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6ヶ月経って思うあれこれ

ノルウェーに来てから、いつの間にか半年が経ってしまった。

2月に入ってどんどん日が長くなっているからか、冬眠明けで寝ぼけたクマのような気分で毎日を過ごしている。クマになったことはないから本当のところはわからないけど。野生の動物は寝ぼけてる暇なんてないのかもしれない。

とか考えたりしながら。
生まれてこの方ゆっくりじわじわと季節が変わっていく日本の感じに慣れていた私は、ノルウェーのすばやく振れ幅の大きい季節変化に対して、暗い時間がだんだんに長くなる10〜11月の秋と同じくらい、もろにダメージを受けている。

思考が止まらない。眠れない。嫌な夢ばかり見る。動悸がひどい。眠い。気力がない。不安に苛まれる。疲れる。貧血っぽさが抜けない。

でももう、秋のようにうろたえなくなった。むしろそんな地球のリズムと、自分がいる場所の変化(北緯36度→北緯60度)を全身で感じられる自分で良かったと思える。

日々の忙しさや起こることにいっぱいいっぱいになって、変化なんて無視しようと思えばできてしまう時代かもしれない。

でも毎日暮らすことだけに一生懸命になって、これから生きていくことについて考える時間、そんな豊かな時間を持つことができて、本当にうれしい。

なので半年経って思うことをメモしておこうと思う。

ノルウェー語のこと

自分のノルウェー語の習得状況について感じることを、週ごとにまとめてメモしている。これは自分が新しい言語をどう習得していくのか、観察したい理由があったから。
具体的には、これまで仕事で関わってきた病気や障害で声の出せない子どもたちが、自分の中で言葉を獲得していくプロセスを疑似体験できるのではないか、そして自分の言語獲得の考察が彼らを理解するヒントになるのではないかと考えたから。

これはやっておいて、とても良かった。
周知の事実だけど、コミュニケーションのための言語というのは一夜漬けでどうにかできるものではないと、身を以て体験し、理解した。

言語はじわじわ来るもの、けど自分の中に着実に貯まっていって、いつか溢れ出すもの。

小・中・高・大学を通して英語を勉強したのとは、まるで違う。学校のテストや英検などの資格試験で点を採ることと、コミュニケーションを取るために言語を身につけることとは、当然ながら全く違う。
そう考えると、やはり私が受けてきた英語教育というのは、コミュニケーションが取れることが必ずしも最終ゴールには入っていなかったということか。英語科の指導要領を読んだことないから詳しくはわからないし、今の子どもたちが習う英語はもっと違うんだろうけど。

「溢れ出す瞬間」というのは、自分でも感じることができた。
例えば、数ヶ月前まで、ノルウェー語の fot(足)・agurk(きゅうり)・potetgull(ポテトチップス)の3つの発音がどうしても真似できなくて苦戦していたのが、ふと口にしてみたら不思議と言えるようになっている。会話文の中ではまだ噛んでしまう気もするが、単語単体では発音やアクセントがどんなだったかを忘れることはなくなった。

また、かつて日本で両親の国籍ミックス(日本の認識ではハーフ)の子どもたちのベビーシッターをしたときに、両親の母語両方を話せる年上の子が「〇〇(弟)はまだ日本語をしゃべれないけど、わかってるから日本語で話しかけて大丈夫だよ!」と、私に教えてくれたのを思い出した。私も今まさに弟くんと同じ状態だと思った。ノルウェー語や英語を聞いてだいたいは理解できるけど、話すとなると、なかなか言葉が出て来なかったりたくさん間違えたりする。

ということは、聞いて理解する力と、理解していることを表現する力は必ずしも一致・相関しないのだと気づいた。

● 言語は時間をかけながら着実に貯まっていき、いつか溢れるもの
● 聞いて理解する力と、理解していることを表現する力は必ずしも一致・相関しない

実体験を通じて得たこの2つの発見は、私にとっては大きな希望である。
多分、おそらく自分の声を出す(話す)ことが難しい子どもたちにとっても、その親御さんたちにとっても。

仕事柄、「病気や障害により自分の声でコミュニケーションが取れない方でも、何も感じていない、理解していないわけではないんですよ」ということを常々、暑苦しいくらい真剣に語り続けてきた。それでも、無理解や差別は自分を表現できない人のほうに矢のごとく降りそそぐ。
もう!どうしてこうなっちゃうんだろう?といつも悔しく、もどかしく思う。😩

だから私は実体験を元に、彼らが自分を表現できなくても理解していないことはないという、より明確な証明ができるかもしれない。そのためにできる具体的なことをもっと考えられるかもしれない。今そういう希望を感じている。

