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Part 2『弱い自分とMOROHAのライブ』

ルーツを振り返る独白企画『I am ASOBOiSM』パート2。
自尊心爆発の駆け出し時代と、活動の転機となったライブ体験をお話します

聞き手・原稿◎高木“JET”晋一郎

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“一番最初に作った曲は「ハチ公」”

 高校卒業後は大学に進学したんですが、音楽サークルに入ることもなく、高校の軽音バンドも解散したんで、ドラムを叩くキッカケがなくなってしまったんですね。ただ音楽活動は続けたかったんで、そのときに初めて父親の持ってたギターを触りました。だから、ギターを始めたのは、中学生の時にYUIさんを聴いてたというのもあったんですけど、ギターで何かを表現したい、シンガーソングライターになりたいっていう気持ちよりも、家にギターがあったからちょっと試してみようかなっていう軽い気持ちでした。そこでまずはYUIさんやテイラー・スウィフトのカヴァーを始めた……んですけど、そこで問題になるのは、FとかBのコード。そのコードを弾くのに必要な、人差し指で全部の弦を押さえる「セーハ(バレー)」が全然出来なくて、一曲もカヴァーが出来なかったから「これは……無理かもしれない……」って。(笑)。一方で「セーハが出来ないんなら、セーハを使用しないコードの曲を自分で作ればいいじゃん!」ってひらめいたんですよ。それで自分が押さえられるコードだけで曲を作り始めたのが、シンガーソングライティングを始めたキッカケでしたね。そういう逆転の発想から「シンガーソングライター:たなま」は生まれました(笑)。

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 一番最初に作った曲は「ハチ公」っていうタイトルの曲。ご主人さまを待ってるハチ公の気持ちを歌った曲でしたね。それを戸塚のスタジオで録って、友達に聴かせたら反応も良かったし、アメリカ帰りの自尊心爆上がりの時期だったんで、「私って天才だわ~!」って(笑)。それで曲をめちゃくちゃ作り始めて、YouTubeにもちょこちょこアップするようになったんですよね。それと同じ頃に、YUIさんのプロデューサーだった方の新人発掘オーディションが渋谷のライヴ・ハウス「Milky Way」であって、それに戸塚からギター背負って参加したら受かっちゃって、そこでまた自尊心爆発。「YUIさんのプロデューサーも認めてくれて、事務所にも所属することになったし、マジで人生チョロいわ~、私が天才なばっかりに……」って、完全に人生なめてました(笑)。それが19歳のとき。

 そこから正式に“たなま”っていう名前でシンガーソングライターとして活動を始めました。当時のキャッチフレーズは「絵本系シンガーソングライター」、ライヴもそうなんですけど、「ツイキャス(TwitCasting)」を自分で配信して、そこで知名度を高めたり、リスナーの数を増やしていって。ありがたい事にすぐにCDも全国流通の形でリリースしてもらえて、色んなCDショップに自分のCDが並ぶのを見て、完全に人生バラ色っていう感じでしたね。
 ただ、本格的に音楽活動を展開するようになってくると、対バンや合同ライヴでの集客だったり、CDや物販の売上みたいな、現実的な部分も見えてきて。初のワンマン(2015年8月8日)ではお客さんを100人呼べるようにっていう目標を掲げて、「ワンマンやります」っていう看板を自分で作って、渋谷のスクランブル交差点とか、川崎や横浜のアーケードとかで路上ライヴをひたすらやって。友達の応援もあって、ワンマンライヴは一応形になったんですけど、そのあたりから現実が見えてきたんですよね。
 当時の事務所にはすごくお世話になったし、いまも感謝はしてるんですけど、すごく大きな事務所では無かったから、予算はもちろん限られていて。自主企画ライブをやっても、赤字は自分で補填する必要があったから、自分でチケットを買って友達にくばったこともあって。「ライヴをやるためにバイトして、その給料でライヴの不足分を払うのってなんだんだろう」とか、色々悩みも多かったんですよね。それからもっと悩んでたのは「女性シンガーソングライター・シーン」でしたね。その界隈って、シンガーソングライターなんだけど、アイドル的なキャラクターを求められることが多かったんですよ。私は実生活では下ネタもガンガン言うし、品のない会話もするんですけど、ライヴ現場だとそういう本来の自分は隠していて。だから攻撃的なことも、過激なことも、政治的な発言もしない、「可愛いたなま」のイメージを自分で組み立てなくちゃいけなかったし、そういう人間を演じなくちゃいけなかった。

