い話のネタとして自慢できるかもという嫌らしい気持ちとが半々あった。
「お察しのようにこの状況は僕が作り出しています。つまりここから抜け出すのは僕次第という訳です」
男は淡々と話す。
「何が目的だ?俺である理由があるのか?」
ふーっと深呼吸をする。開き直って落ち着いて話すことに決めた。それを悟った男は、「流石は物分かりがいいですね」と呟く。
「で、俺に用とは?」
「特に用があるというわけじゃないんですけどね。ただ一度会いたかっただけです」
「それだけのためにこんな異次元に飛ばされたというわけか。そしてお前は未来から来たタイムトリッパ―とでもいうのか?未来から来たのか、俺を未来に呼んだのかは知らないけど」
「ちょっと違いますが、まあ、そんなところです」
(そんなこと、未来の俺に会ってればいいだろ)
そう言いかけた一瞬、嫌なことが頭をよぎる。
「もしかして俺はすでに死んでるのか?自分で気づかないうちに俺は死んで、つまりここはあの世か、あの世までの道のりってことじゃないのか?トンネルに入った瞬間に眩暈がした時、本当は俺はすでに死んでたってことか?」
急に不安になった。ミラー越しの男はそれに答えずじっと俺の顔を見ている。
「おいおい、まじかよ。結婚して3年目、やっと先月生まれたばかりの赤ちゃん、海斗もいるんだぜ。嫁の美幸と海斗を残して今死ねるかよ」
焦った言い方に、男は大丈夫ですよと笑った。
「心配しないでください。あなたはまだ死んでいません。ただ僕はあなたと話したかったから、この状況を作り出しただけですから」
まだ死んでいない?その言い方に疑問が残る。
「じゃあ、俺はこの後死ぬというわけか」
「そんなことは言ってないでしょう。それに人は誰でもいつかは死ぬものです」
男の意図がいまいち掴めず、しばらく俺は黙ることしかできなかった。一方で、頭の中は、「奴は誰だ?何が目的だ?」そのことだけでいいっぱいになっていた。男の顔をじっと覗き込んだまま。
「俺さ、こう見えて結構オカルト好きだし、都市伝説の話やSF小説とかよく読んでたんだよ。こういう時って、未来人は赤の他人には会わないだろう。会う必要性もないし」
男の表情は変わらず落ち着いていた。ハーフかクォーターとも見間違えるような少し彫りの深い顔。俺の母親の家系。
「お前、海斗だろ」
ダイレクトに投げかける。男は当たり前のように
「そうですよ。お父さん」
そう静かに言った。
「まじかよ、海斗はまだ産まれたばかりだぜ。これからパパとかママとかって喋りだしたり、ハイハイしたり、よちよち歩き出したり、小学生になってキャッチボールしたり、そうやって少しづつの成長が見れるのを楽しみにしてたのに。それが俺とそう変りない大人になって急に現れるなよ。俺の夢を返せよ」
大人になった海斗は面白そうな笑みを浮かべる。
「出来ることなら僕もそうしたかったですよ」
やっぱりか。俺は近いうちに死ぬ運命か。小さく呟いたつもりが、予想以上に声が大きく漏れたらしい。海斗は「その通りです」と返した。
「死ぬ予定の父親を助けに、息子が未来からはるばるやってきたという訳か。まじでオカルトの世界だな。それで俺は何で死ぬんだ?病気か?事故か?」
海斗は黙ったままだった。
「オカルト好きなお父さんなら予想がつくとは思いますが、未来人が直接過去を変えることは出来ません。といってもこの世界はパラレル。お父さんの意思次第でどうにでも変えられることは出来ますが。選択は無限にありますから」
「じゃあ何で海斗は俺のところに来た?」
「僕のいた世界では物心がつく前にいなかったからです。僕の世界ではお父さんは死んでいた。だから単純に会いたかった。それにいくら未来と言っても過去に戻ることはできません。今いる僕も物理的にここに存在はしていません」
どういうことだ?俺は聞く。
「未来ではタイプトラベルの研究はされています。ただやはり肉体を過去や未来にトリップさせることはまだ出来ていません。その代わり仮想空間を使うんです。といってもこの時代の仮想空間とは違い、脳を通じて記憶や意識を次元を超えて過去や未来と繋げるんです。繋がった思考が現実のような世界を作り出して会話をすることができる。今はお母さんの脳に僕が入り込んで、過去のお父さんの記憶を探って繋がりから会話をしています。ただこれも自由にできるわけじゃなくて、まだ実験段階です。本来なら一般人には使えない装置なんですが、僕は大学院でこの研究をしていて、イレギュラーな方法で利用しています。時間も長く使えません。お互いの脳にも副作用が起こるかもしれませんし」
「それで強烈な眩暈がしたのか。あれが俺と海斗の脳と脳とが繋がった合図だったわけか」
その通りです。海斗は続ける。
「でもやっとお父さんと会えて安心しました。お母さんの言う通り、イケメンだし、嫌な感じもしない。お母さんが惚れるのも分かります」
当たり前だろ。照れくさいのを隠すように俺は言う。それから俺はすっかり成人した海斗と話し合った。俺と美幸の馴れ初め、海斗が産まれてどんなに嬉しかったか、今は家族の為に仕事を頑張れていること、、、。時間も忘れて時には大笑いもしながら。
急に海斗の腕時計からアラームが鳴る。
「お父さん、そろそろ時間です。残念だけど、これで最後です。今日は会えてよかった。ずっとお母さんの話でしか聞いたことがなかったから」
「俺もだ」
ずっと一緒に住んできた家族のような違和感のない感覚。これが本当は夢であっても海斗の話が嘘であっても、俺は今日のことを一生忘れないだろう。
「あつ、そうそう。お母さんからお父さんに会ったら伝えてほしいことがあるって言われてたんだ」
伝えてほしいこと?
「ありがとうって。お父さん、ありがとうって。結婚してくれてありがとうって。今でも世界で一番お父さんのこと愛してるって。ずっと愛してるって」
「俺も愛してるぞ。美幸のことも海斗のことも世界で一番愛してる。愛してるぞー!」
めいいっぱいの声を上げて俺は言い返した。
「お父さん、ありがとう」
海斗が言い終わると、また強烈な眩暈に襲われた。海斗の「お父さん、ありがとう」は薄れゆく記憶の中で繰り返されていた。
気が付くと、いつの間にかトンネルから抜けていた。田崎村の田園風景が目の前に広がっている。俺は海斗とのことを余韻に浸りながらも、いつも通りにその日の仕事をこなした。相変わらず出迎えてくれた鳥越さんのおばあちゃんと島村さんのおじいちゃん。
「おや、今日はどうしたんだい?いつもより嬉しそうじゃないか」
そう言われながら、色んな人の温かさを知った1日だった。帰るときに、美幸と海斗の為に何かお土産を買っていこうか。今日のことを美幸に話してみようか。いや、絶対に信じてくれないだろうな。今日ほど仕事が終わるのがワクワクした日はなかった。
数日後、何者かによる深夜の不審火で家が燃えた。俺は寝ていた美幸と海斗を助けだすことに夢中で、その後の記憶はなかった。
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