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ただ生きているそれだけで.

結末は悲劇か、喜劇かー。この話は私にとっては自分史上最大のスペクタクル事件だった。

2020/2/24(月・祝日)
この日予定していたスケジュールは新型コロナの影響でキャンセルになった。このところモヤモヤしていることもあったし、胃の調子も連日の食べ過ぎ・飲みすぎもあってリセットしたい頃合いだった。

自分なりのリセット方法やリフレッシュ方法はいくつかあったが、あまり食欲も沸かないので固形物を摂らずに野菜ジュースで済ませ、部屋をいつもより”ちょっとだけ”丁寧に掃除した。洗濯をしながらベランダに布団を干す。陽の暖かさは春なのに、窓を開けて入る風はまだ冬の様相だった。
片付けたいこと全部をクリアできたわけじゃないけれど、気持ち的に少しスッキリしてきた。
それで思った、身体もスッキリさせたいぞ!と。

近所にいわゆるスーパー銭湯があって、たまに行く。私にとってはご褒美みたいなもの。
仕事で疲れ(肉体的疲労)が蓄積してきた時や、ちょっとボーっとしたり考え事を整理したい時に利用することが多い。それでその日、祝日の昼過ぎに出掛けることにした。この時はまだ、あんなことが起こるとは知る由もなかった。

ここまで書いて、先の展開をご期待下さった方には申し訳ない。

結論から言おう。
、、、、『のぼせて倒れた』以上。
(ここからは少し生々しい怪我話になるので、苦手な方は遠慮なくスルーしてください)

状況はこうだ。そこには岩盤浴も併設されていて、久しぶりに岩盤浴に入った。そして、出てきて少し経ったらクラクラしてきた。
水分はこまめにとっていたのが過信になったのは否めない。加えてその日、野菜ジュースしか摂っていなかったのも災いしたかもしれなかった。目の前がカラーからグレー単色になった。だんだん外の音が耳には届かず遠くに聴こえていく。

(どこか横になれる場所を探さないと。)
歩いて探したあとの記憶はない。

「大丈夫ですかーーー?」と声が聞こえ、目を開ける。状況がつかめないが、(そうかさっき横になれる場所を探して倒れたんだ)と認識した。
慌てて「すいません」と言って立ち上がろうとした。視界に血の跡が入ってくる。鼻血かと真っ先に疑い右手で鼻を押さえたが血は付かなかった。(唇かとも思ったがその確認は後にしよう)
介抱してくれた女性に「あちらで休みましょう」と言われ、自力で立ち上がり歩いた。
そこでまた意識を失った。
次に目が覚めたとき、女性が私の手首の脈をとってくれていた。足はそこにあった椅子に乗せられ高く持ち上がっていた。
「わたし看護師なんで」と女性は言った。

意識が戻ってくる。
(ああ、立ち上がって歩いてまた気絶したんだな。そういえば血の跡はどうなっただろうか。あー何やってんだよバカ!ほんとすいません。こんな真っ裸で恥ずかしい。あの出血はどこからのものだ?あー、ホントやっちまった…などが頭をかけずり巡っていた)

再び女性に謝罪とお礼を言っていると、施設のスタッフが2名かけつけてくれた。本当に面目ない。
女性は自分のタオルを私の顎に押し当てながら「けっこう深いから、これは縫った方がいい」と言ってくれた。(え、マジですか。そんなに?)

私:「鼻は大丈夫ですか?」/ 女性:「大丈夫よ」

私:「唇は?」/ 女性:「大丈夫」

私:「歯も?」/ 女性:「ええ」

スタッフの方が「救急車、呼びますね?」と言い、女性も「そうして下さい」と返す。

「すみません、大丈夫です。大分意識戻ってきました。お騒がせして本当に本当に申し訳ないです。私、薬剤師なんです。救急車は大丈夫です。今日は祝日だし、この時間ならまだ休日診療やってると思うので、外科もあるので、そこに行ってみます」と伝えた。(この姿で救急車は勘弁、それが本音だった)

それを聞いていたスタッフの方が「そうなんですね。本当に呼ばなくて大丈夫ですか?お一人ですか?お車ですか?」など確認してくれた。
「残念ながらお一人様です。車で。少し休ませてもらってからゆっくり行きます」と答えた。
一応近くの病院を探してきますと言って下さった。(重ね重ね申し訳ありません)

顔色も戻ってきたことを看護師の女性も確認して下さって、女性はスタッフの方に「タオル一枚いいですか?彼女に貸してしまったので」と新しいタオルをもらって浴室に向かっていった。
お礼を言っても言っても足りないくらいの恩人だ。せっかくの彼女の休日を台無しにしてしまった。
そして思う。もし私が同じ状況に遭遇した時、果たして咄嗟の応急処置ができるだろうか、と。

少し休んでから(さすがにこのボサボサの濡れた頭のままじゃなーと思って)髪を乾かし、フロントで最後にまたお礼とお詫びを伝えて施設を後にした。 

結局保健センターで行われている休日診療へ行くことにした。スタッフの方が調べてくれた最寄りの病院では断られる可能性もあるとのことだった。
休日診療は私自身、当番として入っていることもあって何となく安心感はあった。
休日診療は日曜・祝日の日中、病院やクリニックが診察していないことによる不具合を埋めるための措置で、スタッフは当番制。医師、看護師、薬剤師、検査技師などそれぞれ持ち回りで行っている。
安心感と同時に、知り合いの薬剤師の方々にもお会いすることになるので、ここでも恥じらいの方が勝る。言い訳のしようもない。腹をくくる。