ちなみにノルウェー語だけでなく、自分の英語にも変化を感じている。
例えば英語の映画を観ていて、聞き取れる割合が格段に増えた。頭の中でセリフをディクテーション(聞き取り→書く)をしている感覚が強い。仮にスペルを知らない単語があっても、文全体を聞き取る。すると、単語自体がわからなくて頭の中で□やxに置き換わったとしても、文法構造と場面文脈からわからなかったそれが何を意味するのかが、自然とわかる。これは幼い子どもが、文字を書けなくてもしゃべれるのと一緒である。

そんなわけで、私には外国語学習歴があるいうアドバンテージは確かにあるが、仮にそうだとしても。
どんなに重度の障害を抱えている人でも、知的障害や精神障害があろうと、コミュニケーションについて何をしても無駄、なんてことはない。相手からの反応がないからと言って、諦める必要は全くない。
「その人に向けてかけた言葉や時間の分だけ貯まっているものがある」というのが、私の中で信念から確信に変わった。

既存概念の崩壊と、自由を得ること

この半年、ノルウェーにいてつらいと思うことも多かった。それは自分の中でいつの間にかルール化していたもの、そういうものだと思っていたことが、どんどん壊されていく感覚があったから。

なんだ、そりゃ良かったじゃん自分、おめでたい!と今なら言いたくもなるが、やはりその渦中にいるとわけがわからず、自分の足元で地震が起き続けているような恐怖を何度も味わっていた。

日本を離れ、身近な人たちから離れ、新しい人たちに出会い、暮らすことに集中する時間ができたとき、物事を俯瞰できる状況が必然的に現れ、自分の中の多くの既存概念が壊れていった。自分にどんな思い込みがあったかに気づいて心底驚いたり、今までピンと来なかった誰かの言葉が「そういうことだったのか!!!」と腑に落ちたり。

それは震えるほど恐怖を感じると同時に、自分が自由になる瞬間でもあった。頭を柔らかくし、過去の成功体験やこれから起こることへの恐れに縛られた行動を起こさなくなる。

多分、本を目の前に持ってきても全く読めないように、仕事でも人との関係でも何でも、近すぎて見えないというのは往々にして起こるのだろう。だから私にとって、今までの全てのことから一旦距離を置くことができたのは大きな意味があったと感じている。

何かに行き詰まりを感じたら、一瞬でも離れてみるのは悪いことではない。離れてみることで見える何かがきっとあるから。
別に悩んだり行き詰まったりしていないときでも、いつでも離れていいんだと思えていること、そして実際に離れて俯瞰する機会をつくることで、自分にとって何が良いのかを深く深く見つめられるのだと知った。

自分が得た感覚と、今ここにいてそんな感覚を得られたことがすごくハッピーだと、ある移民の知人に話していたとき、サラリと素敵なことを言われた。

「そうだろう?だからアウトサイダーでいるっていうのは、最高なんだ。

移民は、まずこの国にいる自分の母国出身の人とつながろうとし、次にこの国の人たちとつながろうとし、いつしかこの国の人になろうと努力してみる。でも最終的に、自分がこの国の人になることは永遠にできないんだと悟る。

結局いつだって「アウトサイダーな自分」としての立場で物事を俯瞰せざるを得ないから、ノルウェーだったらノルウェーで生まれ育った人、日本だったら日本で生まれ育った人には見えない社会の現象・傾向が見えることがある。私の場合は、日本を日本人の立場で外から見ることができたように思う。

それに、自分の選択に誰かが責任を取ってくれることはない。アウトサイダーでいることは、今この瞬間、何が本質か、自分にとって何が大切かを常に考える必要がある。
それはエネルギーの要るタフな生き方かもしれないけど、物事を常に俯瞰して見られるという、やっぱり何からも完全に自由な"アウトサイダー"の特権でもある。

だからと言って必ずしも国を出なくても、物事から少し距離を置くだけでいいはず。

あ〜、この先日本に帰ったとしても、この感覚を一生忘れたくない!
経験したから、私の中にもアウトサイダー精神は残っていくだろうか...?
そう願う。

年齢に関係なく挑戦する意義

子どもの頃から、何となく海外に住むことに憧れていた。高校生、大学生の間に留学に行くという選択肢もあったと思う。ただ、このノルウェーに住む計画以外は、どのタイミングも私にとっては現実的ではなかった。

若いうちに、いろんな経験をするのが良いと言う。若さゆえの勢いも、確実に背中を押してくれる。

今も十分若いうちに入ってるけど、私は社会人として働く経験があったからこそ、今ここで見えるもの、見たいもの、考えられること、考えたいことがどんどん出てきている。これまでの人生経験がなかったら得られなかったことがあると、今はよくわかる。歳を重ねる楽しさとも言えるかもしれない。