“「自分は弱い」ってことに気づいてしまった”

 お客さんもそういう“たなま”を応援してくれたし、そこで真摯に丁寧な意見をくれる人も多かったんですけど、ライヴが終わって物販でお客さんとコミュニケーションを取るのとかも、ちょっと大変にもなってきて。それは会話するのが嫌とかっていうより、私は曲作りとか表現活動がしたかったのに、なんでアイドルの握手会みたいなことをしなくちゃいけないのかな、っていう部分でしたね。この世界に順応して、高みを目指さないで、狭い世界で承認欲求を満たすっていうは、私は嫌だったんですよ。音楽はすごく楽しいからこそ、音楽でご飯を食べていきたい。でも、それは狭い世界で愛想を振りまいたり、お客さんと握手してCDを売ってじゃなくて、自分の音楽をもっと世の中に響き渡らせて、その上でご飯が食べられるっていう状況を作りたいって、その当時はすごく強く思ってました。同じように思ってた女性のシンガーソングライターは少なくなかったと思うし、早くこの状況から抜け出したいって思ってた。そしてその世界から抜けて、メジャーになっていったり、有名になっていく人をみて、不安な気持ちにもなっていって。
 でも、それはその状況が悪いんじゃなくて、自分のせいだってことにも気づいてたんですよね。作詞や作曲の能力には自信があるけども、自分はヴォーカルが飛び抜けて上手いって訳ではないことは自覚してたし、このままではダメなんだろうなって。はっきり言えば、「自分は弱い」ってことに気づいてしまった。それで自分の音楽は弱い、ありきたりな音楽なのかも知しれないって、どんどん自信を喪失していって。だから自分の置かれている境遇と、自分がいるシーン、そして自分の能力に対して、すごくフラストレーションを感じていたんですよね。それが20歳の終わりから21歳になるぐらい。
 そんなときに、MOROHAのライヴを青山の小さいライヴ・ハウスに観に行って、とてつもない衝撃を受けたんですよね。MOROHAのポエトリー・リーディングに近いラップとギターのセッションというスタイルにすごく感銘を受けたし、とにかくリリックの内容が刺さりまくって、大号泣しながら帰るぐらいショックな体験になって。

 MOROHAのライヴを見て、いま自分のやってることは「自分で『女性シンガーソングライターはこういう風にしなくちゃいけない』ってことを決めて、それに囚われてしまってる」って分かったんですよね。可愛い服を着て、真っ直ぐな歌声で、ポジティヴな歌を作るっていう、そういうキャラクターで“たなま”はいるけど、それは本当に自分のやりたかったことじゃなくて、女性シンガソングライターのテンプレートに従ってるだけで、このままじゃYUIさんやmiwaさんの二番煎じどころか、十番煎じ、1000番煎じみたいなことをやり続けることになるだろうし、そこに陽の目は当たらないなって。そういう風に自分の中ではなんとなくモヤモヤと思ってたことが、MOROHAのライヴで見透かされたような気がして、これじゃダメなんだ、って。それでお世話になった事務所に「“たなま”はもう辞めます。事務所も退所します」ってお伝えして、「弾き語りのシンガーソングライターとしてのたなま」での活動は終了しました。
 それからMORAHAの影響もあって、日本のラップやヒップホップを聴くようになったんですよね。でも、全然知識が無かったんで、まずはスチャダラパーさんから聴き始めて。それから戸塚地区の先輩であるサイプレス上野とロベルト吉野さんや、「フリースタイルダンジョン」がブーム真っ只中だったんで、その流れでCreepy Nutsさんも聴き始めて。影響が大きかったのは2016年の秋に出た雑誌『Switch』の「みんなのラップ」(2016年10月20日号)特集でした。日本語ラップのビッグネーム・アーティストがほとんどっていうぐらい登場してたので、それをめくりながら、登場するアーティストの音源を聴き進めていって。何回読んだか分からないぐらい読みましたね。それで自分でもラップを始めて、その半年後にASOBOiSMが誕生することになりました。

(Part 3に続く...)

アルバム「OOTD」はこちらから

"PRIDE" Music Video


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