デザインをする意味
美大に行っていない。なので美大卒のデザイナーのことを無条件に尊敬している。
なのに美大卒の人たちはこぞって「美大では何も教えてくれないし何も学んでない」と言う。
へえ〜と言いながら、そういうのいいよ、と何度も思ってきた。
先日、美大生の卒業制作集を見た。
卒業生たちがそれぞれの自己紹介に「大学生活では何もしてない」とか「料理や散歩、好きなことしてただけの4年間」とか書いていた。
ここまでくるとマジなんだろうなと思った。
卒業制作もたしかにみんなイマイチなにかを作っている感じがしない。
「不思議なものって怖いので不思議なものを描いたり集めてみた」みたいなのが多かった。
その中でひとつ、「自然を美しいと思う心って不思議だから、美しいと思うものを描いた」という人のことが共感できた。
写実的な絵って究極なんのために描くんだろうってよく思う。
カメラがある時代に、デッサン力の強化以外で、なんのために模写するんだろうと思う。
ただ、自然や人間の表情というのは、似たようであっても二度とないものだから、好きだと思った時を自分の出来る表現で現して残すことは素晴らしく尊いと思う。
つまり、模写や絵を描くことに無駄なんて何一つないということだね。
最近、飼い猫を眺めたり写真を撮ったりしている時、この手触りや毛並みの愛くるしさは写真には映らない、と思う。
リンダリンダを思い出すよね。
どう撮ってもどう補正しても、目で見る可愛さや愛おしい手触りが映らない。インスタでうちの猫を見ている人たち、直接見たらさぞ驚くだろうなと思う。
例えば芸能人に遭遇した人が言う「テレビで見るより顔ちっちゃくて可愛かった〜!!」ってやつ、毎度なんだそれと思いながらも言いたいことはわかる。
「デザインは何かを伝えるためにある」という言葉がなんだか取ってつけたようで嫌悪感を感じる時期があった。
最近、奉仕や福祉的なデザインの案件を手掛けるうちに、「何か伝われば良いな」「伝わりやすいといいな」という湧き出る優しい気持ちもその言葉に含まれているのだと気づいて、受け入れられるようになった。
お祝いの気持ち伝わると良いな、素敵な曲って伝わると良いな、大好きだよって伝わると良いな
と、色んな気持ちを込めて色を選び形を作っている。
母の幼少期に悲しい事件が起きて、そのあと母はどんなお絵かきの時も黒とか茶色しか使わなくなってしまったらしい。
その事件の裁判の際、子どもの心傷の資料として母が描いた絵が提出されたという話で聞いた。当時は「モノをその通りに色を付ける気力がなくなってしまったのかな」と思ってた。
今になると、当時の母の目に映る世界が真っ黒だったのかもしれない、と思う。
私が美大に入ったらこの不思議を卒制にする。