受付ギリギリに間に合って、その日最後の患者になった。看護師さんからは『あらー、けっこういってるね』とやはり同じことを言われた。先生も平穏に1日が終わろうとしていたのに、最後の最後に面倒な患者が来たなと思っていたかもしれない。
台に乗せられ、手際よくオペの準備が始まった。消毒をし、局所麻酔を打つ。痛い。
看護師さんが「で、お仕事は?」と聞いてこられ、私は「薬剤師です。実はこちらでも当番させてもらっています」というと、数人の看護師さんから「あらー」と笑い声が立ち上った。
先生が「4ゼロと5ゼロ頂戴」と言った。糸の太さを変えて処置は施された。
休日診療は救急なので、翌日紹介状を持って近くのところへ行くように言われた。
「どこがありますかね?」と聞くと親切な看護師さんが「お住まいが○○なら××内科がいいんじゃないかな。あの先生は外科で、こちらでも当番に来ていますよ」と教えて下さった。

会計が終わり薬をもらいに薬局へ寄ると、ニヤニヤとみんなこちらを見ていた。
「同姓同名の人がいるんだなーと思っていたら」とおっしゃるので、「ええ、それは私でした。なんともお恥ずかしい。この時間にスミマセン!」と伝えて1日分のお薬をもらった。

それから翌日紹介状を持って近くのところへ行くために早退しなくてはならなくなったので、会社の上司にメールを打った。
「大丈夫か?なんなら明日休めば?」とありがたいお言葉を頂いた。しかし、休んで治るものでもないし、できる限り普段通りの方が私もかえって良かったので、その旨を返した。

ひとしきりの出来事を会社、翌日伺ったクリニックでも説明し、みんな心配しながらも笑ってくれた。
クリニックの先生も「正面から見たら分からない場所なので安心して大丈夫ですよ。毎日ガーゼの交換だけで構いません。来週抜糸しましょう」と言って下さった。

こういうとき、本当に本当に人のありがたみを痛切に感じる。
そして起きたことの悲劇はあれど(しかも自業自得!)それでも私はラッキーだった。

例えば介抱してくれた方が看護師さんだったこと。
たまたま時間帯が夜ではなかったこと。
傷も顔面とはいえ、見えにくいところだったこと。
何より打ち所がもっと悪かったら死んでいたかもしれなかったこと。
対処してくださった全ての皆さんが優しく温かく、そして笑ってくれていたこと。笑ってごめんね、と言われても、いやいや私も自分のことなのに笑ってしまいます、と思っていた。
その笑いは私にとっては"救い"でもあったのだ。
元を正せば、わたしの本当に不注意からたくさんの方々を巻き込んでしまったわけで、そこには本当に申し訳なさしかないのだけれど、
今までこれといって骨折も手術も大きな病気を何一つせず、健康が取り柄ですと言っていた私に、傲慢になるんじゃないぞ!と喝を入れてもらった、そんな思いだった。

今、世界では新型コロナウイルスのことで不安になったり、情報の錯綜などが頻発している。
私も同じように右往左往している一人だ。
だけど今回のことで強く思った。
人間、死ぬときはコロナじゃなくても死ぬんだな。
一瞬でも、初めて『死』を近くに体感した。
それは私のような自業自得の不注意で起こることもあれば、本当に悲劇的な運によって起こることもある。それは分からない。
いずれにせよ、生きているということだけで、なんて奇跡なことだろう。

ただ生きているそれだけでまず感謝しよう。
今日を生きた、
ご飯がおいしく炊けた、
お味噌汁がしょっぱかった、
お日様に当てたタオルから太陽の匂いがしたそんな日常の小さな喜びをひとつひとつ丁寧に積み重ねたいと、改めて思った。

それでも、さすがに皆さん心配してくださり、その心配をどうにか和らげたい気持ちもあって、割と無理して笑ってた一週間。
ふっと張りつめていた気持ちが切れたとき、
理由もわからず涙が溢れ出した。
『大丈夫、大丈夫』と、自分でも言い聞かせていた節もあったのだろう。
その時初めて、わたしは自分が意識を失って怪我をした事実をやっと悲観して泣くことができた。

何でも最初からポジティブにはいけない人間で、 
一端しゃがんで踏ん張ってからのジャンプしか出来ない。ほとほと不器用で面倒くさい人間だ。
それでもちゃんと泣いたあとには、最初に思っていた(どこかで思い込ませようとしていたとも言える)感謝は、「口からの感謝」から「心からの感謝」へとしっかり変換され内臓まで染み渡ったものとなっていた。これを"実感"と呼ぶんだなと思う。

だから今、いろいろある中で無理やり元気でいる必要はないのだとも思う。
本当の意味で『当たり前にある幸せ』に感謝できるようになるまで時間は必要かもしれないし、そこには自分を見つめ直す時間や労力もいる。
それを疎ましく思わずに向き合うことができたとき、『ただ生きているそれだけで』いいんだと、
そして明日死ぬかも知れないならば、やりたいことはやっぱり先延ばしにしては勿体ない、痛切に感じた。

このお話に特段のストーリー性はない。
みんな、お風呂の入り方には注意!くらいで。
でもね、私にはお蔭様で喜劇になりました、とさ。
そんなオチもない話です。
ここから一つ学んだことがあるとすれば


起きたことを変えることはできないけれど、
それをどう捉えるかは自分次第なのだ。
今日も生きてるただそれだけでありがたい。
だから今を大切に生きないと。
人生は有限なんだ。

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