若いって、それだけで理不尽なことも結構多い。経験の少なさから嫌なことを言われるとか、見下されてしまうとか。日本だったら、先輩の顔色を伺わなければいけないとか。幸い私自身は、自分が居たい環境を選び続けてきたので、嫌な思いをすることは比較的少なかったように思う。

でも経験がないから、自分には選択肢がないように思えたり、判断しかねて悩んだりすることもあった。もし今より若いときに海外に行っていたとしたら、私は自分を追い詰めて結構ボロボロになっていたんじゃないかという気がする。

だからどんなときだって、何かが起こった今が1番ベストなタイミング。そして私が選んで積んできた経験は、全て私だけのユニークなもの。

そうだそうだ〜そうなんだ〜!と自分の中で思っていたちょうどそのときに、フィンランド大使館が素敵な記事をシェアしてくれていた。

「何も知らない人生だった」50代目前でフィンランド移住した人気美容師の失望
(FRaU / 北欧在住フリーライター小林香織さんによる記事)

いいな、かっこいいな。いくつになっても挑戦できる大人に、私もなっていきたい。
いつか国外への旅行ができるようになったら、ヘルシンキに髪を切りに行きたいな。...今はまだノルウェーで髪を切る勇気ない😝(笑)

自分の生まれた星・役回り

周りを見渡すと、出会う人の話を聞くと、人生って本当にフェアじゃない!!と思うことが多々ある。

今までよく頑張って生きてきたねというようなつらい経験を過去にしていたり、出口が見えない状況に現在進行形で悩んでいたり。乗り越えられない試練はないと言うし、まぁそうなんだろうけどそういうことじゃなくってさ〜!もう!と悔しくなる。

が、ただただ。彼らが苦境にあっても今生きていてくれて良かったと思う。

一方で、なぜか、とてつもなく恵まれている自分がいる。人生だからつらいことや大変なことと無縁なわけではないけれど、自分の知っている人たちと比べたら不思議なくらい、のほほんとやってきた。ありがたい。

これまで全く縁のなかったノルウェーに来ても、例えばこんなことが頻繁に起こる。

店員さんや道ですれ違う人が、にっこり笑いかけてくれる。
知らない子どもがすれ違いざまに「Hei(ハイ)」と挨拶をしてくれる。
明らかに私が外国人なのに、知らない人が道を尋ねてくる。
散歩中にすれ違ったおばちゃんが「そこ凍ってるから危ないよ、こっち側を通りなさい」とか世話を焼いてくれる。

私にとっては日常茶飯事なので、ノルウェーの人たちはやさしいなぁフレンドリーなんだなぁ☺️ と思って「こんなことがあってうれしかったよ」と人に話すと、みんな口を揃えて「それは普通のことじゃない😆」と言う。ノルウェー人は基本的にシャイだし、あまり他人と関わろうとしないから、それはあなただから起こってることだよ、と。

「またまたそんなお世辞を...」と思ったりもしてあまりピンと来ていなかったが、よく考えるとノルウェーだけでなく、日本でもフィンランドでもこういうことは頻繁に起きていた。そういえばどこへ行っても友達づくりに困ることもなかった。実は今まであまり気にしていなかっただけで、環境を変えたから、自分に起こっていることがより明確に見えるようになったのかもしれない。

自分が出会う人々を怖がらせていないらしいという点では安心したが、なんだかものすごく不思議だった。
なぜ自分には人がやさしくしてくれるのか、わけがわからないし、それこそ全くフェアじゃないじゃないか!みんなそういうやさしさを持ってるんだったら、もっと大変な人にそのやさしさを向けたらいいじゃん…!

でも、だんだんそういうものなんだと思うようになった。ラッキーなことに、私はそういう星の元に生まれたのであり、そういう役回りなんだと。

知らない人であっても、家族や友達であっても、私はみんなのあたたかな眼差しを、おそらく他人以上に受けながら、その愛情と眼差しによって自然に守られてきたんだと思う。だからなんというか、何をやっても、なんとなく、なんとかなってしまう。

そして幸い、私は仕事でもプライベートでも、何らかの生きづらさを抱えて来た/抱えている人とつながることができる。
だから私が彼らと関わることによって、愛情なのか勇気なのか喜びなのか、何でもいいけど、何かいいものが循環すればいいと思う。そしてみんなが生きていてくれたらいいと思う。

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あっという間に過ぎた6ヶ月間。コロナ禍で未だたくさんの人が海外行きを諦めなければならない中、こうしてノルウェーに来られている事実に改めて驚き、自分の幸運さを想う。

だからこれからの6ヶ月も、きっといい時間になる!😎✨

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